08話 騒霊現象
午後のお茶は、ファウスタにとっては息苦しいほどの沈黙だった。
(上の三人以外、誰もしゃべらない……)
アルカードたち『上の三人』はお茶を飲みながら、茶葉についてや作物の値段についてなどの世間話をしていたが、その三人以外は誰一人としてしゃべる事はなかった。
皆、黙々と、しかしゆったりと、お茶を飲んでいる。
長テーブルの中央には食べ物を乗せた大皿がいくつか置かれていて、その皿から食べ物を自分の皿に取って食べ始めている者もいた。
大皿には白パン、固焼きパン、切り分けられたチーズ、狐色の揚げ物。
添えられている器には、固クリームやジャム、そしてファウスタには解らないソースのようなものが二種類。
ファウスタは隣の席のテスをちらちらと横目で見ながら、テスの真似をしてお茶を飲んだ。
テスも時折こちらを振り向いて微笑んでくれた。
(お茶って言ってたけど、もしかしてこれ夕食なのかしら)
パンやチーズや揚げ物など、食事に出て来るようなメニューを前にしてファウスタは考えた。
今は春なのでこの時間はまだ明るいが、もし冬だったら暗くなっている時間だ。
孤児院の夕食の時間よりも少し早いが、おそらくこれは今日三回目の食卓。
朝昼夕の三食があると考えれば、これが夕食の可能性がある。
これが夕食だとするならば次に食事が出されるのは明日の朝だ。
それならば今ここで食べられるだけ食べておくべきだろう。
問題は食べ物を乗せた大皿が、隣の席のテスの正面より少し向こう側にあるという事だ。
食べ物に手を伸ばすとテスの前を横切り手を伸ばすことになる。
それは見苦しいことで悪目立ちしてしまう。
誰かに取ってもらうか、大皿をこちらに移動してもらえれば良いのだが、一言も言葉を発することを許されないようなこの静寂の中で、隣のテスに声をかける事はできない。
重苦しい緊張と沈黙の中でファウスタは大皿を見つめ、勇気を持って手を伸ばすべきか否か逡巡した。
――ふいに、茶色のドレスにエプロンの婦人が長テーブルに歩み寄って来た。
その婦人は自然な動作で食べ物の乗った大皿を持ち上げると、ファウスタの手が無理なく届く位置へと移動してくれた。
そして彼女はジャムやクリームの器も次々と移動させ、ファウスタに微笑みかけると「たくさん召し上がれ」と言った。
「ありがとうございます」
婦人の笑顔と言葉につられて、ファウスタは流れるようにお礼を言った。
言い終わった瞬間、自分の声がやけに部屋の中に響いた事に気付いた。
はっとしてテーブルの上座の方を振り返ると、全員が吃驚したような目をしてファウスタに注目している。
給仕の少年二人とユースティスもファウスタを凝視していた。
(また失敗しちゃった!)
ファウスタはしゃべってはいけないと言われていたことを思い出した。
(しゃべっちゃった……どうしよう……)
しんと静まり返った使用人食堂で、全員の目がファウスタに集中し、空気がぴんと張り詰めた。
その静寂を破り、視線を分散させたのはユースティスだった。
「すみません、アルカードさん」
ユースティスは良く出来た人形のようにアルカードの近くに給仕として立っていたが、彼の目はまたランプのような青い火を灯していた。
「今、皿が自分の意志でテーブルの上を歩いたように見えたのですが、ご覧になりましたか」
「そうですね。誰の手も借りず、皿が独自にテーブルの上を動いていたように見えました」
アルカードは状況を説明するかのように、淡々とユースティスに答えた。
使用人たちは視線を自分のお茶に戻し、静かに飲食を再開しはじめたが、アルカードとユースティスのやりとりに耳を澄ましているようだった。
「ファウスタが皿を動かした者にお礼を言っていたように見えましたが、誰かがいたのか彼女に質問してもよろしいでしょうか」
「私が聞きましょう」
アルカードはそう言うと、最奥の席から末席のファウスタに声をかけた。
「ファウスタ、誰かが皿を動かしていたのですか?」
「……は、はい」
ファウスタは動揺で少し裏返った声で答えた。
「皿を動かしていたのは、どのような人物でしたか?」
「……茶色のドレスの、女の人です」
「その女性はまだここに居ますか?」
アルカードにそう言われ、ファウスタは周囲を見回してみたが誰もいなかった。
(幽霊だったの? ……ふつうの人間みたいにしゃべってたのに)
アメリアが少し驚いているような顔、テスが何かわくわくしているような楽しそうな顔をしてファウスタを見ているのが目に入った。
「もう居らっしゃらないようです」
「そうですか」
アルカードはテーブルの様子を見回した。
「この屋敷には目に見えない不思議な存在がいると伝えられています。見えない存在が年若い使用人の仕事を助けることもあるようです。ファウスタが見たのはおそらくそういう存在でしょう」
アルカードはファウスタにそう言うと、首をすこし巡らせて給仕の少年の方を見た。
「ルーイ、軽食の皿の位置はファウスタの手が届く場所でしたか?」
「え?! あっ! すみません!」
ルーイと呼ばれた金髪の少年は、アルカードの指摘に慌てたようだった。
「すぐに取り分けます!」
ルーイはあたふたと新しい皿を用意し、大きなハサミのような洒落た形をした銀製トングでパンや揚げ物を取り分けはじめた。
(失敗する人もいるんだ)
ファウスタはルーイ少年の慌てぶりにとても親近感を持った。
「ルーイ、給仕は常にテーブルの状態を最善に整えなければいけません。途中から席に着く者がいたなら料理の配置も確認する必要があります。形をなぞるだけではなく状況に合わせて対応することが大切です」
「はい、アルカードさん」
執事のバーグマンはアルカードの話に感じ入っているようで、うんうんと何度も頷いていた。
マクレイ夫人は何事もなかったように平然とお茶を飲んでいる。
(そっか、私が最初はいなかったから、お皿があの位置に置かれてたんだ)
最初のいくつかの大皿の位置は、ファウスタがいないと考えると、全ての使用人の手が届くように分けられ等間隔に配置されていた。
「ファウスタ」
「はい」
アルカードに呼ばれ、ルーイの仕事ぶりを見ていたファウスタは振り向いた。
「ファンテイジ家の屋敷ではこういった風変りな事がこの先も起こるかもしれません。しかし使用人は動揺してはいけません。使用人は自分に与えられた仕事を完璧に行うことだけを気にかけていれば良いのです」
「はい。解りました」
(ジゼルも似たようなこと言ってたな)
怪奇現象について「無視ですべて解決」と言っていたジゼルの顔をファウスタは思い浮かべた。
今朝まではジゼルと一緒にいたのに、たった半日で色々なことがありすぎて、随分遠く離れてしまった気がした。
「アルカードさん、お茶のおかわりはいかがですか」
アルカードのカップが空になったのだろう、ユースティスがアルカードに言った。
「いいえ結構です。気遣い感謝します」
アルカードはお茶の二杯目を断ると、自分の取り皿の左右に置かれていたナイフとフォークを一つにまとめ、取り皿の上に縦に置いた。
それが合図であるかのように、バーグマンとマクレイ夫人も同じようにナイフとフォークを縦に束ね、他の使用人たちはカップなど手にしていた物を置いた。
ファウスタは隣の席のテスにテーブルの下で指でツンツンされて気付き、手にしていたパンを置いた。
「美味しいお茶でした。ありがとう」
アルカードはそう言うと席から立ち上がった。
アルカードが立つと同時に、テーブルの全員が一斉に起立する。
ファウスタも慌てて起立する。
「これで失礼します。皆さんはどうぞそのままゆっくりしていってください」
アルカードはそう言うと、バーグマンとマクレイ夫人を引き連れて使用人食堂から退出して行った。
下級使用人たちは一斉に礼をして退出する三人を見送った。
「もうしゃべって大丈夫よ」
『上の三人』が退出して扉が閉じたことを見届けると、テスはぱっとファウスタの方を振り返って小声で言った。
「でも大きな声は駄目よ。小さい声でね」
「はい」
上級使用人である三人がいなくなると、一気に部屋の空気がゆるんだ。
下級使用人たちは皆、肩の荷を下ろしたかのように表情を和ませ、くつろいだ姿で次々と着席した。
小さな話し声が立ち始め、さざ波のようなざわめきになる。
みんな急に食欲が増したようで、大皿に盛られた食べ物が次々とそれぞれの取り皿に取られていく。
(大人の人たちも緊張していたのかしら)
さすがに孤児院の居間ほど騒がしくはないが、ほど良いざわめきにファウスタはほっとした。
「ねね、ファウスタが見たのは、きっと屋敷精霊様よ」
テスは明るい茶色の目をキラキラさせてファウスタに言った。
「私もね、屋敷精霊様に何度も助けてもらったの」
「見たんですか?!」
「いいえ。お姿を見たことはないの。でも助けられたのよ」
テスは少し高揚した口調で話し始めた。
「ここに来たばかりの頃にね、ミルクの瓶を倒したとき、倒れなかったのよ。不思議でしょ? 倒れないで元の位置に戻ったの。屋敷精霊様が受け止めて戻してくださったのよ」
テスは祈りを捧げるかのように両手を胸のあたりで組み合わせた。
「洗い場でお皿を落としちゃったときも、落ちなかったのよ。空中で止まって、その後そおーっと置かれたの」
「私は騒霊現象は初めて見たわ」
テスの向こう側の隣りの席にいるアメリアが、揚げ物をフォークでつつきながら、何かを思案しているような難しい顔で言った。
「みんな見た事あるのに私だけ見た事なかったのよね。今日初めて見たわ」
「そりゃあアメリアは全然失敗しない人だもん」
テスがアメリアのほうを振り向いて、当然のように言った。
「失敗しない人は助ける余地がないじゃない」
「私だって失敗くらい沢山あるわよ」
「アメリアの失敗はたぶん失敗のうちに入らないよ。仕事早いし何でもできちゃうんだもん」
テスがアメリアと話しているのを聞きながら、ファウスタは固焼きパンに手を伸ばした。
アルカードたちが居たときの緊迫した空気の中では、失敗する事が怖くて、失敗が少なそうな無難な白パンを選んで食べていた。
白パンがすごくふわふわしていたことは覚えているが、緊張していたせいか味はよく覚えていない。
しかし今のこの気安い空気ならちゃんと味わって食べることができるだろう。
目の前の固焼きパンを見ただけで、屋根裏で食べた美味しさが思い出された。
ファウスタは屋根裏部屋でアメリアに教わったように、取り皿に取った固焼きパンを二つに割いた。
そして一口分を千切り、ジャムを塗り、固クリームを上に乗せて口に入れた。
(やっぱり美味しい!)
神経が磨り減るような緊張の連続で疲れきったファウスタの口の中に、固焼きパンの美味しさが染みわたった。
やわらかくほんのり甘味のある生地に、甘酸っぱいジャム、濃厚な固クリーム。
ファウスタは美味しさを噛みしめた。
「ちゃんと出来ているようね」
突然、背後から声がして、ファウスタはびくっとして振り返った。
ファウスタの背後にぬっと立っていたのは、色素の薄い金髪に青い目、雪の妖精のような美人メイド、クレア・ノリスだった。
黒いドレスに白いフリルのエプロンをした彼女は、銀色のトレイを持っていた。
「あなたがきちんと作法を覚えてくれたようで嬉しいわ」
クレアは薄く笑った。
クレアの前では固クリームの順番に特に気をつけるようにとアメリアに言われていたことを思い出し、ファウスタは再びビリッと緊張した。
順番を間違えてはいないはず、固クリームが上で間違いはないはずだ。
それでも謎の微笑を浮かべたクレアに見つめられると、何かの試験を受けているような気分になり不安が霧のように押し寄せて来た。
「私は賢い子が好きよ」
クレアは手に持っていた銀のトレイに乗せていた皿をテーブルの上に置いた。
皿の上にはこんがりとした狐色でふっくらとした厚みがあるパイのようなものが乗せられている。
そのパイのような焼き料理は、半分ほどが切り分けられていて、ちょうど一人分くらいのピースが欠けていた。
「ファウスタ、あなたは肉詰めパイは好きかしら?」
(肉詰めパイ!!)
ファウスタは心の中で叫んだ。
肉詰めパイといえば、孤児院では一年にたった一度、聖誕祭の日の食卓にだけ現れる幻のメニューだ。
肉詰めパイが嫌いな子なんていなかった。
ファウスタも他の子供たちもヤルダバウト神や聖典には全く興味がなかったが、肉詰めパイは大好きだったので、聖誕祭という『肉詰めパイの日』をとても楽しみにしていた。
「す、す、好きです!」
クレアはファウスタの素直な返事に微笑みを深くした。
そしてアメリアとテスに目をやった。
「アメリア、テス、あなたたちは肉詰めパイは好きかしら?」
「はい! クレアさん!」
「はい、好きです!」
おしゃべりをしていたアメリアとテスは即座に椅子から立ち上がり、クレアの質問に鋭く反応した。
ファウスタも慌てて二人の真似をして椅子から立ち上がった。
「肉!?」
大人の使用人たちの給仕をしていた少年二人が「肉」という単語に反応し、クレアが置いた皿に羨望の眼差しを向ける。
「ドム、ルーイ、あなたたちもこの肉詰めパイが食べたいのかしら?」
「はい、クレアさん!」
「はい!」
「ではこちらに来なさい」
クレアの前に給仕の少年二人も集った。
「賢い子だけがこの肉詰めパイを食べることが出来ます」
クレアはあたかも預言の天使のように言い放った。
「さあ少年少女たち、賢さを示したいなら私の質問に答えなさい」
クレアがそう言うと、煉瓦色の髪の少年が即座に「はい、答えは固クリームです」と答えた。
「ドム、私はまだ質問を言ってないわ」
「申し訳ありません、クレアさん。ですが新人がいるので正しい選択をするにはヒントがあった方が良いと愚考いたしました」
「まあ、優しいのね。いいでしょう」
クレアは頷くと場を仕切り直した。
「では改めて、少年少女たちに質問します。固焼きパンに塗る固クリームとジャム、どちらが上かしら?」
「固クリームです!」
「固クリームが上です!」
見習いの少年少女たちは大きすぎない声で、しかし熱意と期待を込めて異口同音に答えた。
その合唱の中になにやら野太い声も一つ混じっていた。
「みんな正解よ」
クレアは少年少女たちの答えに満足気に頷いた。
「この肉詰めパイは賢いあなたたちのものよ」
「やった!」
少年二人と一人の男性使用人が音を立てないようにハイタッチし合った。
ファウスタもアメリアやテスと笑顔で目を見交わした。
「アメリア、あなたが切り分けなさい。後はまかせるわ」
「はい、クレアさん!」
クレアはアメリアにそう指示してから、少年たちと肩を並べて肉詰めパイの獲得を喜び合っている男性使用人に冷たい視線を向けた。
「ダミアン、あなた何してるの? あなたは少年じゃないでしょう」
いつの間に来たのか、少年たちと並び「固クリーム」の合唱に加わっていた男性使用人は、クレアの凍てつく眼差しを物ともしない豪胆さで堂々と答えた。
「私は永遠の少年です」
「ふざけないで」
クレアはダミアンの戯言を一刀両断した。
(魔物も肉詰めパイが食べたいのかな)
クレアと言い合っているダミアンというその男性使用人が青い煙を纏っているのを視て、ファウスタは内心首をかしげた。
大人なのに子供に混じろうとした行動は理解できた。
肉詰めパイの魅力を考えれば不思議ではない。
だが彼は青い煙を纏っているので魔物だ。
(魔物は神の敵のはずだけど……)
聖誕祭の日や何やらで、孤児院ではたびたび聖典が読まれた。
勉強の一環として年長の子供は聖典の音読もやらされた。
だから孤児院の子供たちはヤルダバウト教について何となく知っている。
魔物は神の敵であること。
肉詰めパイは神がもたらした祝福された料理であること。
神に祝福された料理が好物だなんて、魔物としておかしいのではないだろうか。
「はい、ファウスタの分」
アメリアが肉詰めパイを切り分けて、ファウスタの皿に乗せてくれた。
「ありがとうございます!」
こんがりとした焼き色の肉詰めパイを前にして、神と魔物についての疑問はファウスタの頭から霧散した。
音を立てないように注意しながら、肉詰めパイをナイフで一口大の大きさに切り、フォークで口に運んだ。
(美味しーい!)
見た事もない奇跡のような分厚さの肉詰めパイは、味も天国だった。
やわらかい肉に、煮込んだシチューのような濃厚な味わい、ソースが絡んでいるのか歯を立てるとじゅわっと旨味が広がり、そして香辛料がピリリと効いている。
孤児院で食べていたあの肉詰めパイは一体何だったのだろうと、ファウスタは記憶を振り返った。
今食べている肉詰めパイに比べると孤児院のそれは、ぺしゃんこで、肉もぱさついていて、塩味だった。
それでも孤児院の子供たちにとっては一年に一度のご馳走だったのだが。
偽物だったのだろうか。
(きっとこれが本当の肉詰めパイなんだわ。今まで騙されてたんだわ)
「ダミアンさんの分です」
アメリアが肉詰めパイを乗せた皿をダミアンに渡そうとすると、ダミアンはそれを断った。
「いいよ、いいよ。子供たちで食べて」
「食べたかったんじゃないんですか?」
「少年ですって言ってみたかっただけ。デリケートなお年頃なんだ」
「はあ?」
ダミアンの謎の理由にアメリアは首を傾げた。
(やっぱり……魔物は祝福の肉詰めパイを食べられないんだ)
ダミアンの言動を見て、ファウスタは疑問を膨らませた。




