第11回 戦後に消された人物
今回は、「戦前には英雄視されたけど、戦後に消された人物」を取り上げます。
いっぱいいますが、有名な三氏について。
まずは楠木正成。
まあ、彼は有名なので、詳しくはWikipediaを見た方が早いですが、南北朝時代に、南朝に忠誠を尽くし、最期は湊川の戦いで亡くなったので、言わば戦前の「忠誠」、「尊王」的な観点から英雄視されてましたが、戦後はほとんど教科書にも出てこない人物になり、逆に戦前には、「悪役」とされてきた、足利尊氏が有名になりました。
続いて、広瀬武夫。
日露戦争で活躍し、最期は旅順港閉塞作戦で戦死。
戦前は、その勇敢な行動から、万世橋駅(現在の秋葉原駅周辺)に広瀬の銅像が建てられたほど。
「軍神」広瀬と言われ、かなりの尊敬を集めた名将として、扱われてましたが、戦後はもちろん、戦前の軍国教育がすべて否定され、無名な存在に。
そして、今回、最も取り上げたいのがこの人物。
山中鹿之助(1545~1578)
多分、ゲーム「信長の野望」をやったことがある人しかわからないかもしれません。
鹿之助は、通称で名前は「幸盛」、「鹿介」とも。
この人物がかなりマイナーなのは、彼が中国地方(山陰地方)で活躍したことも影響してます。
当時、毛利元就やその孫、輝元が率いた毛利家が、中国地方一帯を席捲しており、鹿之助が仕えた、山陰の雄、尼子家はかなり落ち目になってました。
尼子家は、戦国時代初期に勢力を広げ、尼子経久という武将が、この尼子家を出雲国(現在の島根県)を中心に、山陰一の大勢力に発展させますが、彼が亡くなった後、後を継いだ晴久が、毛利元就の謀略に遭って、配下の新宮党という強力な武装勢力を壊滅させてしまいます。
さらに後を継いだ義久が外交政策の失敗などもあり、一気に勢力が弱小化。
結局、鹿之助が成人になった頃(当時の武士では15、6歳頃)には尼子氏は急速に弱体化。
ついには、1567年に本拠地の月山富田城が攻められて、尼子氏は毛利氏に降伏。
事実上、尼子氏は滅亡します。
ところが、そこからが鹿之助の活躍の場になり、「尼子氏再興」を掲げて、奔走。
尼子一族の誠久の子、勝久を寺から還俗(※寺に入っていた者を、俗人に戻すこと)させ、彼を旗頭に各地を奔走。
その間、何度も毛利氏と戦い、暴れまわったのでした。
詳細は、これもWikipediaなどを見た方が早いので、省略しますが、最終的には中国地方に勢力を拡大してきた、織田信長の配下になります。
そこで、播磨国(現在の兵庫県)の上月城を任された尼子一党。
そこに毛利軍が攻めてきます。兵力3万という大軍だったそうです。対する尼子軍は2300~3000程度。
当然、織田軍配下に入っていた、尼子勝久、山中鹿之助主従は、織田信長に援軍を要請します。信長は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に1万の兵を与え、救援に向かわせますが、信長は上月城より、三木城の攻略を優先させ、つまり、事実上、「上月城を見捨てる」判断を下したと言われています。
結果、小勢の尼子軍は大軍相手に抗しきれず、降伏。
尼子勝久は切腹。鹿之助は捕らえられます。
それでもまだ尼子再興を諦めなかった、鹿之助を恐れた毛利軍によって、移送途中、殺されたと言われています。享年34歳。
これだけ、「忠義」に尽くした人ゆえに、戦前の大日本帝国から利用され、「教科書に載った」とも言われています。
彼の代名詞的なセリフ「月よ、我に七難八苦を与えたまえ」と共に、武士の鑑として、その精神性が利用されたのです。
ただ、実はこの話には、続きがあります。
鹿之助には子供がいて、幸元と言います。
彼は、父によって、山中家の本家にあたる別所氏の家臣・黒田幸隆に預けられていましたが、わずか9歳の1578年、父が死に、黒田幸隆も同年に豊臣秀吉のため滅んだので、一気に流浪の身になります。
幸元は、大伯父である山中信直(幸盛の伯父)を頼って伊丹(現在の兵庫県伊丹市)へ落ちのび、そこで養育されたと言われていますが。
そこで、彼は何と酒造業を始めます。
慶長四年(1599年)には江戸送りを開始しています。これは馬による輸送で、江戸送りの元祖と言われています。丁度、折からの江戸時代の始まりと重なり、事業は発展拡張します。
そこで屋号を「鴻池」として、彼自身が鴻池直文と改名。
武士の子ながら、江戸時代初期の鴻池財閥を造り、豪商になっています。
明治維新後、武士が食べていけなくなり、商人になるも成功せず、「武士の商法」とバカにされましたが、これほど勇敢な武将の子が、商人として大成功したのです。
恐らく、彼の出自から相当苦労して、ハングリー精神から商人として成功したとは思いますが、父の鹿之助もまさか、息子が大商人として成功するとは思わなかったことでしょう。
ということで、今回は、「戦後に消された人物」。まあ、他にもいると思いますが。




