520話 シャールラータン(1)
(魔物がいる……)
霊能者シャールラータンは、この世ならざるものの圧迫感を全身に感じていた。
一階の珈琲館から店主に導かれてシャールラータンは三階へと階段を上った。
その階段は、上るごとに空気の重さが増し、生命の危機すら感じた。
階段を上っていながら、さながら暗い深海へと沈んでいくような絶望的な感覚だ。
階段にも廊下にも窓があり、午後の明るい日差しが差し込んでいる。
しかしそこは真っ暗闇のような夜の気配に満ちていた。
(……これは、店主の気配ではない……)
シャールラータンは魔物の気配を知っていた。
珈琲館の店主は、人間ではなく魔物だと確信を持っていた。
だが辺りに満ちている濃密で圧倒的な夜の気配は、店主のものではない。
(……とてつもないものが、この先にいる……)
――王都には、私より高位の魔物もいますよ。
シャールラータンがまだ少年で、ピートと言う名で呼ばれていたころ。
そう言った魔女の笑い声が思い出された。
霊能者シャールラータンは、かつてはただの孤児ピートだった。
物心ついたときにはもう孤児院にいた。
ピートは目には視えない何かの気配を感じ取り、時折、他の者には視えない幽霊と呼ばれる類のものが視えた。
幼児の年齢を過ぎても、そこには無いものを有ると真顔で主張して怯えるピートは、嘘吐き扱いされたり、気味悪がられたりした。
悪魔憑きと言われることもあった。
ピートが十歳になったころ、小柄で奇妙な紳士が孤児院を訪問した。
「悪魔憑きの子供がいると聞いてね」
「……それは噂です。口さがない者たちには困ったもので……」
「誤解しないでくれたまえ。私は苦情を言いに来たのではないよ。面白い子がいたら引き取りたいと思ってね」
「え……?」
(……幽霊みたいな人だ……)
院長に呼び出され、奇妙な紳士の前に立ったピートは、圧倒されるような、はっとするような、不思議な感覚に襲われた。
その奇妙な紳士は、孤児院の子供よりは背が高いが、大人の院長よりも小柄で、子供の仲間に見える背丈だった。
老人のような白髪で、大人の上等の服装をしていたが、子供のような顔をしていた。
人間のようだったが、幽霊のような気配を纏っていた。
ピートが今までに出会ったどんな幽霊よりも強く濃い気配だ。
「この子を引き取りたい」
奇妙な紳士はピートをしばらく見据えると、院長を振り向いてそう言った。
(……)
世の中には孤児が溢れていて、孤児院はいつも満員だ。
孤児を引き取りたいという者がいれば、院長は大喜びで孤児を送り出す。
そして孤児のピートが、院長の決定に抗うことなど不可能だ。
見るからに怪しげな奇妙な紳士に引き取られることが決まり、ピートは戦々恐々とした。
奇妙な紳士がブランコ・トトメスという名で占い師の仕事をしていることをピートが知るのは、もう少し後のことになる。
「旦那様はどうして僕なんかに良くするんですか?」
奇妙な紳士に引き取られたピートは、彼とともに閑静な住宅街にある瀟洒な屋敷に住むことになった。
その屋敷には執事をはじめとした使用人たちがいて、皆がピートに親切にしてくれた。
ピートにはベッドや物書き机などの家具が揃った部屋が与えられ、美味しい食事が与えられ、服が仕立てられ、家庭教師がつけられた。
孤児が世間でどう扱われるかを、十歳のピートはうっすらと知っていた。
だからピートは、奇妙な紳士にきつい仕事を与えられ、こき使われることを覚悟していた。
しかし幸運にも肩透かしをくらった。
ピートにまず課せられたのは、きつい仕事ではなく、自分のことを「おいら」ではなく「僕」と言うことだった。
礼儀作法と会話の練習が課せられた。
「仕事をさせるために、僕を引き取ったんじゃないんですか?」
新しい生活に慣れて警戒心も解けたころ、ピートは奇妙な紳士に質問した。
「違うよ」
「じゃあ、どうして……?」
「占いでそれが良いって出たからさ」
「……う、占い……?!」
「そう、占い」
「……」
ピートは困惑の眼差しを奇妙な紳士に向けた。
占いなんてインチキだと大人たちが言っていたのをピートは聞いたことがある。
占い師にお金をたくさん騙しとられてしまった人の話も聞いたことがあった。
奇妙な紳士の話から、ピートがこの屋敷で良い生活ができるようになったのは、彼が占いを信じたおかげだと解った。
しかし占い師というものは詐欺師の同類だとピートは思っていたので、複雑な気持ちにならざるを得ない。
「……旦那様は占い師の言うことを信じるんですか?」
「信じるも何も、私が占い師なのさ」
「……えっ?!」
奇妙な紳士は、占い師ブランコ・トトメスとして仕事をしていることをピートに語った。
(僕が……幽霊を視たりするから……?)
「旦那様が僕を引き取ったのは……僕を、占い師にするためですか?」
いずれ詐欺師のような占い師の仕事をやらされるのかと、不安を感じながら、ピートはおずおずと質問をした。
「違うよ」
「じゃあ何のために?」
「さっきも言った通り、占いで出たからさ」
奇妙な紳士、占い師トトメスは子供のような笑顔を浮かべて言った。
「援助者が現れるって占いに出たんだ。悪魔憑きの子供の話を小耳にはさんだとき、ピンと来た。どういう形で君が私を助けてくれるのかは解らないけど、君で間違いない。とりあえず君は此処にいて、勉強して運動して、健康に暮らしてよ」
「……」
ピートは盛大に困惑した。
トトメスの話は奇妙で、状況が良いのか悪いのか解らなくなった。
トトメスは見た目や言動が奇妙で変わっているだけではなく、この世ならざるものたちの世界に足を踏み込んでいた。
それをピートが知るのは、それから二年の後のことだ。




