361話 天使様(7)
「まあ……良しとしようか……」
天使はかすかに眉を歪め目を伏せたまま、半ば独り言のように思案気に言った。
そして顔を上げるとダフに言った。
「話が終わったら、逃がしてやる。まずは話を進めよう」
無表情に戻った天使は淡々と話し始めた。
「君は今日で解雇だ。二度とここへ来てはいけない。こちらの都合での急な解雇だから、君には新しい働き口を用意した。新しい仕事が欲しいなら、君の母親が働いている食堂の店主に相談したまえ」
(母ちゃんが食堂で働いてること知ってるんか。天使様は何でもお見通しか)
ダフは呆けた顔のまま、内心で驚愕した。
固まっているダフの前に、天使はすっと封筒を差し出した。
「この紹介状を渡せば、食堂の店主は君を雑用係として雇うだろう」
急展開に心が追い付かないままでいるダフに、天使は更に言った。
「それから、君の母親の病気だが。原因は栄養不足だ」
「……栄養不足……?」
「そうだ。野菜や果物をあまり食べていなかっただろう。それが原因だ。王都では、貧しい者の口に野菜や果物がなかなか入らない」
ダフは知らなかったが、王都は都市化が進んでおり畑作地がほとんど無いため、地方より食品は割高なものが多かった。
運送料をはじめとする諸々の経費が、食品の値段に加算されているからだ。
そのため貧しい下層民は、安くもなく腹にたまらない野菜や果物を買い控える者が多かった。
都市化が進んだ王都タレイアンにおいて、下層民に最も馴染みのある安価な食材は、レイテ河に生息する魚類イールだった。
「それで栄養不足になり病気になる。市井ではマリユの実が万病の薬だと言われているらしいが、半分は正解だ。貧しい者が体を壊す原因は大抵が栄養不足だ。栄養不足が原因の場合、不足している野菜や果物の栄養を含んでいるマリユの実を食べれば調子が戻る場合が多い。今後は穀類や魚ばかりではなく、野菜や果物も食べるよう心がけたまえ。それが栄養不足の予防になる」
天使の話はダフには難しい部分もあったが、母の病気の原因が、野菜や果物の栄養が足りなかったせいだということは理解できた。
(よく果物をくれたんは……)
庭師やグレイブスは余り物だと言って、ダフによく果物を持たせてくれた。
(母ちゃんの病気に効くこと知ってて……)
グレイブスも庭師も、天使の指示でダフに果物を与えていたのだと、ダフは直感した。
今まで何気なく貰っていた果物たちには、ダフと病気の母への温かい心遣いが含まれていたのだ。
(ずっと、助けてくれてたんか……)
優しさに支えられていたことに気付いたダフの中に、じんわりと温かさが広がり心を満たした。
ダフを満たしたその温もりは、さらにどんどん膨れ上がって上昇し、涙となって目から溢れ出した。
「あ、ありがとう、ごぜえやす……」
ダフの目から涙がまたぽろぽろと零れ落ちた。
それは感謝の涙だった。
「おいらと母ちゃんを助けてくれて……ありがとう、ごぜえやす……」
大きな優しさに守られていたことに気付き、ダフの心は激しく揺さぶられた。
真綿のような温かさの中で必死に呼吸するように、ダフは決意を吐き出した。
「おいら、このご恩は、忘れねえです……。絶対忘れねえです……。きっとお返ししやす……」
ダフは涙に濡れた顔を上げ、きりりと引き締めた。
そして天使の青い目を真っ直ぐに見つめて宣言した。
「このご恩、おいらきっと、お返ししやす……!」
「その必要はない」
天使の冷たい声が、ダフを一刀両断した。
瞬間、ダフの心臓は氷りつき、涙も凍結した。
「君はまだ子供だ。恩返しなど考える必要はない。こちらとしては、全て忘れてもらえる方がありがたい」
「おいら、忘れたりしねえ……。こんなありがてえこと、忘れたりできねえ……」
「たしかに、君は忘れないようだが……」
天使は少し含むところがあるかのように、言葉を淀ませた。
「……忘れなくても、約束を守り、話さないでいてくれればそれで良い。そして今後は、この屋敷にもグレイブスの店にも近付かないで欲しい」
天使は人形のような無表情で冷たく言い放った。
「話は終わりだ。家に帰りたまえ。その菓子が気に入ったなら包ませよう」
「……おいら、このご恩は、きっとお返ししやす……!」
ここは恐ろしい顧問様のお屋敷だ。
だから天使はダフを気遣い、もうこの屋敷には近付くなと言ったのだと思った。
たしかに、再びここへ来ることは危険なことなのかもしれない。
だがダフは、受け取った優しさの重さに気付いてしまった。
天使は、ダフと母の命を救ってくれたのだ。
「おいら、きっと、また来やす! このご恩を返すためなら怖くなんかねえ! このご恩をお返しに必ずここへ戻って来やす!」
「君のその気持ちだけありがたく受け取らせてもらおう。だが二度と来ないで欲しい。その方がこちらとしてはありがたい。こちらの勝手で申し訳ないが、君に来られると少々不都合がある」
天使の冷酷な拒絶に、ダフの目に新たな涙が溢れ出した。
「う……うぇ……」
それは悲しみの涙だった。
ダフは恩を返したいのに、天使はダフが来ると迷惑だと言わんばかりだ。
役に立てない無力な自分が情けなく、悲しかった。
「おいら、大人になりゃあ、もっと働けやす……。ちゃんと恩返しできやす……」
ダフは涙でぐしゃぐしゃになった顔で、しゃくりあげながら天使に恩返しを叫んだ。
「ちゃんと恩返しできやす……!」
天使は眉を歪め、頭が痛そうに額に手を当てると少し俯いた。
しばらくその姿勢で頭痛に耐えるようにしていた天使は、やがて口を開いた。
「……では……こうしよう……」
天使は顔を上げるとダフに言った。
「……もし君より小さい者が困っていたら、助けてやれ。君に出来る範囲で良い。小さい者の力になってやれ。それが恩返しだ」




