31話 貧民街
――貧民街。
王都タレイアンの東端にあるこの地区は、中世と呼ばれる古き時代には王の居城がありイングリス王国の中心として栄えた土地だ。
しかし北西部が開発されレイテ川の向こう岸に王城が移転すると、商業の中心も北西部に移り、中産階級以上の者たちはぞくぞくと北西部に居を移して行った。
富める者たちが川向うの北西部に移動して行った後、東端には貧しい者たちだけが残されたが、しかしこの地区の人口が減る事はなかった。
稼ぎを求めて地方から出て来た貧民たちや、外国から流れて来た者たちが、この地区に集まり住むようになったからだ。
流れ者の巣窟となった東端の治安は悪化の一途を辿った。
特に元々下層民が住んでいたいくつかの区域は、二度の大火により中世の街並みを失い、今にも崩れ落ちそうなあばら屋や掘立小屋がみっしりと建ち並ぶ巨大な虫の巣のような景観に変貌して行った。
やがて川向うの北西部に移り住んだ者たちは、この東端の地区を『貧民街』と呼ぶようになる。
――貧民街の中、レイテ川の岸には『終わりの塔』と呼ばれる古城がある。
六つの塔を備えるその堅牢な古城は、中世には王の住まいであり要塞としての役目も担っていた城だ。
王が北西部に建設された新しい宮殿に居を移した後、この古城は武器庫や天文台として使われる傍ら、高貴な身分の罪人を収容する牢獄としても使われた。
謀反の罪、陰謀による濡れ衣などにより、幾人もの王族や貴族がこの古城の塔に幽閉され、そして処刑された。
王朝を終焉させる処刑場としての名を馳せるにつれ、この古城は『終わりの塔』の通称で呼ばれるようになった。
その終わりの塔の近くに魔道士ギルドはあった。
ギルド会館である重厚な石壁の建物は、かつて拠点を北西部に移した商人が売りに出したものだ。
東端が王都の中心であった時代には、王族や貴族たちの御用聞きをしていた豪商の商館として華やかな出入りがあった建物だが、その栄光はもはや見る影もない。
終わりの塔の周辺は腐ってもかつての王都の中心部であったので、この辺りの道は広く石畳が敷かれており、財のある者たちが所有する堂々とした建築が並ぶ。
不吉な通称があれど、古城は正式にはタレイアン城という名称の王家所有の城の一つであるため、城を管理する長官が置かれ警備兵も常駐している。
王族が所用で訪れたり、何かしらの会場として使用されることもあったので、警備兵による周辺の巡回もしばしばあった。
そのため貧民街の中では治安の良い区域であり、道に怪しい露店が並ぶこともなく、ボロを着た人々の群れもここには無い。
とはいえ伝染病が蔓延しやすい虫の巣のような貧民の巣窟に近く、処刑場として不吉な逸話を多く持つ古城の付近にあえて館を所有しようとする者には何らかの事情があるものだ。
魔道士ギルドがそうであるように秘密を持った館が多く、人目を忍ぶように出入りする者たちが珍しくない。
犯罪組織の拠点がある、あるいは悪徳貴族の秘密クラブがあるなどと、善良な王都民たちからは様々な暗い疑惑がかけられている区画であった。
終わりの塔へと続く大通りを、一歩でも外れると『生きては帰れない』という噂もまことしやかに囁かれている。
――不気味な静けさが支配するその通りに一台の馬車が現れた。
その馬車は『マグス商会』という看板を掲げた建物の前で止まった。
『マグス商会』は魔道士ギルドが表向きに掲げている看板である。
馬車から降り立ったのは、燃えるような赤毛の令嬢と、二人の紳士。
赤毛の令嬢は魔道士ギルドの七つ星魔道士、魔女ヘカテである。
二人の紳士はヘカテの側近である魔女ブリギッドと魔女タニスによる男装だ。
ブリギッドとタニスは、円筒状の絹製帽子に膝丈の黒い上着という出で立ちで、上着には六つ星が描かれた小さな記章を付けていた。
金髪のブリギッドはすらりとした長身であったので男装により美貌の青年紳士となっていたが、巻き毛のタニスは紳士にしては小柄だったので少年が背伸びをして紳士ぶっているように見えた。
貧民街は女性の一人歩きが推奨されない場所である。
ましてや令嬢であれば、貧民街でなくとも一人歩きなどもっての他だ。
魔女ヘカテにとって人間の暴力は脅威ではなかったが、後から後から集って来る蠅の群れをいちいち駆除するのは、死体の処理も含め面倒な作業である。
ゆえに外出時は効率を考え、側近の魔女を男装させ、女性だけの外出ではないという体裁を常に取り繕っていた。
ヘカテ自身が男装すれば合理的なのだが、ヘカテは令嬢の扮装が気に入っていたのでそこは変える気はなかった。
――通りにもう一台の馬車が現れた。
その馬車は魔道士ギルドより少し先にある建物の前で止まった。
その建物は、元は貴族の館であったが、上流階級向けの高級食堂として華やかに改装されたものだ。
青年紳士に扮した金髪のブリギッドは、令嬢に扮したヘカテをエスコートしながら、高級食堂の前で停まった馬車をちらりと見やった。
「暴食夫人がまた来てますね」
ブリギッドは口の端で笑った。
巻き毛の少年紳士に扮したタニスも、ブリギッドに同調してギチギチ笑う。
「あれで忍んでいるつもりなのですから驚きでありますな」
ブリギッドとタニスが嘲笑うその馬車は、財力を誇示するかのような、黒塗りに金の装飾のついた豪奢な馬車だ。
滅多に見かけるものではない、一目でよほどの大貴族か富豪のものと解る。
それだけの高級馬車であるのに紋章がない。
そんな目立つ怪しい馬車は、持ち主が非常に限られているので簡単に特定できる。
若い男にエスコートされその馬車から降り立ったのは、高価なのだろうが趣味が良いとは言えないクリーム色のドレスを纏ったずんぐりむっくりした体形の夫人。
コルセットをしていないのか、もしくはコルセットが完全に敗北したのか、ズドンとした石材に無理やり高価なドレスを着せたかのようだ。
肉厚だが女性らしい曲線がないその姿は、白に近いクリーム色のドレスも相俟って四角い墓石か記念碑が歩いているようでもある。
高齢や病気による健康上の理由でもない限り、上流階級の者たちは体形維持に非常に心を砕く。
作法や身だしなみと同じく、体形の維持は上流階級の者にとって格を示すものの一つであるからだ。
健康的で引き締まった体形は、自己管理能力を目に見える形で示すものであるため、だらしない体形の者は能力が低いと見なされた。
これはヤルダバウト教が怠惰や暴食を大罪と見做している事にも関係する。
イングリス王国のみならずヤルダバウト教の影響下にある諸外国とも共通の価値観であった。
そのような価値観の中で、豪奢な馬車を使い美々しいドレスを纏える身分にありながら、老人でも病気でもなく、気ままに外出できる健康体であるにも関わらず、怠惰と暴食の化身のような姿を晒している者は非常に稀な存在である。
社交界を知る者であれば、その体形の輪郭を見ただけで暴食夫人というあだ名を思い浮かべるだろう。
クリーム色のドレスのその肥満体の夫人は、ヴェールのついた帽子で顔を隠していたが、顔よりも体形のほうがよほど有名であった。
「『間抜けな大走鳥は頭だけを隠す』とは良く言ったものですね」
ブリギッドは冷笑した。
大走鳥は危険を察知すると頭を地面に突っ込んで隠す習性がある鳥だ。
隠れたつもりの大走鳥の体が丸見えであることに例え、本人が隠しているつもりでも他人に気付かれている事を指す諺であった。
「いやいやブリギッド氏、それは大走鳥に対してあまりに失礼でありましょう。大走鳥はすらりとした長い足を持っておりますゆえ」
タニスは楽しそうな笑顔でブリギッドに異を唱えた。
「おお、タニス氏、おっしゃる通りです。大走鳥は健康的な痩身美。私としたことが、大走鳥に大変失礼な発言をしてしまいました」
紳士ごっこに興じている二人の魔女を、ヘカテは明るい笑顔で促した。
「あれを見ては駄目よ。ほら、さっさと行くわよ」
社交界の者たちが影で暴食夫人と呼ぶ、王太子妃であるタレイアン公爵夫人が訪れたその高級レストラン。
所有者が銀行家のマイゼルファイナー氏である事を知る者はごく一部の事情通のみである。
表向きはロンセル風の料理を出す高級レストランだが、実は要人を接待する違法な高級娼館であることを魔女たちは知っていた。
外国の要人がお忍びで来店することもあれば、夜闇に紛れて死体が運び出されることもある。
善良な王都民が決して関わってはならない店であった。
「そうですね。命は大切にしなければなりません」
「死後も命は大切ですなあ」
あまり心配している風でもなく、お道化た調子で魔女たちは笑った。




