05話 マクレイ夫人とアメリア
ファウスタはアルカードに連れられ、家政婦長の部屋を訪ねた。
「マクレイ夫人、この子が例の子です」
アルカードの『例の子』という言い方に少し引っ掛かりを覚えたが、ファウスタは促されて自己紹介をした。
「ファウスタ・フォーサイスです。よろしくお願いします」
「私は家政婦長のエミリ・マクレイです。よろしくね」
マクレイ夫人は中年くらいの婦人で、濃茶色の髪をぴったりと結って家事作業帽に納めていた。
立襟の濃紺色のドレスを着て、腰のベルトに鍵束を吊り下げている。
優しそうな口調だったが、眼光は鋭く、濃茶色の目は観察するようにファウスタを見ていた。
家政婦長の部屋は窓際に仕事用らしい両袖机があり、机のすぐ近くに引出し付きの棚があった。
棚の上には子供の握りこぶしくらいの大きさの硝子玉が置かれ、その硝子玉の中には鮮やかな花が閉じ込められている。
部屋の中央にはお茶や食事が出来そうなテーブルがあった。
アルカードの部屋よりも飾り気がある柔らかい雰囲気で、本棚は無く、その代わり壁には大小の風景画が飾られている。
(……!)
壁の風景画の横から、人の顔がにゅっと出てきた。
ここに来てすぐに廊下の天井から出て来た、昔のお姫様風の幽霊だった。
幽霊は目玉をギョロリと動かしてファウスタを見た。
薄青色の目だが、左右で色合いが少し違っていてチグハグな違和感がある目だった。
ファウスタはそろりと目を逸らした。
(あの幽霊のことアルカードさんに聞いておけば良かった)
今は人間の家政婦長がいるので、見えざるものの話題を出すわけにはいかない。
「この子を見習い女中として働かせてやってください」
アルカードがそう言うと、マクレイ夫人は表情を少し曇らせた。
「申し訳ありませんが、アルカードさん、彼女の仕事は見習い女中の範囲には収まらないと思うのですが……」
「今のままでは上の階に行かせるのは難しいでしょう。作法を学ばねばなりません。今後ご当主や奥様のご意向によって変更になる可能性はありますが、ご指示があるまでは見習いとして指導してやって欲しいのです」
「そういう事なら……解りました」
アルカードの意図を理解したのか、マクレイ夫人は頷いた。
「早ければ明日の朝食後にファウスタはご当主に呼ばれるでしょう。移動の疲れもあるでしょうから、今夜は早めに休ませてあげてください」
「承知しました」
アルカードはマクレイ夫人と話を終えると、ファウスタに向き直った。
「ではファウスタ、私はこれで失礼します。また後で会いましょう」
「はい、アルカードさん、ありがとうございました」
(後で……アルカードさんに幽霊のこと聞けるかな?)
「荷物を持って付いて来なさい」
アルカードが退出した後、マクレイ夫人はファウスタを連れて家政婦長室を出た。
ファウスタは鞄を持ってマクレイ夫人の後に続いて廊下を歩いた。
マクレイ夫人の腰に吊り下げられた鍵束が時折チャランと鳴る。
廊下を少し歩くと階段があった。
飾り気のない簡素な手すりがついた折り返し階段だ。
「これが使用人用の階段よ」
マクレイ夫人が立ち止まって説明した。
「使用人は勝手にお屋敷の中を歩き回ることはできません。あなたが使える階段はこの階段だけです」
「はい」
ファウスタの返事を確認すると、マクレイ夫人は「では、行きますよ」と階段を上り始めた。
三階まで上るとマクレイ夫人は踊り場で立ち止まった。
「ここまでの階、一階から三階までの区画は許可がない使用人は立ち入り禁止です。ですから一階から三階までの間はこの階段の外に出てはいけません」
階段は三階よりも上まで続いていた。
踊り場の窓から外をちらりと見やると、緑の濃いお屋敷の庭が一望できた。
その向こうにたくさんの高層屋敷が並んでいる。
階段を上り詰めると、マクレイ夫人はファウスタを振り返った。
「女性使用人は、屋根裏の使用人部屋を使っています」
(此処、屋根裏なんだ)
大きなお屋敷の屋根裏だけあって、かなりの広さがあった。
廊下には扉がずらりと並んでいる。
マクレイ夫人は廊下を進みいくつかの扉を通り過ぎて、やがて一つの扉の前で止まった。
「ここがあなたが住む使用人部屋よ。覚えておきなさい」
マクレイ夫人は扉をノックして、返事が無いことを確認すると開けた。
その部屋は、屋根の形に添っているのか天井が傾斜していて、部屋の入口と奥とでは天井の高さが違った。
その傾斜に切り込むようにして窓がある。
「同じ見習い女中のアメリアという子が同室よ」
部屋にはベッドが三つあり、一つには布団があったが、残り二つは空だった。
壁際に箪笥が一つあり、箪笥の上には古びてはいるが彫刻の縁取りのある鏡が置かれている。
小ぢんまりとした部屋の隙間を縫うように、物書き机や、小さな四角いテーブルがあった。
「このベッドを使いなさい。リネンは後で持ってこさせるわ」
マクレイ夫人は空のベッドの一つをファウスタに示した。
そしてベッド脇にある長方形の物入箱の蓋を開けた。
「私物はこの箱に入れなさい。仕事着は持って来ているかしら?」
「はい。服とエプロンを持ってきました」
「見せてちょうだい」
ファウスタは鞄を開け、いつも孤児院で着ていた普段着とエプロンを出した。
「あら、あなた本が読めるの?」
ファウスタが開けた鞄の中に本がある事に気付き、マクレイ夫人は尋ねた。
「はい。簡単な本なら読めます」
「なるほど。ラシニア孤児院は評判通り子供に勉強を教えているのね」
マクレイ夫人は少し感心したように頷くと、ファウスタが鞄から取り出した服とエプロンの方に視線を移した。
「家事作業帽は持っていないのかしら?」
「すみません、持っていません」
「そう、解ったわ。いいでしょう」
必要な検分を終えたのか、マクレイ夫人はファウスタに向き直った。
「荷物の整理をして仕事ができる服装に着替えておきなさい。三十分か、遅くとも一時間以内には人を呼びにやるから、それまでこの部屋で待っていなさい」
「解りました」
「アメリア、マクレイ夫人がお呼びよ」
厨房に顔を出した家女中のポリーにそう声を掛けられ、流しで皿を洗っていた見習い女中のアメリアは仕事の手を止めた。
「すぐに家政婦長室に来て欲しいそうよ」
「解りました」
(何だろう……)
このところ屋敷では騒動が続いていたので、使用人たちは家令や家政婦長に呼び出されて尋問されることがしばしばあった。
何かの事情聴取か、もしくは何か疑いをかけられたのかと、アメリアは戦々恐々としながら厨房を後にすると家政婦長室に向かった。
家政婦長室の扉の前まで来るとアメリアは足を止め、気持ちを落ち着かせるために深く息を吸ってから静かに吐き、そして扉を軽くノックした。
「マクレイ夫人、アメリアです」
「お入りなさい」
家政婦長室の扉を開けると、部屋の中には難しい顔をした家政婦長のマクレイ夫人が居た。
「今日、新しく見習い女中に採用された子の世話をあなたに頼みたいのだけれど……」
マクレイ夫人がそう語り始めたので、尋問でも疑惑でもないことが解り、アメリアはほっとした。
新入りに仕事を教えるのはそれなりに苦労ではあるが出来ない事ではない。
「その子は、孤児院から来た十二歳の子です」
「孤児院の子、ですか?」
アメリアは少し驚いて聞き返した。
マクレイ夫人もアメリアの驚きに同調してか、少しくだけた口調で語った。
「ええ、そうなの。先日、旦那様はラシニア孤児院を見学なさったのだけれど……そのラシニア孤児院の子なの」
見習い女中ならば十二歳という年齢は珍しくないが、孤児院出身というのが有り得なかった。
通常、貴族の屋敷で孤児院の子供が雇われる事はない。
よほど貧しい下位貴族ならば、孤児院や救貧院の者を安い給金で雇うことがあるかもしれないが、上位貴族の屋敷ではまず有り得ない。
育ちの悪い者は貴重品の扱い方を知らないというのが通説だったので、貴重品が多くある貴族の屋敷では、たとえ下働きとしてでも貧民や孤児を雇い入れることはないのだ。
(短い藁を引いてしまったかしら……)
アメリアは表情を崩さないよう努力していたが、マクレイ夫人から困難を告げられて気分はどんよりと曇った。
物の価値や作法を全く知らないであろう下層民の、それも孤児に、一から全てを教えるのは考えただけで眩暈がする仕事だ。
できれば引き受けたくないが、アメリアのような下っ端は女性使用人の長である家政婦長の指示に異を唱えることは出来ない。
「その子を雇えと、旦那様は守護霊のお告げを受けたらしいの」
「は?」
気分が落ち込んだところへ『守護霊のお告げ』という珍妙な理由を聞かされ、アメリアは思わず立場を忘れて変な声を出した。
マクレイ夫人はそれを咎めるでもなく続けた。
「その子は霊能力でお嬢様のご病気を診察するとの事です……」
「……」
マクレイ夫人は眉間に苦悶の皺を刻み込み、アメリアの目は死んだ魚のように生気を失った。
二人の間にしばしの沈黙が流れた。
この屋敷の当主が熱狂的な神秘主義者であることは、使用人たちもよく知るところであった。
しかし当主のそれは、神秘主義クラブに参加したり、不思議な買い物をしたりという、あくまでも趣味の域を出ない酔狂であった。
だが霊能力で病気の診察となると、今までとは違う、何か深い沼のようなものにはまってしまった雰囲気がある。
病気ならば医師を呼ぶべきなのに、霊能者を呼ぶとは常軌を逸している。
(旦那様は良からぬ者に騙されているんじゃないかしら……)
アメリアは当主の身の上を少し心配した。
(でもそういう話なら、霊能者の子は旦那様のお客様よね。どうして私が世話をするのかしら)
客人の応対は上階の使用人たちの仕事だ。
地階で働くアメリアの仕事ではない。
「すみません、マクレイ夫人、その方は旦那様のお客様ではないのですか?」
「守護霊のお告げに従い、彼女はお客様ではなく使用人として採用されたのです」
実務に優れたマクレイ夫人は、当主のふわっとした神秘主義者らしい要求に、どう現実の形を与えるべきか思考を巡らせすぎたのだろう。
今にも白目を剥いて倒れそうな様相で額に手を当てた。
「メイドとして雇うようにというご命令だけで、旦那様からは扱いについてのご指示が無いままなのです。奥様は……体調を崩されてお休みになっていらっしゃるので、ご相談するにしても明日以降になるでしょう。それまであの子をどう扱うかが問題なのだけれど……」
マクレイ夫人は額に手を当てたままで、どこか瞑想的な口調で話を続けた。
語りながら自分の考えを確認しているようだった。
「孤児院出身の子供を上の階に立ち入らせるわけにはいきません。しかし旦那様のお客様でもあります。ですから地階で見習い女中として過ごしてもらい、まず作法を覚えさせるというのがアルカードさんのお考えです。それらのことや、今後のこと、早ければ明日にでも扱いが変わる可能性も踏まえて、慎重に扱って欲しいのです」
「見習い女中だけどお客様のように慎重に、ですか……?」
黒い白馬のような矛盾を前にして、アメリアは内心で頭を抱えた。
見習い女中は下級使用人の中でも一番の下っ端だ。
洗い場の水仕事でも掃除でもゴミ処理でも、地下の雑用を何でもやらなければならない。
それに対して客人とは、美々しく着飾った当主夫妻や上級使用人たちが上階で恭しくおもてなしする対象だ。
身分が上なのか下なのか解らない存在に、どう接すれば良いのだろうか。
「すみません、マクレイ夫人、その子には同じ見習い女中として気安く会話しても良いのでしょうか。それとも、やはり旦那様のお客様として丁寧に会話すべきでしょうか」
「同じ見習い女中ですから対等に会話して良いでしょう」
「でも鍋洗いや野菜洗いは……やらせたら駄目ですよね?」
「そうね、立場が曖昧なうちは、水仕事はさせないほうが良いわね」
アメリアの質問に、マクレイ夫人も考え込んだ。
「……どこまで仕事をやらせるかについてはアルカードさんに確認しておきます。午後のお茶まではあの子と一緒に使用人部屋で控えていなさい。今、あの子には自分の部屋で荷物の整理をさせています。リネンを持って行ってベッドを使えるようにしてあげて」
「はい。彼女のお部屋はどこでしょうか」
「あの子はあなたと同室にしました。あなたのお部屋にいるわ」
「……かしこまりました」
(同じ部屋かぁ……)
扱いの難しい子と同居することになってしまい、アメリアの気分は沈んだ。
寝泊りする部屋まで同じという事は、おはようからおやすみまで、一日中ずっと一緒という事だ。
窓の外は麗らかな春だというのに、アメリアの心は地獄の季節だった。
(あの騒動のせいで人手が足りなくなったから、仕方ないか……)
「アメリア、賢いあなたならきっと上手くやれるでしょう。期待しているわ」
「はい、マクレイ夫人。ご期待に副えるよう努力します」
「それで、この件が一段落したら、あなたを家女中に昇格させようと思っているのだけれど、あなたの気持ちはどうかしら?」
「えっ!?」
気の滅入る話が続いた後、ふいに大きな幸運が飛び込みアメリアは耳を疑った。
「わ、私を、家女中にしていただけるんですか?!」
「ええ、良い返事を聞かせてくれると嬉しいわ」
アメリアの暗黒の世界に、ぱあっと光明が溢れた。
地獄からいきなり天国。
気難しいマクレイ夫人の姿が大天使のように燦然と輝いて見えた。
地下の雑用からついに解放される時が来たのだ。
家女中に昇格すれば一人前の大人の給料が貰える。
そして素敵なレース襟の黒いドレスを着て、フリル付きの白いエプロンを付け、颯爽と上階を闊歩するのだ。
十三歳で見習い女中となってから二年間、灰色の服でずっと地下の雑用をこなしてきた勤勉がついに花開く時を迎え、アメリアは感極まった。
「ぜひ! お願いします!」
「ではこの件が一段落したら、あなたは家女中に昇格よ。励みなさい」
「はい! おまかせください!」




