―狭い世界の私―
文学フリマ収録作品です
今朝も私は自室のベッドの上で目覚めた。
外はカーテン越しでも既に明るく、街も既に活気で賑わい始める頃。
パジャマのままの私はママから前に買ってもらった本を取り出して開く。
どういう内容の本かと言うと色々な街の美しい景色が写った分厚い本だ。
繰り返しこの本を読む度に私は思う事がある。
世界はとても広くて素晴らしいものだと。
いつかは世界を旅してみたいと思ったりもする。
けど、私には世界の実際にこの目で確かめることは叶わないのではないかと思ってしまう。
理由としては生まれつき体が弱いせいだ。
お医者様にはあまり心労がかかりすぎる様な事は控えるように言いつけられている。
言いつけられているせいか余計に外の世界について空想を広げてしまっている。
空想が広がる理由は他にもまだあって、多分ママと一緒に外出した時に見える外の景色も一つとしてある。
生き生きした外の世界、街並に世界の広さの一部分を感じ取れるからだと思う。
ちなみに出かける時というのはママとお医者様に診てもらいに行く時だ。
例えばそこでは美味しいパンを売る店からいい香りが漂い、行き交う人とかが楽しそうに話している様子とかが見える。
少し離れたところには街のシンボルの大時計塔がとても近くで見えたりして何もかもが新鮮で素敵だ。
街の景色を間近で見るとやっぱり世界はまだまだまだ私の知らないもので一杯なのかもしれないのだと想像が膨らむ。
今日も私は夢見る様に世界の想像を膨らませていた。
ひとしきり空想の世界に浸って、我に返ると私は自分がいる場所を思い出す。
今居るのは自分のベッドの上だ。
まだわずかに夢見心地な気分を残して布団をはいで降りる。
自分の部屋を見渡してから外の世界とは反対の我が家という箱の狭さについて回想する。
私たち母娘は木造の青色のペンキで塗られた古い二階建てに住んでいる。
内部の作りは二階の南東側にママの寝室、廊下を挟んでもう一部屋南西側が私の自室だ。
北側の部屋はもともとパパが使っていた部屋で今は物置となっている。
パパは私が生まれた頃に事故で亡くなっていて、顔はママの部屋ある写真でしか見たことがない。
私は今までに何度かパパのことをママに聞く事を試みている。
ママは私が聞く度に普段と違う悲しそうな表情をしてあまり語らないので、詳しく聞くのは諦めている。
ママが持っている写真を見る限りパパは穏やで優しそうな人だった。
何でママちゃんと話してくれないのかといった疑問もあるが、結局は何も分からないまま心にしまっている。
我が家の二階、廊下の東側脇に階段がある。
そこを下ると一階東側はダイニングキッチンになっていてちょうど家を東西の真ん中で半分に扉と壁で仕切られている。一階西側のもう半分は店のスペースがあってママが花屋さんを開いている。
我が家はお店を開くために改修したせいもあって、中々変な造りになっているというのはママの談だ。
お店ではママが今頃、一生懸命働いている。
普段では私はママが時々お客さんを見送る様子を二階の窓から眺めている。
いつ見てもママが働く姿は尊敬する。
将来の希望で苦労人のママに親孝行ができればいいと思っている。
体が弱い上に世の中に出たことがない私にできるかは正直難しいだろう。
今日はしばらくぶりにママに連れられ、お医者様に行く日。
少しでも世の中の事を勉強出来ればいいと考えていた。
◇◇◇
我が家と今日の事を思い返してから着替えを終える。
私は西側と南側についたカーテンと廊下につながる自分の部屋の扉を閉めて南東側に置かれている鏡の前に行く。
鏡には冴えない顔に長い黒髪を先で結んだ地味な女の子――私が映っている。
着ているのは控え目な紺色の洋服だ。
外に出るからにはせめて恥ずかしくないようにしたいとママにお願いして買ってもらった洋服で、ちょっとした私のお気に入り。
私は身なりの確認で鏡の前で半身になったりして終えた頃に時間が気になり時計を見る。
普段ならママがお昼ご飯を取る時間になっているけど今日は外で昼食を取るので、いつもみたいに一階からいい匂いはしない。
それにしても今日は何だかママが店を閉めるのが遅い。
私は待ちきれず一階に降りた。
階段を下りてすぐにある狭いダイニングキッチンを通り家の中心を遮る壁と扉のある方に向かう。
お店との境になっている扉には小窓が付いていて近づくと外から何やら声がする。
小窓をのぞくとママに声を掛けているお客さんが一人居るのが見える
私はお客さんを見て呟く。
「あれ――あっ」
名前は知らないけど男の人には珍しくよくお花を買いに来る人だ。
話している男の人は眼鏡をかけてすらっとした体格に、とても落ち着いた雰囲気を纏う。
物知りそうで大人な感じが出ている。
目元は凛々しく眼鏡のレンズで強調されていて、背は男の人だけあってママよりも頭半分くらいは高い。
ママのお客さんとの会話を遮ってはいけないと思って私はただ黙って見る。
話が終わった後、ママがお客さんを見送るのを見届けて私は扉を開けてママに声を掛けた。
「あらロゼッタ? ごめんね……今から支度するからちょっと待ってもらえるかしら?」
私は首を横に振る。
「うん」
ママの様子を見ると、今日はブラウスにロングスカートを着ている。
首元くらいまでの黒髪をヘアゴムで結ってポニーテルにしていて、前髪をカチューシャで上げている。
黒髪を引き立たせるように白い肌にお化粧をして今日も輝いて見える。
いつも通りの素敵な容姿を観察しているとママに声を掛けられる。
「じゃあ、これからお店を閉めるから、お店の奥に行くわね、いい?」
「うん」
今度は頷く私。
「その間で誰かに声かけられたらママを呼んで? 何かあったらすぐ伝えに来なさいね」
ママは私と顔の高さを合わせるために僅かにかがんで私の頭に手を置きほほ笑む。
今日もママは笑顔だ。
ママは私を置いて家の西側、我が家の玄関口で店舗の入り口に入っていく。
私はママが行くのを見た後、一人になる。
家は街の外れ近くにあるために人通りがまだ少ないがなんだか一人で落ち着かない。
家でもある店の前で誰も来ないか見ているとしばらくしてまた男の人が来た。
それも同じ人だった。
店の様子を見ていたみたいでいつもと違うのに気が付いたのか足を止めた。
「おや?」
男の人は店の入り口に居る私に声を掛ける。
「こんにちは」
私は男の人と一瞬目が合い、瞬間で固まってしまった。
お医者様と話すときもそうなのだけど、緊張のせいなのかほんの少し体が強張るような気がする。
私は言葉が出てこないにしろひとまず挨拶されたので同じく挨拶だけでもと思って返す。
「え、あの……こんにちは」
私が答えると男の人は何かに気が付いたように私の顔をじっと見る。
距離はさほど空いてない。私はそんな風に見つめられるなんて思いもしなかったので顔から火が出るほど恥ずかしくて思わず手の平で自分の顔を覆った。
「――ん? ぁ……失礼しました。初対面の人の顔じっと見るなんて変ですよね? すみません」
私は男の人が言う他人の顔をじっと見ること自体が変だということを考えるより、恥ずかしさで頭が真っ白になる。
男の人は言葉を中々発せずに居る私にゆったりとした口調で伝える。
「お嬢さん? ここにいるということは……もしかしてサンナさんの娘さんですか?」
「え、あ……はい」
私は答える。
「ちょっとだけ話には聞いていたけどお母様にそっくりですね? その……顔立ちが似ていたものだからまじまじ見てしまったんですよ。不快にさせていたらすみませんね」
私は落ち着こうと深呼吸をして、顔を覆う手の平をずらして俯き加減で男の人を見た。
「い、いえ……」
私はどうしたらいいのか混乱して視線を定められなかった。
「サンナさんは今日お店もう閉められたのですか?」
私の中で色々なことが同時に起きてもう頭の中は忙しいことになっている。
私は何か言わなきゃという気持ちだけで一杯になり慌てる。
余計に頭が真っ白になり口がもごもごと動くも何も言えない。
喉から声が漏れだして私は意を決した。
「ぁ……あの……そのっ……い! いらっしゃいませ!」
何とか私が言い出せたのはママがお客さん相手にする挨拶の真似。
完全に上ずって変な声でママの綺麗な声に程遠い。
私の中ではその時に待ってもらうために少々お待ちくださいと続けたかった。
けれど、やっとでた言葉は何故かいらっしゃいませでまた言い終えて固まる。
もっとママに色々聞いておくべきだったと私は後悔した上にとにかく恥ずかしい。
なのに、この人は私の事を笑いもせずに穏やかに頷いていた。
「どうも、ごきげんよう? ちなみにですが僕はファルって言います、よくここには来るんです。どうそよろしく」
「は、はい」
私は精一杯首を縦に振って頷いた。
勿論笑顔にしている。多分なっているはず。
「ところでお母さまから以前聞いたのですが貴女のお名前、ロゼッタさんで間違えないですか?」
「あ……はい」
私は瞬きして答えた。ママは私のことをお客さんとかにも話しているようだ。
ママとお医者さんくらいしか私はちゃんと話したことがない。知らない人から名前を呼ばれるのは嫌な気はしないけど変な気分だった。
「そうですか、間違えてなくてよかった」
ファルさんと言うらしい男の人は安心したように穏やかな表情だった。
「ロゼッタさんはお花屋さんを手伝うことはないのですか?」
ファルさんと名乗った男の人は戸惑う私の気持ちを余所に何の気なしに質問してくる。
私はしどろもどろのまま質問に答えていた。
「あ、いえ……手伝いなんてそんな……私なんかには無理……だと思います」
何だか気まずくてママが早く戻ってきてくれると助かるのにと少しだけ思う。
けれどファルさんの気分を害したらママのお客さんとしてママに迷惑がかかると思い、自分から話を切り上げることができない。
私があれこれ考えているのとは裏腹に同時にファルさんからの質問は続く。
「無理、ですか? なんでそう思ってしまうんです?」
私は聞かれて言い淀む。
「え、何で……か……ですか?」
――私は生まれつき体が弱い。
強い外の刺激を受けると寝られなくなったり食欲がなくなったり体が重くなったりする。
お医者様からもママからも無茶はしないようにと小さなころから言いつけらえている。
更に世の中の事は本を通じてしか知らない。
壁がありすぎる上に、どう説明するべきか私は考えつかなかった。
「え、その……っ……あの」
言葉に詰まって次が出てこない。
ファルさんは私の様子を見て何か気が付いたのか穏やかに声を発した。
「――ぁ、無理に答えなくても大丈夫ですよ? 話しづらい事でしたか?」
私は言われてら気持ちが軽くなって、すっと落ち着いた。
「あ、はい……」
安堵感が胸に広がる。
普段話しているママやお医者様以外の人と話すのがこんなに気苦労が絶えないとは思わなかった。
ファルさんはそうですか、と話を切って内容を元の話に戻す。
「それにしてもサンナさんは突然店を閉めてどうしたんでしょう? 伝言をお願いできますか? ロゼッタさん」
最後に名前を呼ばれるのが私の中で何か引っかかるようだ。
「っあ……はい」
心にひっかかる何かの正体を突き詰める事ができないまま私は返事を返す。
ファルさんは私の返事を聞いて笑顔のままで私に伝えてくる。
「ラジオの修理が予定より早く終わったのでお伝えに来ましたがお会いできませんでした。修理自体は終わっているので街工場でお待ちしておりています。以上、工場からの伝言としてお伝え下さい」
意識をファルさんの話に集中させて頭に入るように聴いた。
私はファルさんの話の一部分、伝言の中にとても好奇心を掻き立てられる言葉が入っていた事で心が揺さぶられる。
心が動かされた事で気まずさややるべきことは吹き飛んでしまった。
ママを呼ぶのを忘れるくらい私は質問をしたくなるがママの言いつけもある。
どうしようかと葛藤しているうちにファルさんは言った。
「では、失礼します」
帰ろうとしたファルさんの私は背中を見てママを呼ぶか、このまま話を聞くか迷ううちに思わず後ろ姿に声を掛けていた。
「あのっ……すいません! ファルさん」
ファルさんの歩みが止まる。
「工場ってどういうところですか……? 私いろいろと知りたくて……本では機械の整備とか修理をする場所って書いてありましたけど、実際そうなんですか?」
ママを待つ事や呼ぶよりも好奇心を優先させている私。もう気にしていられなかった。
ファルさんはほんの少し驚いた顔で頷いて私に聞く。
「ロゼッタさんは工場という場所には行ったことないんですか?」
私も頷いて答える。
「ぇ……はい」
ファルさんはまた元の穏やかな笑顔になって言う。
「そうですか……工場では僕ら整備士が乗り物や機械の修理を行っているんです、中にはそれらの設計をする人もいてですね――」
「え……設計も、ですか?」
私は外の世界の話に完全に心を奪われてファルさんの話に入り込む。
「そう、自動車とかの設計だとか……最近では飛行機の設計なんかも行っているんですよ? でもまだ開発されたばかりで人が乗るには改良の余地あり、といった所ですが」
壮大な話に私は胸を踊らせる。
私はもっと話を聞きたくなってファルさんに質問をしようとする。
そこでちょうどママが二階から降りてきて玄関から出てきた。
「――ロゼッタ? さ、支度できたわ……行きましょう?」
ママが様子の変化に気づいて咄嗟に言葉をかける相手を私からファルさんに切り替えた。
「あら……ファルさん、どうかなさいましたか? あ、そういえば……伝え忘れてごめんなさいね? 今日はお店終わりなんです」
ファルさんは私と話しているときと変わらず笑顔でママに言った。
「はい、そのようですので、そちらのお嬢様にサンナさんへ伝えて頂くように頼んでいた所です」
ママはファルさんに言われて私を見て、また元の向きに戻って言う。
「まぁ、そうでしたか……聞いたかもしれませんがその子が家の娘です、母娘共々宜しくおねがいします」
ファルさんは丁寧に返す。
「――はい、こちらこそ」
私は二人が話しているのを見ている。
すぐに思い立ったようファルさんが言った。
「そういえばロゼッタさんと話をしていましてね? それにしても好奇心一杯の知的なお嬢様ですね? きっとサンナさんの日頃の教えがあってだと思います」
ママはファルさんの言葉を聞いて笑顔で答える。
「ええ、ありがとうございます。ところで伝言っていうのは?」
私はママに言う。
「ママ? ファルさんがラジオの修理終わりました、ですって」
「あら、そうなのロゼッタ?」
ママに聞かれたので頷く私。
ファルさんがママに声をかける。
「サンナさん? お嬢様が言う通り、お預かりしたラジオの修理終わりましたのでご都合の良いときに取りに来てください」
私が言った言葉に追加してくれた。
ママはわかりました、と笑顔で言ってからゆっくり私に向き直って。
「ファルさんは将来有望な機械整備士なのよ……学校も優秀な成績で出ているの。あなたも色々と教えてもらいなさいね?」
私はママの笑顔に釣られて同じく笑う。
「はい、ママ」
ファルさんは少しだけ困ったようにママの言葉に付け加えて言う。
「将来有望かどうかはわかりませんが確かに学校はちゃんとした成績で出ていますよ、僕の可能な範囲でならお嬢様に色々お伝えできます」
「あら、ありがとうございます! ファルさん」
ママがお礼を言って、私も続く。
「あの、ありがとうございます……今度またお会いしたらお話の続き……して下さい」
ファルさんは笑顔で答える。
「ええ、もちろんですとも」
◇◇◇
ファルさんと出会ってからというものの私は彼の語る話の虜になっていった。
ファルさんの方も仕事の合間を縫うようにして私達の母娘の店にお花を買いに来てくれていた。
ファルさんと私はママの働く脇でよく会話することが増えた。
話している内容の多くはママの要望で街の外の話だ。
ファルさんはこことは違う街に行き来しているらしく、広い世界の様子を知っているようだ。
私にしてみれば嬉しくてこの上ない事で夢のような毎日が続いた。
何十もの日にちが過ぎたある日の事、私はこの日も彼に話を聞かせてもらっていた。
「――この間も隣街で寄ったお店がすごい行列だったんだ」
私は楽しさで自然と笑顔になる。
「諦めて違うところにご飯食べたけど、たまたま入ったそこのコーヒーがとても美味しかったな……あと、その店の新作パンも香ばしくてとても良かった」
私はファルさんの話をいつもと同じように楽しんでいた。
だいぶ慣れていたこともあって、ファルさんは砕けた口調になっていた。
私もファルさんに慣れてきていて、緊張しないで話せるようになっていた。
「そうなんですか! ファルさんは食通なんですね? 私……コーヒー苦手ですけど、そこまで美味しいなら飲んでみたい気がします」
私とファルさんの他愛のない会話をママはいつも仕事をしながら見守ってくれている。
ファルさんが私に疑問を投げかける。
「――ところでロゼッタ、突然だけど君は将来の仕事はどうするのか考えているのかい?」
私はあやふやな言葉を返す。
「え……仕事ですか?」
確かに将来はママみたいに働いて親孝行が出来ればいいと思っていた。
実際は今の地点で具体的に考えてなかったりする。
私は口ごもって言葉が出てこない。
ファルさんと私の間に沈黙が流れる。
体が弱いことがあって私にはなかなか働くのが難しいと言うことを今まで彼にはあまり説明しないまま会話をしていた。
結局はっきりさせないのが今になって出きた形だ。
私はファルさんへ疑問があるので問う。
「――どうして、その質問をするんですか?」
彼は首を傾げて答えた。
「君と話していると思うんだ、そんなに好奇心旺盛で本から沢山学んでいるんだからそれを活かす事ができると思うんだけどなって」
私はほんの少しそうかもしれないと思った。
ママも私が成長することを応援してくれていいことだと思ってくれる。
笑顔で私の話を見守っているはずだと思い、直後にママの顔を見た。
だが、想像していたのは逆にママはいつもの笑顔とは全然似ても似つかないこわばった顔だった。
ママは仕事中の手を止めて近づいて私言う。
「ロゼッタ……あなたは無理する必要はないの、あなたはまだ良くなってないんだから」
私はママの顔を見てなんだか急に恐ろしくなった。
少し前に思った事を無理に押し殺す。
私はママに言う。
「うん……わかった」
私はママに抱きかかえられて、頭を撫でられた。
悲しい様な悔しいような、なんとも言えない複雑な気持ちになる。
目前で様子を見ていたファルさんはすぐさま口を挟んだ。
「サンナさん……何故ですか?」
ママが静かに私から離れてファルさんに言う。
「すみません……ファルさんにはお伝えしていませんでしたね?」
ママはまた笑顔だったが声のトーンが幾分低く感じた。
「この娘は生まれつき体が弱くてお医者様からあまり心労の強くかかるような事を避けるように言われています」
ママは私を一度見てからファルさんに言う。
「そうでしたか」
ファルさんも私が見たことない表情をしてママの言葉に受け答えていた。
ファルさんがママに切り返す。
「お気持はわかりますが……それではロゼッタが成長するのを阻んでしまいます」
ママは何も言わずに彼の言葉を聞いている。
私は自分のことなのに目の前の会話を見るのが怖くて目を伏せた。
「サンナさんもお嬢様が立派になって欲しいと願っているはずです! でなければわざわざお嬢様の教育に本を買い与えたりしないと思います」
ファルさんは立て続けに言葉を並べてママに抗議した。
他にもやり取りが数回往復したのだが私は途中から会話の中身まで把握するのが嫌になった。
集中が切れかかっていた時ママが急に私へと話しを振られる。
「ロゼッタ……あなたはどうなの?」
「――え」
ママが抑揚のあまりない声で私に聞いてくる。
「私……その」
曖昧な返事を私はする。
ファルさんもこちらを見ていて表情は真剣だった。
笑顔にはどうやっても見えないので、私の中で不安が募ってゆく。
心を決めて私は言葉をひねり出した。
「私はまだお仕事は無理……だと思う」
それでも言い出した言葉は気持ちとは逆で口は勝手に嘘を作り上げた。
ファルさんは片手で眼鏡の縁を人差し指と親指でつまんで持ち上げた。
一瞬、彼の表情は光の加減で見えなくなる。
「そっかぁ……君ならできることは沢山ありそうだけど体が悪いなら仕方ない、無理はできないね」
俯いて口が利けない私の代わりにママが話す。
「そうですね、まだこの娘にはだいぶ厳しいと思います」
私はママが話すのを聞いて珍しく嫌な気持ちになった。
ママが言うことに嫌な気分になるのは私としては珍しいことだ。
「そうですか……今日のところは失礼します」
ファルさんはママに言うと帰る支度をはじめて、帰る間際で私に伝える。
「ロゼッタ……繰り返しで似たようなことになるけど君は沢山の可能性や才能があると思う……世界の広さをもっと知りたいとは思わないかい?」
私の心が強く揺さぶられる。
ママの言葉とファルさんの言葉どちらも強く聞こえる。
私はどちらも選べない自分に悔しさをともどかしさを覚えた。
◇◇◇
ファルさんが帰った日の後日からママは急に態度を変えた。
具体的に言うと、ファルさんに会わせてくれなくなった。
私が一階に降りてファルさんが来ているかどうか見に来ると、すぐに二階に戻る様に言われる。
私はその度に渋々ママに言われて戻るのだった。
あんなに楽しかった日々が少しずつ遠のくようで私は日が立つごとに苦しくなっていった。
なおかつ、私の頭の中に残っているファルさんの言葉が私の心を揺さぶり続けて私は精神的に不安定だった。
体が重くて起き上がることがままならず殆ど自室で眠り続ける様になった。
食べる気力も起きずに毎日ご飯を残すようになり、長く眠る割に眠りも浅い。
お医者さんにかかるときも外に出るとふわふわと浮いた風船みたいに体がふらついて疲れる。
ママは仕事が終わると毎日のように心配して私の自室に声を掛けにくる。
いつもなら嬉しいはずなのに、私はママの心配する様子が何故か分からないが無性に嫌だった。
ベッドの上で私は布団にくるまって私は丸くなっていた。
ママは時々ため息を小さく吐いていた気がする。
何度か同じ声掛けと同じ態度を取り続けた日々が続いた。
私は同じ毎日に飽きて久々に本でも開いてみようとだいぶ前にママが置いていった本を手に取る。
パラパラと何気なくページを捲るうちに私は手を止めた。
「ぁ……これ……」
手が止まったページは飛行機の開発に関しての本だ。
最新の機械を作る技術などが書かれていて世の中の進んだ様子を読み取ることができた。
私は手に止めたページを見てファルさんに言われた言葉を今一度鮮明に思い出す。
彼は私に確かに言っていた。
――世界の広さを知りたくはないのか、と。
あのときの言葉は忘れていた訳ではない。
進む時間、日々の中で少しずつ元の何もない生活に戻っていただけ。
果たして本当にそれでいいのか、私にはしっくりこない。
翌晩、ママと夕食を取る時に私勇気を出して行動を起こした。
ためらいながら私はママに伝える。
「ママ……お願いがあるの」
ママは笑顔で答える。
「どうしたの?」
私は真剣に言う。
「私、もっと勉強して将来ママみたいに働きたいの……だからファルさんと会わせて!」
ママが笑顔から少しもの哀しい表情で目線をそらして言う。
「――だめよ、ロゼッタ」
ママは冷ややかな声だった。
私は抗議の声を上げる。
「なんで……なんでなのっ?」
ママはため息を吐いてから私の目を見た。
またあのこわばった顔だった。
「あなたがファルさんを慕って居るのはわかるわ……でもあなたに彼を引き合わせすぎれば直ぐにでもあなたは外で働こうと無理するわよね?」
私はママの言うことの意味がいまひとつ分からない。
一つ言えるのはママの言うことには今の私は従いたくないということだけは言える。
こんな苛立ちを感じるのは本当に初めての事だ。
私は感情に任せて言う。
「何よっ! ママだって頑張っているのに私はだめなの!? 体が弱いからって無理しちゃいけないの?」
次の瞬間、私は目を疑った。
ママは私の頬を叩いた。
「――え……いたっ」
突然であまりのことに私は何が何だかさっぱり状況を理解できない。
確かなことは目の前のママが涙ぐんでいることだけだ。
「ママ……なん……で?」
ママは私に大声で怒鳴った。
「ロゼッタ……あなた、私がどれだけあなたを心配していると思っているの! 私はあなたのために精一杯の事をしているのに!」
私は目の前の人がママと同じ人に見えなくなっていた。
「あなたは私の言うことを聞いていればいいの! そうしないと、あなたまであの人――」
目の前のママらしき人は子供みたいな泣き顔で私へと言い放つ。
「――あなたのパパみたいに私の前からいなくならないで……済むの!」
怒鳴り声が終わってから静まり返った我が家にすすり泣きだけが聞こえる。
私はこの時に悟った。
私が見ていたママはただ良い所だけを切り取ってできた幻で、本当のママは弱々しい一人の人なんだと。
私は自分を責めた思えば自分の先のことばかり考えていたようにも思える。
ママの気持ちを大して突き詰めては考えていなかった。
逆にママは私が自分のことで手一杯の間にも自分のことをしながら私の事を考えていた。
一つだけ疑問なのは先程ママが言ったパパの事。
何故、今になってパパが話題に上がるのか不思議だった。
私は俯きながら話す。
あれだけのことがあったのに思いのほか私は冷静だ。
自分自身の反応に内心だいぶ驚いていた。「ねぇ、ママ……パパはなんでいないの? やっぱり昔パパに何かあったから居ないの?」
ママは顔を覆いながら泣いて言う。
「事故だったのよ……あちこち仕事で飛び回っていて、その途中に巻き込まれて」
私は気持ちが更に重く沈んでいくのを感じだ。
ママが苦しそうな声で重い気分に追い打ちをかけた。
「違う街で車に惹かれて最後はあんな――っく、うぅ」
あまりに悲壮なママの姿は直視できなかった。
掛けてあげられるだけの優しい言葉が見つからない。
それどころか私はいたわりの言葉ではない事ををママに言う。
「そう……だったのね、ママ? でも私は早く体を良くするし、早くママみたいに働きたい」
「ロゼッタ……あなた? 私の話を聞いていたの? お願いだから無理しないで」
ママは縋り付くように私に懇願する。
「私はできる限りのことでママみたいになるから――だからママは心配しないで、ね?」
私が言い切るとママ言葉をなくして放心状態になった。
私は悲しみと決意を胸に外の世界に向かう事を決める。
翌日、私はファルさんを頼り彼へと手紙を書いた。
後日の務める工場の近くにある宿舎に泊まり込みで勉強させてもらうことに決まる。
私の狭い世界は少し広がりを見せた。
ロゼッタはすごく思い入れのあるキャラクターで、自分の分身です。
とても彼女との頭の中での対話(執筆)は楽しかったです。