359話 天使様(5)
(顧問様がおいらを……)
恐ろしい顧問様に、何故自分が呼ばれたのかをダフは考えた。
(やっぱし、天使様のお名前を言ってたのがまずかったんか……)
母親からパンドーラの箱の話を聞いた以後は、ダフはユースティスという名を口に出すことは止めた。
天使は人間ではないので、母が言う隠し子説は違うように思ったが。
カイルを始めとする皆の妙な反応について改めて考えてみると、口に出してはならない何かしらの秘密がありそうな、不穏なものを感じたからだ。
(おいらがずっと前に天使様のお名前を口に出していたことが、顧問様にバレたんか?)
ダフはユースティスを、貴族の子に化けている天使だと思っている。
そして人ならざる者たちが、人の街に来ていることを見つけ、それを口に出してしまったせいで報復を受けた人間の話を、ダフは母から聞いていくつも知っていた。
悪魔の薬を瞼に塗り、悪魔が視えるようになった男は、街中で悪魔を見つけ、見えていることが悪魔にバレて視力を奪われた。
妖精の目薬をくすねて使い、妖精が視えるようになった女は、村で妖精が悪戯していることを発見し、見えていることが妖精にバレてやはり視力を奪われた。
魔物の魔法の呪文を知り、その呪文を唱えたことがバレた男は、魔物に声を奪われた。
人ならざる者たちの秘密が人間に漏れたことが知れると、彼らは知った人間に報復をするのだ。
(顧問様もやっぱ……人間じゃないんかな……)
「さあさあ、ダフ、とっとと歩いた」
固まっているダフの背中を、庭師は笑顔で、軽く押すようにぽんぽんと叩いた。
庭師はダフを屋敷の入口へ連れて行った。
ダフは知らなかったが、それは使用人用の出入口だった。
そこには黒服の男が居た。
その黒服の男は、かつて市場でダフが盗んだマリユの実の代金を支払ってくれた、天使と一緒にいた黒い外套の男エヴァンズだった。
(天使様の従者……。この人がおいらのことを顧問様に知らせたんか?)
黒服のエヴァンズは、天使と共にダフを助けてくれた者だ。
恩人であるが、顧問様にダフのことを告げ口した犯人かもしれないとも思い、複雑な感情がダフの中に渦巻いた。
庭師はダフを、エヴァンズに預けると庭へ戻って行った。
「ダフ、付いて来なさい」
ダフはそう言われ、エヴァンズに付いて屋敷の中を歩いて行った。
階段を上って、一階の廊下を歩いて行く。
屋敷の一階は、ダフが今まで見た事もない豪華で美々しい内装だった。
何でもなければ吃驚仰天して興味津々になっていたかもしれない。
だが恐ろしい顧問様に呼ばれているという恐怖の只中にいたダフには、廊下の洒落たランプも、美々しい調度品も、地獄の風景のように禍々しく見えた。
ダフはエヴァンズに案内されて、大きな扉の前まで行った。
「ダフをお連れしました」
エヴァンズが扉をノックしてそう言うと、中から聞き覚えのある冷たい声がした。
「入れ」
(天使様?!)
扉が開かれると、その部屋の中には天使、ユースティスが居た。
「ごきげんよう」
天使の青い双眸がダフを捕らえた。
ダフの背中に、ぞくっと悪寒が走った。
「……こ、こんちは……」
ダフの頭は混乱した。
恐ろしい顧問様に呼ばれたということだったが、部屋の中には天使しかいない。
顧問様らしき大人の貴族がいないことにはほっとしたが、いきなり天使に再会したことは驚きだ。
「あ、あのう……」
天罰の執行人である天使は、ぞっとするほど恐ろしい。
だが天使は、ダフと母を救ってくれた。
天使は冷たい物言いをして、ダフに試練を与えたが、それはとんでもなく良い仕事だった。
天使は試練のつもりだったかもしれないが、ダフには天国だった。
おかげでダフは日銭を稼げるようになり、暮らしは上向きになった。
マリユの実も買えるようになり、母の病気も良くなった。
だからダフは、天使を恐怖しながらも、同時に深く感謝していた。
天使にもう一度会えたら、良い仕事を貰ったお礼を言おうとずっと思っていた。
あの日、マリユの実を貰ったお礼も、きちんとしなければならないと。
混乱の中でそのことが頭に浮かび、ダフは取る物も取り敢えず、お礼を言った。
「……良い仕事をいただきやして、あ、ありがとうございやした。マリユの実もありがとうございやした。おかげで母ちゃんは良くなりましたです」
ダフがそう言うと、天使はわずかに表情を揺らした。
「君は、あの時のことを、本当に全部憶えているんだね」
「へ、へい。憶えとりやす」
「僕の名前を憶えている?」
「へい。ユースティス様」
(あ……)
天使の名を口に出した瞬間、失敗した、とダフは直感した。
秘密があるかもしれないから、口に出してはならない名だ。
(やべえ……)
天使はその青い目でダフを見据え、にっこり笑った。
――ダフの記憶はそこで途切れた。
「……!」
ダフは目を覚ました。
目を覚ましたダフは、自分がふかふかのソファに座っていることに驚いた。
目の前には天使がいて、宝石のような青い目でダフを見ていた。
「あ、す、すいやせん、天使様、おいら寝ちまって……」
ダフは状況がつかめなかった。
しかしソファで目覚めたという状態から、自分がまた居眠りをしたのかと思い、反射的に謝罪を述べた。
「天使様?」
天使は訝し気に眉を寄せ、ダフの言葉を復唱した。
(や、やべえ……)
ダフは天使の微妙な反応を見た瞬間、天使の正体をずばりと指摘するという、危険な行為をしたことに気付いた。
(正体を言っちまったあ……!)
「す、すいやせん、ユ、ユースティス様」
ダフは天使の名前をすぐに言い直した。
そして頭が働き始めたダフは、名前を言った次の瞬間に、またしても失敗したことを覚った。
(……!)
ユースティスという名を口に出してはいけないらしいという事を思い出した。
ここでユースティスという名を口に出した後に意識が途切れたことも思い出した。
そしてダフはまた再びユースティスという名を口にしてしまった。
(やべえ……やべえ……)
天使が人形のような無表情のままダフを見据えて言った。
「忘れていないんだね」
まるでダフに問い質すかのように、天使がそう言った瞬間。
ダフの思考に何本もの閃きが走った。
「……っ!」
今までの色々な違和感や、見聞きした情報の糸の数々が、天から雷が落ちるような早さで全て一本に繋がった。
グレイブスの店で何度か記憶が途切れたこと。
ユースティスという名を出すと皆が変な顔をして話を逸らしたこと。
カイルに人間の子と言われたこと。
逆う者を吊し上げてギッタギタにする恐ろしい顧問様のこと。
グレイブスは顧問様の下っ端であること。
天使のハンカチの模様を見て、はっとした顔をしたグレイブス。
顧問様のお呼びで、天使の従者であるエヴァンズがダフを案内したこと。
天使の、ぞっとする青い目。
そして母から聞いた、パンドーラの箱の話。
――箱を開けなきゃ幸せでいられたんよ。
――開けなきゃ良かったんさあ。
「ま、待ってくだせえっ!」
ダフは思わず叫んだ。
「おいら何も言わんです! 神に誓って何も言わんです!」
「……状況が解っているのか。勘が良いな」
天使は少し意外そうな顔をした。
「絶対言わんです! 約束しやす!」
真っ黒な恐怖に押しつぶされそうになりながら、ダフは必死に懇願した。
今までの色々な記憶が、ダフの頭の中に次々と浮かんでぐるぐると巡った。
「お、お願えです! 許してくだせえ!」
窮地であることを直感し、感情の高ぶったダフの目から涙が溢れ出した。
「誰にも言わんです! い、命ばかりは! 命ばかりはお助けくだせえ! お願えです! レイテ河は嫌でさああ! お助けええええー!」
「……何か、誤解があるようだね……」
天使は表情の抜け落ちた顔で言った。




