57話 ファウスタの新しい日々
「ファウスタ、とても良く書けていますよ。でもね……」
家庭教師のポラック夫人がファウスタに勉強を教え始めてから一週間が経過した。
彼女は三日目くらいにファウスタの日記に違和感を覚えた。
それから数日、見守っていたが、今日はついに注意を入れる決心をした。
「お食事以外の事も書いてみたらどうかしら?」
「あの、でも、一番の事件だったのです」
少し不安そうな顔でそう言うファウスタを、ポラック夫人は優しく諭した。
「この日記は文章の練習のために書いてもらっているの。お料理や食材の種類を覚えることも大事ですが、もっと色々な事を書いて、色々な単語や文章に挑戦して欲しいのよ」
ファウスタの日記には毎日食べ物の事が綴られ、料理名が並んでいた。
『肉』『美味しい』という単語が毎日登場している。
焼き菓子も大好きで、魚料理にも関心を持っているらしい。
ファウスタには庶民の十二歳の子供としては充分な学力があった。
いくつかの試験の結果、イングリス語、算術、神学の初等教育をきちんと修めている事が知れた。
外国語や歴史、音楽、美術など多岐に渡って学んでいる貴族の子供には及ばないが、庶民の子供としては充分と言える。
礼儀作法も中流階級の子供であれば通用する程度には躾けられていた。
しかし日記には食べ物のことしか書かれていない。
学力や教養と比較して見ると、この食べ物一色の日記はどうにもちぐはぐだった。
「昨日はお食事以外に事件はなかったかしら?」
ポラック夫人の言葉に、ファウスタは少し考え込むような顔をして答えた。
「昨日はお医者さんが来ました」
「どこか具合が悪いのですか?!」
「いいえ。どこも悪くありません。健康の検査だと言われました。小さい字がどこまで見えるか検査しました。大丈夫だと言われました」
「眼科医が来たのね。何でもなくて良かったわ」
ポラック夫人はほっと胸をなでおろした。
「それで眼鏡を作ることになりました」
「……」
ファウスタが語った話の真実を、ポラック夫人は大人の知性で察した。
眼鏡を作るという事は、視力が弱っているという事だ。
それでも医師が『大丈夫』と告げたのは、まだ子供のファウスタを不安にさせないための配慮だろう。
(もしかして孤児院で充分な食事が与えられていなかったのかしら。それで栄養不足で視力が……)
ファウスタの日記と、眼鏡の話から、ポラック夫人は悲劇を想像した。
ポラック夫人は子供に知らせるべきではない悲劇を自分の胸に仕舞い込み、話題を変えようと試みた。
「この部屋には慣れましたか?」
三日ほど前からファウスタは、三階の一室であるこの部屋で勉強をしていた。
実用的な家具で統一されている、アルカードの家令室やマクレイ夫人の家政婦長室に似た雰囲気の部屋だ。
「はい。慣れました」
「それは良かったわ。そろそろお引っ越ししても大丈夫そうかしら?」
この部屋はファウスタに与えられた部屋だった。
しばらくは勉強や休憩にこの部屋を使い、慣れて来たら屋根裏からここへ引っ越す事になっていた。
マークウッド辺境伯令嬢オクタヴィアが用意し、侍女たちが丈直しをした何着ものドレスは、すでにこの部屋に収納されている。
「……はい。大丈夫です」
「まあ!」
ファウスタの口から肯定の言葉が出て、ポラック夫人は軽く驚いた。
ポラック夫人はファウスタが「まだ無理です」と言うと思っていたのだ。
ファウスタが否定した後、ポラック夫人は「そんなに気を張らなくて良いのよ」と励ましの言葉を掛ける準備があったのだが、それは必要無くなった。
「貴女がお屋敷の生活に慣れて来たようで安心したわ。お引越しの件は私から奥様に伝えておきますね」
「はい、よろしくお願いします」
「では明日の日記には、お部屋のお引越しの事を書いてもらえるかしら?」
「はい、ポラック先生。頑張ります」
「ねね、ファウスタ、明日お引越しするの?」
使用人食堂での午後のお茶。
大人の使用人たちが退室し、見習いの少年少女たちだけの気楽な時間になると、蜂蜜色の髪の見習い女中テスが興味津々にファウスタに話しかけて来た。
オクタヴィアがあまりにもファウスタを手放さず、常に身近に置きたがるので、マークウッド辺境伯夫人ヴァネッサはファウスタの負担を危惧し、使用人たちの午後のお茶の時間にファウスタも参加できるように配慮したのだ。
良い主人は使用人の休憩時間にも気を遣うもの、とヴァネッサに諭され、オクタヴィアはしぶしぶ了承したのだった。
午前の勉強時間についても「貴女は作法学校に入学する年なのだけれど」とヴァネッサに指摘されると、オクタヴィアは顔色を変え、急な仮病で部屋に戻って行ったのだった。
以後、仮病で体が弱いオクタヴィアは、基本自室で養生している。
ファウスタは一日のうち何度か、朝夕の待機時間と、食事やお茶の時間をオクタヴィアと一緒に過ごしているが、昼間は侍女見習いとして勉強や修練に励んでいた。
「はい。明日の朝食の後、三階にお引越しする事になりました」
ファウスタは本当は屋根裏部屋にずっと居たかったのだが、もうすぐ新しい家女中や見習い女中が来ると聞いて、引っ越しをする決心をした。
あの落ち着ける素敵な屋根裏部屋は、家女中や見習い女中のための使用人部屋なのだから。
侍女見習いになった自分が我儘を言って、いつまでも占拠していてはいけないとファウスタは思ったのだ。
「そんなふうに思うのは今だけよ」
ファウスタが素敵な屋根裏部屋への熱い気持ちを語ると、暗金色の髪の見習い女中アメリアが冷めた顔で言った。
「今は過ごしやすい季節だから良いけれど、屋根裏って夏は暑くて冬は寒いの。風通しの良い窓と暖炉がある部屋に一度でも住んだら、屋根裏に戻りたいなんて思わなくなるわよ」
「でもベッドのシーツがさらさらで……」
「シーツのリネンはどこでも同じよ」
アメリアは固焼きパンに固クリームを乗せながら淡々と語った。
「このところアルカードさんは、いつも午後はいないね」
金髪の従僕見習いの少年ルーイが誰に問うでもなく、フォークで芋の揚げ物をつつきながら呟いた。
「アルカードさんは引退しているようなものだから。珈琲館の方に行ってるんじゃないの」
揚げ物やパンをもりもり食べていた煉瓦色の髪の従僕見習いの少年ドムが、食事に一区切りついたのかルーイの疑問に答えた。
ドムの答えを聞いていたアメリアが頷く。
「使用人を引退した後は経営者になる。まさに成功者の人生ね」
話が見えずにポカンとしているファウスタに、テスが説明する。
「アルカードさんは去年、辞職願を出したの。でも旦那様とバーグマンさんが大泣きしちゃってね、それで残る事になったんだよー」
辞職願を出したアルカードに、マークウッド辺境伯は「居てくれるだけで良いのだよ」と泣きつき、数々の特例を認めたのだという。
アルカードは家令という身分はそのままで屋敷に残る事になったが、家令の仕事の大半は、執事のバーグマン他、男性の使用人たちに割り振られ、アルカード自身は珈琲館の経営を始めたとの事だった。
「大衆酒場や喫茶店の方が絶対儲かるのに、珈琲館ってところがアルカードさんらしい渋い選択だよなあ」
「アルカードさんは真面目な人だから、酔っ払いや浮ついた連中の相手をしたくないんだろう。大衆酒場や喫茶店は風紀が乱れているからね」
少年たちの話に、アメリアが首を傾げた。
「喫茶店は大丈夫でしょう? 女性も入店できるし」
「女性が入店できるからこそ風紀が乱れているんだよ」
食後のお茶を飲みながら、ドムが少し難しい顔をしてアメリアに答えた。
「最近の喫茶店はすっかり男女交際の場所になってるんだ。女性と知り合う目的で入店する男たちも大勢いる。君たちも……」
ドムは少女たちに向けて言った。
「女性だけで喫茶店に行くときは充分に気を付けた方がいい。様子の良い男に声を掛けられても気軽に応じないようにね。うっかり気を許して付いて行ったりしたら、危ない目に会うよ」
「私は大丈夫よ。美人じゃないから」
アメリアは自信満々に言ったが、ドムはそんな彼女に呆れた視線を向けた。
「君は騙されやすそうに見えるよ」
「失礼ね。そんな事ないわよ」
不服そうなアメリアに、ドムは小さく肩をすぼめた。
「お世辞を言われてボーっとしないように気を付けなよ。悪い詐欺師ほど様子が良くて口が上手いからね」
(喫茶店には詐欺師や人攫いがいるのね……)
ファウスタは喫茶店がどんな店なのか知らなかったが、ドム少年の話を聞いて、詐欺師や人攫いがうじゃうじゃ居る恐ろしい店を想像して戦慄した。
(怖いから喫茶店には絶対に行かないのだわ)
「でも喫茶店なら私も行けたのになー。私もアルカードさんのお店に行ってみたいのに、珈琲館で残念」
ドムとアメリアの話を聞いていたのか、いなかったのか、テスは笑顔で呑気な発言をした。
「珈琲館は行かれないんですか?」
ファウスタはテスに質問した。
(珈琲館とやらが吸血鬼の根城なのかも)
アルカードが吸血鬼であるという真相を知るファウスタは、彼が経営するという珈琲館に疑惑と興味を持った。
「珈琲館は男性しか入店できないお店なの。珈琲を飲みながら政治や経済の議論をするお店なんだよー」
「うん、真面目なアルカードさんらしい店だよね」
ルーイが頷きながら言った。
「バーグマンさんが店を始めるなら、絶対に大衆酒場だろうけどね」
「違いない。もしくは酒場がある宿屋だろうな」
「絶対に酒がある店だよね」
「違いない」
「バーグマンさんはお酒が好きなのですね」
ファウスタがそう言うと、バーグマンの話題で頷き合っていた少年たちは更に詳しい事情を語った。
「アルカードさんの辞職騒動のときにバーグマンさんが大泣きしたのは、酒蔵庫から離れたくなかったからなんだよ。大泣きするほど酒が好きなんだ」
「それだね」
「家令のアルカードさんが退職したら、執事のバーグマンさんが家令に格上げされるから。それで泣いて嫌がったんだ」
少年たちの話が良く解らずにいるファウスタに、テスが「執事はお酒が飲める仕事なんだよー」と補足した。
「そう、テスが言うとおり、執事はお酒が飲める仕事。酒蔵庫の管理人なんだ。だからバーグマンさんは執事の座から絶対に動きたくないんだよ」
「お酒の管理人が、お酒を飲んでしまっても良いのですか?」
ファウスタの問いに、少年たちは微妙な表情で曖昧に頷いた。
「うん、執事はお酒の品質が保持されているか検査するために、定期的にお酒の味見をするんだ。でもね、バーグマンさんは検査の回数が多すぎる」
「あの人は品質管理だとか検査だとか言って、頻繁に飲んでいるんだ。一応仕事には違いないんだけど、熱心すぎるんだよなあ」
少年たちは男性使用人の統括であるバーグマンについて辛辣に語った。
「エルマーさんを副執事に格上げしてから、執事を飛ばして家令にしようって話が出てるらしい」
「その話、バーグマンさんが言い出したんじゃないの? 自分がずっと執事として酒蔵庫の管理をやりたいから」
「僕もそうだと思ってる」
(バーグマンさんは本当にお酒が大好きなのね。ドワーフだからなのかしら)
ファウスタは物語の本の中のドワーフたちが酒好きであった事を思い出した。
「そういえばユースティスも最近、午後はいないねー」
テスの問いに、ルーイが答えた。
「アルカードさんがいないから忙しいんじゃない? 彼はもともとアルカードさんの辞職騒動の後に、事務補助のために家令専属使用人として雇われたから」
「若様のお勉強にも付き合ってるしね。若様は今年の試験を受けるらしいから、夏頃までは忙しいんじゃないかな」
「若様は今年試験を受けるの?! 十六歳で?!」
少年たちの話に、アメリアが驚いたように言った。
「そうらしいよ」
「十六歳で合格なさったら、とてもご優秀なんじゃないかしら」
「むしろそれを狙ってるんじゃないの?」
ドムは事情を知っているのか、何食わぬ顔で言った。
「十六歳で大学入学資格試験に合格したら、学院を中途退学したっていう汚名が返上されるからね。普通は学院の最終学年、十七歳で受ける試験だから。一年早く合格すれば優秀さが示せる」
「成功したら格好良いよね。上手く行くといいな」
ルーイが期待に満ちた表情でそう言うと、ドムは泰然と答えた。
「多分上手く行くよ。法学に挑戦するけど、念のために文学も受けるらしいから。文学資格の合格は確実だと思う」
「凄いなあ。若様はご優秀なのに、どうして学校を辞めちゃったのかなあ」
「学校が勉強するところじゃなかったからだろう」
ドムの言葉に、アメリアは顔を顰め、ルーイは不思議そうな顔をした。
「そうなの?」
「どうして?」
「王立ゴドウィン学院って貴族専用みたいな学校だから、授業は神学と古典とスポーツばかりなんだよ」
「ええー」
「そんな学校で、どうして大学入学資格が取れるの?!」
大抵の高位貴族の子弟は王立ゴドウィン学院卒で、よほどの成績不良でもない限りは、一律に大学入学資格試験に合格して大学へと進む。
ゆえに大抵の高位貴族の男子は大学を卒業していて学位を持っている。
「王立ゴドウィン学院は学院内の試験で大学入学資格が取れるんだ。文学資格のみだけど。試験内容も他より簡単らしいよ」
「うわー!」
「大学入学資格試験ってそんな抜け道があったのね……」
驚愕するルーイとアメリアに、ドムは淡々と語った。
「その代わり学費は高額だよ。上流階級の子弟専用の学校だからね」
「あの、その学校では国際大学入学資格も取れるのでしょうか」
ファウスタの問いに、ドムはちょっと吃驚したような顔をした。
「国際大学入学資格なんて、よく知ってるね、ファウスタ。あれは本物の難関の資格だよ。国際基準の共通試験だから、一学校が小細工したりできないんだ」
「じゃあ国際大学入学資格を持ってるユースティスって、もしかして凄いんじゃないかしら」
テスがわくわく顔でそう言うと、ドムは呆れ顔でテスの方を向いた。
「テス、反応が一年遅い……」
「うん。ふつうは国際大学入学資格って聞いたところで驚くよね。学校で首席だったような人が受ける試験だから」
ルーイ少年は、国際大学入学資格がいかに難関なのかをテスに言い聞かせた。
「男兄弟がいなかったら、大学入学資格のことなんて詳しく知らないのが普通よ。そういうものがあるって事は何となく知ってたけど。私も兄が試験を受けるまで何がどうなってるのか良く知らなかったもの」
アメリアはテスを弁護すると、ファウスタを振り向いた。
「ファウスタはよく国際何とかっての知ってたわね」
「はい。孤児院の院長先生が国際大学入学資格を持っていて、外国の大学に留学した人だったので。院長先生から聞きました」
「孤児院でも院長となると、やっぱり凄い学歴を持ってるんだなあ」
「うん、間違いなく優秀な人だね」
ドムとルーイは素直に感心した。
ファウスタは気付かなかったが、そのときアメリアとテスの二人は、微妙な表情で顔を見合わせていた。
(やっぱり院長先生はとても賢くて凄い人なのだわ)
ファウスタは院長への尊敬の念を深くした。
そして自分のカップのお茶を飲み干すと、少年たちに向かって言った。
「あの、今日も、お茶の練習をさせてください!」
「いいよー」
「おおー、頑張るねー」
このところファウスタは、大人の使用人たちがいないこの時間、少年たちに頼んで使用人用の茶道具でお茶を煎れる練習をさせてもらっていた。
「じゃあ僕も二杯目をファウスタに煎れてもらおうかな」
「ファウスタ、私もー」
「はい! やります!」
ファウスタは早速、お茶修行を始めた。
「だいぶ手際が良くなってきたわね」
「うん、上達したね」
少年少女たちに褒められ、ファウスタの気分は上がった。
(お作法もお勉強も頑張るのだわ。大金を手に入れるために!)




