96話 その後のロスマリネ侯爵夫人
「こんなにすっきりした気分は久しぶり。まるで霧が晴れたみたい」
ベッドの上でお茶を飲みながらロスマリネ侯爵夫人シンシアは呟いた。
病人のようにやつれていたが、その表情はおだやかだった。
「憑き物が落ちたような気分だわ」
「憑いていたらしいですからね」
ベッド脇の椅子に座り、母の様子を見舞いに来ていたロスマリネ侯爵令息シリルは訳知り顔で言った。
「霊能者が言うには、母上は呪われていたとの事でした。呪いは祓っていただいたのでご安心ください」
「では、シャールラータン先生が来てくださったの?」
シンシアは待望していた高名な霊能者の名を挙げた。
「いいえ。呪いを祓った霊能者はマークウッド辺境伯家の見習いメイドです」
「……シリル、それは、どういうこと?」
シリルの口から出た悪友の家名に、シンシアは表情を曇らせた。
シリルはかつてマークウッド辺境伯令息オズワルドと共謀して学院を脱走し、貴族令息としての経歴に汚点を作った。
傍から見れば二人の関係は悪友といえる。
シリルとオズワルドはしばらく距離を取らせるということで、双方の家が合意していた。
「ご心配なく。オズワルドには会っていません。お互いに試験に向けて忙しい身です」
「では何故、マークウッド辺境伯がいらしたの?」
「心霊研究家であるマークウッド辺境伯は怪奇現象にとても詳しくていらっしゃるので、我が家の怪奇現象について彼に相談してみるよう僕が父上に勧めました。それを父上が了承なさったのです」
マークウッド辺境伯一行による心霊調査の顛末をシリルは説明した。
シリルから話を聞き事情を知ったシンシアは、徐々に顔色を変えた。
不安気だった表情は、申し訳なさそうな表情に変わって行った。
「なんてこと……」
シリルから、自分が客人の前に飛び出して叫んだことを知らされたシンシアは、心底申し訳なさそうな顔でうなだれた。
「ずっと頭がぼんやりしていて、夢の中で動いていたようだったけれど、何となく覚えているわ……どうしましょう……」
「呪いの影響だったのでしょう」
「『天使の光』の祝福にも、どうしてあんなにこだわっていたのか。今はもうわけが解らないわ」
「母上がお買い求めになった品は、安全が確認されたら返却される事になっています。ですが、呪いの除去が不可能である場合は処分をお願いしています」
「ええ、そうしてちょうだい。何の未練もないわ」
あれほど固執していた霊感商品の処分に、シンシアはあっさりと了承した。
「父上がお帰りになられたらお話しがあるかと思いますが、今後は新興宗教の方々とのお付き合いは自重なさってください」
「解っているわ。最初は義理で参加しただけなの。どうしてあんな事に夢中になってしまったのか自分でも解らないのよ……」
シンシアは眉を歪めると、小さく溜息を吐いた。
「マークウッド辺境伯にお礼を、いえ、その前にお詫びをしなければ……」
「あ、そのことに関して、母上にもご相談したいことがありました」
シリルはふと思い出したように言った。
「実はマークウッド辺境伯夫人からお詫びの手紙と見舞い品が届いているのです」
「お詫びとお礼をしなければならないのは、こちらの方ではなくて?」
シンシアは驚きと困惑に満ちた声でシリルに問いかけた。
「そうなのですが。マークウッド辺境伯一行が業者に変装して我が家を訪問したことについて、非礼を謝罪する手紙が届いているのです」
「一番無礼だったのは私だというのに……」
「父上もどう答えるべきか迷っていらっしゃいました。こちらがお詫びとお礼をしなければならない立場です。手紙とお礼の品で済ませるよりは、一度晩餐に招待してきちんとお礼をすべきではないかと考えておられるようです」
「そうね、それが良いわ。私もマークウッド辺境伯にきちんとお詫び申し上げたいし、霊能者の方にもお礼がしたいわ」
「そうだ、霊能者!」
はっと気付いたようにシリルは声を上げた。
「母上、霊能者は子供です。晩餐会は無理かもしれないです。失念していました」
「え、えっ?!」
完全な作法が求められる正式な晩餐会に、子供が招待されることはない。
「子供?!」
「はい。母上をお救いした霊能者は子供なのです。ファンテイジ家の見習いメイドになってからまだ日が浅く、それまでは孤児院にいたそうです。孤児院出身の彼女に晩餐会は荷が重いでしょう」
「孤児院!」
雷に撃たれたかのようにシンシアは衝撃を受けた顔をした。
「どうしましょう。どうすれば……!」
シンシアは両手を頬に当ておろおろとしはじめた。
「わ、私が庶民に変装して、その子をレストランに連れて行くというのはどうかしら!」
「母上? 何をおっしゃっているんです?」
突拍子もないことを言いだしたシンシアに、シリルは冷静に反論した。
「どうしてそうなるのか意味が解りません」
「美味しいものをお腹いっぱい食べさせてあげたいのよ」
シンシアは目を潤ませた。
「恐れながら、奥様……」
それまで黙って控えていた侍女が進み出た。
「『黄金の鹿』に招待するというのは如何でしょう」
侍女は有名レストランの店名を挙げた。
「『黄金の鹿』は王子が個人的な誕生会を催されたレストランです。子供をもてなすには最適でございましょう」
「でもあの店は予約がなかなか取れないのではなくて?」
「奥様のご指示ですでに予約は取っております」
「あら?」
シンシアは呆然とした顔で首を傾げた。
「全く記憶にないわ」
「奥様は『天使の光』のお友達をもてなすために『黄金の鹿』の個室を予約なさっておられます」
「何ですって?!」
「母上、お友達には中止の連絡を!」
ロスマリネ侯爵夫人シンシアは、マークウッド辺境伯家をもてなすための計画を立てた。
マークウッド辺境伯一家を正式な晩餐会に招待し、使用人たちは『黄金の鹿』に招待することに決まった。
シンシアが侍女たちに一通りの指示を終えると、シリルが口を開いた。
「母上、ひとつ確認したい事があるのです」
「何かしら?」
「天使人形はどこで手に入れられたのです?」
「天使人形?」
シンシアは首を傾げた。
「どの天使人形かしら?」
「母上が僕の部屋に持って来た、勉強ができるようになるという知恵の天使の人形です。彫刻ではなくて、人形です。覚えていらっしゃいませんか?」
「……ああ、白い、天使の人形……」
シンシアは薄れた記憶を辿るように額に手を当てた。
「あれは特別に譲っていただいたのよ」
「一体誰から?」
「名前は……覚えていないわ。ソルヴォス男爵夫人のお茶会で紹介していただいた方よ」
「ソルヴォス男爵夫人とは、どういった方なのです?」
それはシリルが今までに聞いたことがない家名だった。
「『天使の光』の勉強会で知り合って、仲良くしていただいた方よ」
「ソルヴォス男爵夫人……」
シリルは思案気な顔で目を伏せ、その名を記憶のページに書き込むかのように復唱した。




