72話 灰色の霧の発生源
「灰色の霧みたいなモヤがモクモクしています。モクモクで何も見えません」
ファウスタたちは居間に案内された。
ファウスタが眼鏡を外して部屋の中を視ると、灰色の霧が濃すぎて何も見えないほどだった。
あるはずの優美な曲線の家具たちも霧の中に埋まってしまっている。
窓の方が明るいのは日差しが入っているからだろう。
灰色の霧はじっとりしていて、気分が憂鬱になる嫌な感じがした。
廊下を歩いているときも何となくまといつく不快感があったが、この部屋は不快感が濃く、肌が少しピリピリするほどだった。
(ユースティスさんやルパートさんのエーテルに乗ったときは別に何ともなかったのに。この部屋のエーテルは嫌なのだわ。冬の寒い日の野菜洗いの水みたいに触りたくない嫌な感じなのだわ)
眼鏡を掛け直すと、灰色の霧は全て消え、美しい部屋が姿を現す。
金色の草花のようなレリーフで飾られた白い天井には芸術品のようなシャンデリア。
白い壁にアクセントのように金の額縁の絵画が飾られていて、その金色が白い壁に良く映えている。
カーテンやソファの空色が、白を基調とした部屋の中に爽やかだ。
白と青系色でまとめられ金色がアクセントに使われているその部屋は、豪華だがごてごてしたくどさも重さもなく、清涼な軽やかさがある落ち着いた部屋だった。
都会的で洒落ている。
(素敵なお部屋)
ファウスタは部屋の美しさについ見惚れたが、霊視の仕事中であったので雑念を頭から追い払った。
のんびり鑑賞している場合ではないのだ。
(ジゼルやピコを守る法律を作って貰うために、ロスマリネ侯爵様のお役に立たなければ)
「廊下も霧がモクモクでしたが、このお部屋は廊下よりもっとモクモクです。嫌な感じがするので、この部屋には入らない方が良いと思います」
「居間なのだが……」
ロスマリネ侯爵は言葉を濁した。
居間は主人一家がくつろいだ時間を過ごす部屋で、朝食や昼食を居間で気さくにとる貴族は多い。
ファンテイジ家でもマークウッド辺境伯夫妻は居間で朝食をとっている。
居間に入らないようにするとなると、主人一家が日常を過ごすために別の部屋を用意しなければならなくなるので、ほぼ引っ越しのような面倒さがあるのだ。
「恐れ入ります、閣下、発言をお許しいただきたく存じます」
ユースティスが進み出ると、すかさず令息シリルが援護射撃をした。
「父上、ユースティスは僕の友人です。自由に発言させてやってください」
「ああ、いいとも。マークウッド卿の……失敬、リンデン氏の探偵社の諸君は誰でも自由に発言してくれたまえ」
「ご厚情に感謝いたします、閣下」
ユースティスは礼を述べ、そして提案した。
「部屋が霧で煙っているというならば、窓を開けてみては如何でしょう」
「……煙って……いるのかね?」
ロスマリネ侯爵は難問に挑むような表情で部屋の中を見回した。
ファウスタ以外の者には灰色の霧は視えていないのだから、戸惑うのは当然だろう。
「ファウスタに霧の発生源を発見してもらうためには、まず部屋の中の霧を除去して見透しをよくする必要があると愚考いたします」
「……ふむ、そういうものかね」
ロスマリネ侯爵は見えない霧に首を傾げながらも、使用人に指示した。
「クラーク氏、窓を開けてくれたまえ」
「かしこまりました」
クラークと呼ばれた上級使用人は、付き従っていたロスマリネ家の男性使用人たちに窓を開けるよう指示した。
(あのクラークさんという人がきっと家令なのだわ)
上等な黒の上下で、明らかに上級使用人と解る二人の男性のうち、クラークと呼ばれた人物がもう一人に指示を出したことから、ファウスタには役職が解った。
クラークが家令で、指示されたもう一人の黒服が執事なのだろう。
揃いの濃紺のベストを着ている男性使用人たちは従僕だ。
(ロスマリネ家の家令はおじさんなのね)
ファウスタは初めて見た家令がアルカードだったので、家令とは長年勤めた老人が就く役職というイメージを持っていた。
長年勤めた熟練の使用人が家令になるという点は間違っていないのだが、ロスマリネ家の家令クラークのように四十代前後の働き盛りの男性が家令となるのが世間では一般的であった。
「ファウスタ」
ユースティスがすっとファウスタに近付いて来て、小声で囁いた。
「窓から風が入るまでは眼鏡を外さないで」
何か含みがあるような微笑みを浮かべてユースティスは言った。
「風が収まるまでは眼鏡はそのまま。風が収まったら眼鏡を外して大丈夫だよ」
「はい」
(……風?)
従僕や執事たちの手により、部屋の窓が次々と開けられて行った。
すぐに部屋の窓が全て開け放たれた。
――そのとき。
「ひゃっ!」
「うおっ!」
「っ……!」
突風が巻き起こった。
まるで大嵐の日のような、体が吹き飛ばされそうなほどの風圧のある強い風が、突発的に発生した。
突然の強風にファウスタは吃驚して、反射的に手で顔をかばい目を閉じた。
ロスマリネ家一同もマークウッド辺境伯とオクタヴィアも身を縮めた。
びゅうっと吹き荒れたその風は、しかし一瞬だけですぐに消えた。
あれほどの強風だったのに、部屋に飾られている調度品は全て無事だ。
天井のシャンデリアが微かにゆらゆらと揺れ、クリスタルの飾りが軽くぶつかり合ってチリンチリンと鈴のような小さな音を立てているだけだ。
「……春風か……?」
ロスマリネ侯爵は驚きの表情のまま呟いた。
何か不思議な手品を見たかのように一同は呆然としていた。
三人の吸血鬼たち以外。
「霊現象なのだよ!」
驚愕から復活し体勢を立て直したマークウッド辺境伯が勢いよく言った。
「あれだけの強風で何ともないのだ! これは霊現象なのだよ!」
(ユースティスさんが言った風って、今の風?! ユースティスさんがやったの?!)
ファウスタが吸血鬼たちを振り向くと、彼らはいつもどおりの平然とした様子で微笑んでいた。
ユースティスはファウスタの視線に頷いてみせると、声を出さずに「もう、いいよ」と言った。
(やっぱりユースティスさんの仕業なのね)
ファウスタは確信した。
ユースティスはエーテルを飛ばしてデコピンができるのだ。
今の風はデコピンの応用なのだろう。
(デコピンで風を起こすなんて。恐ろしい力なのだわ。だからネルさんはあんなにユースティスさんを怖がっていたのね)
ファウスタはユースティスの力に慄きながらも正面に向き直ると、眼鏡を外して部屋の中を視た。
(あっ! 視える!)
部屋に充満していた灰色の霧はさっぱりと吹き飛ばされていた。
床のあちあこちや部屋の隅、調度品が重なっている場所などに、灰色のモヤモヤの残滓はあったが、ほとんど全てが吹き飛ばされていた。
その灰色の残滓のいくつかは、ゆるやかに動いていた。
そしてゆっくり蠢くモヤモヤの何ヵ所かから、新たに灰色の霧が濃さを増しているように見えた。
飾り台の上の壺や小さな彫刻、暖炉飾りの上の細工品のいくつか、そして部屋の隅に置かれている彫刻、壁に飾られている小さな絵。
飾りとして置かれている品のいくつかが、ほぼ吹き飛ばされながらも、頑なに灰色の霧をまとっている。
消えてしまった霧が元に戻ろうとしているのか、灰色の霧はその品々の表面で蠢いて伸び広がろうとしていた。
「解りました! 霧の発生源が視えます!」




