62話 新世界
「ファウスタ様」
名前を呼ばれてファウスタは目を開けた。
屋根裏部屋の斜めの天井ではない、知らない綺麗な天井が見えた。
(そうだ、三階に引っ越したんだ)
ファウスタは眠りから目覚めたばかりのぼんやりした頭で状況を把握した。
「朝早くに申し訳ありません」
三階のベッドで眠っていたファウスタを起こしたのは、アメリアではなく吸血鬼の侍女ネルだった。
「ネルさん……」
ファウスタは、はっと気付き、ベッドから弾かれるように身を起こした。
「すみません! 寝坊してしまいました!」
「いいえ! 違います!」
跳び起きてあわあわするファウスタに、ネルはおろおろして説明した。
「ファウスタ様に急な予定が入ったのです」
「私の、予定ですか?」
「はい。本日の予定には吸血鬼が同行いたしますので眼鏡が必要であろうと。そのため急ぎお届けにあがった次第です」
まだ起床の時間には早いことをネルは申し訳なさそうに伝え、箱に入った眼鏡をファウスタに恭しく差し出した。
それは巻つるテンプルの丸眼鏡だった。
マークウッド辺境伯のような片眼鏡ではなく、二つの鏡面がついている品だ。
ファウスタは視力検査をしたあと、眼科医に眼鏡を勧められていた。
眼科医が眼鏡が必要だと診断してマークウッド辺境伯夫人ヴァネッサに報告するよう、吸血鬼たちが催眠術を使ったのである。
それについてファウスタは、ネルから『エーテルは目に悪いので、目を防護する眼鏡が必要なのです。眼鏡の使用を不審に思われないよう、眼科医に少し協力して貰ったのです』と説明を受けていた。
エーテルから目を守る特別製の眼鏡は近日中に届けられる事になっていた。
それが今、ファウスタの前に差し出されている眼鏡なのだろう。
(この眼鏡は、つるを耳に掛けるのかしら)
ファウスタはネルから受け取った眼鏡を、矯めつ眇めつした。
レンズが二つある眼鏡を掛けている人を新聞の写真などで見た事はあったが、実際に巻つるテンプルの眼鏡を見るのは初めてだった。
ファウスタは写真で見た人々がそうしていたように、二つの鏡面がちょうど目の位置に来るように眼鏡を鼻に乗せた。
そして巻つるを耳に掛けてみた。
「あっ!」
その眼鏡を通してネルを見て、ファウスタは驚愕した。
「ネルさんが! すごい美人です!!」
「……?!」
「すごく綺麗です!」
突然ファウスタに容姿を褒められ、ネルは照れたのか戸惑ったのか、挙動不審になった。
「ネルさんの顔に色がついてます!」
眼鏡を通して見ると、雪花石膏の彫像のように真っ白だったネルの顔が色付き、まるで人間のような顔色になっていた。
色付いたせいなのか、美人度が上がっている。
そして霧が晴れたように、今までよりはっきりと見えた。
「私共は人間に見えるよう、容姿を幻術や魅了術で補正しております。ファウスタ様にはそれが霧のように見えていたのでしょうか」
「青い煙が全然見えなくなりました。普通の人間と同じに見えます」
今までとどう違うのか、どう見えるのかというファウスタの説明を聞き、ネルは感心するように何度も頷いた。
「ラウルさんも人間に化けているのですか?」
ファウスタは二足歩行する狼にしか見えない従僕の名を上げた。
「もちろんです。ラウル様も人間の目には人間の姿に見えているはずです。もし狼のまま見えていたら騒ぎになっているはずです」
ファウスタはネルの説明を聞き、納得して頷いた。
狼の姿で人間のように動いたりしゃべったりするラウルが、みんなにも狼の姿に見えていたら、ネルの言う通りきっと騒ぎになるはずだ。
そして彼は珍しい動物として捕らえられ、動物園か見世物小屋に連れて行かれるのだろう。
狼は猛獣だから、猛獣がびっくりするような芸をするという噂の曲芸団に連れて行かれて芸を仕込まれるかもしれない。
だからラウルが人間として扱われ、従僕として働いているという事こそが、人間と同じに見えている証明になっているのだ。
「ファウスタ様はロスマリネ侯爵のお招きを受けております」
ファウスタが眼鏡から見える新世界についての感想をあらかた言い終わると、ネルはおずおずとファウスタに予定を告げた。
「……侯爵?!」
侯爵と言えば、貴族の中でもとても偉い貴族だ。
ファウスタだってそのくらいは知っている。
「わ、私が?! 侯爵様に会いに行くのですか?!」
何となく偉い人を怖いと思っているファウスタは、表情を強張らせた。
「はい。昨日の夜遅く、旦那様はお帰りになると突然その予定を告げられました。本日、ロスマリネ侯爵のお屋敷にファウスタ様をお連れして霊視を行うお約束をなさったとの事です」
「今日行くのですか?!」
「……おそらく?」
ネルは自信がなさそうに答え、ファウスタに更なる事情を説明した。
マークウッド辺境伯は、朝食後にすぐに出発したがっている事。
ヴァネッサ夫人は、午前中に押しかけるのは先方に負担をかけるからせめて午後にと、出来れば先方が準備に充分な時間を取れるよう後日改めての訪問にするようにと進言している事。
ファウスタの主人である令嬢オクタヴィアはこの事をまだ聞かされていないが、知ればきっとファウスタに同行すると主張するだろう事。
そして招待されていないオクタヴィアの同行を夫妻は反対するだろうから、朝食後にご家族でひと騒動あるかもしれない事。
「どのような予定が組まれるかはご家族の話し合いの結果次第となりますので、今の時点では未定なのです。しかし最速であれば本日の朝食後の出発となりますので、急ぎ眼鏡をお届けする事となりました」
そしてネルは「魔物を眼鏡無しで見ないように」とファウスタに注意した。
太陽を見つめる事が目に悪いのと同じように、それは目に悪い事なのだと。
霊視はもちろん眼鏡を外して行うが、身分の高い人の前で眼鏡を掛けていることは失礼に当たるので、もしかするとロスマリネ侯爵邸では眼鏡を外して行動するかもしれないとの事だった。
「このお屋敷の、私以外の魔物の方々は、皆さん強力なエーテルをお持ちです。ロスマリネ侯爵邸へはミラーカ様、ユースティス様、ルパート様がご同行なさるかと思いますが、眼鏡無しでは直視しないようお気をつけくださいませ」
「まあ! 眼鏡が届いたのね!」
ファウスタがネルに手伝われ身支度を終えた頃、家女中のデボラがファウスタを迎えに来た。
いつもの朝の仕事に一緒に行くためだ。
デボラはファウスタの眼鏡を物珍しそうに見て「偉い学者さんみたいね!」と感想を述べた。
「ファウスタがロスマリネ侯爵のお屋敷へ?!」
ネルからファウスタの予定変更を知らされ、デボラは驚きの声をあげた。
「ファウスタが呼ばれるという事は、ロスマリネ侯爵のお屋敷に悪魔か幽霊が出たのかしら?!」
デボラが好奇心に目を輝かせてそう言うと、ネルは困ったように微笑した。
「滅多なことは言えませんので……」
「そうね、そうよね」
何か確信があるかのように何度も頷くデボラに、ネルは言った。
「ファウスタの予定変更をお嬢様にいつ知らせるかは、奥様がご起床されたらお伺いいたします。途中でファウスタを呼び出す事になると思いますが、それまではいつも通りの仕事をしていてください」
「解りました」
デボラは何か期待に満ちているような、プレゼントの開封を待ちわびる子供のようなわくわく顔で、力強くネルの言葉に頷いた。
「若様はロスマリネ侯爵のご令息とご友人でいらっしゃるの」
オクタヴィアの部屋の朝の掃除をしながら、デボラはファウスタに小声で語った。
「若様から、ファウスタの事がロスマリネ家に伝わったのかもしれないわ」
ファンテイジ家の令息オズワルドは、ファウスタが住み始めたこの三階に居ると聞いているが、ファウスタはまだ一度も会ったことがない。
知らない人が知らない場所で自分の事を話していることが不思議に思えた。
「ファウスタはパシテア公爵を知っているかしら?」
「いいえ」
「パシテア公爵は女王陛下の次男で、タレイアン公爵の弟君よ」
「女王陛下の?!」
ファウスタは女王陛下や王太子のタレイアン公爵くらいは知っていたが、王族についてはよく知らなかったので、パシテア公爵という名前は聞いたことがある気はしたがどういう人なのかは知らなかった。
女王陛下の息子であったことをデボラから聞いて初めて知った。
「パシテア公爵夫人はロスマリネ侯爵の妹君でいらっしゃるの」
デボラはわくわく顔でファウスタに囁いた。
「ファウスタがまたお手柄を立てたら、もしかしたら女王陛下のお耳にもファウスタの話題が届くかもしれないわね」




