03話 ファンテイジ家の事情
「ファウスタ、元気でね」
昨夜、夕食の時間にみんなが食堂に集まったとき、院長先生が食事の前に、ファウスタの仕事が決まったこと、そして孤児院を出る事を発表した。
雇い主は国でも指折りの大貴族であり、そんなお屋敷で働けるのは大出世であると、院長は自分の手柄のように得意げに話した。
そして先生や子供たちが代わる代わるファウスタに声をかけ、別れを惜しんだ。
いつもは厳しいバーチ夫人もこの日は優しく、ファウスタの荷造りを手伝ってくれた。
荷造りといっても、孤児院に来た時に持っていたという本一冊と、少しばかりの衣類しかなく、小さな旅行鞄にすっかり入ってしまう量しかなかったのだが。
そして今日、もうすぐお屋敷から迎えの馬車が来る。
ファウスタは出発の準備をすっかり終えて、勉強部屋を兼ねている居間で馬車が来るのを待っていた。
窓から見える庭には、この孤児院の名前の由来であるラシニアの木が見える。
この見慣れた風景とも今日でお別れかと思うと、ファウスタは少し感傷的になった。
今までずっと無視していた地下室の幽霊たちでさえ、これでお別れかと思うと寂しいような気分になってくる。
「ファウスタ、辺境伯が他にもメイドを探してたら、私を紹介してね」
「僕も頼むよ。使用人が必要だったら僕を売り込んで」
「うん。……でもあんまり期待しないでね。私もどうなるか解らないし」
「もし仕事を変えるなら絶対連絡してね」
特に仲が良かったジゼルとピコとは、人生について語り合った。
遅くともジゼルは来年、ピコも再来年には孤児院を出るのだ。
孤児院を出てもずっと友達でいようと三人で約束した。
「ファウスタ、馬車が来たよ!」
子供たちが窓に群がり、孤児院の前に止まった馬車を見て声を上げた。
ファウスタは椅子から立ち上がると、鞄を持って玄関に向かった。
馬車の窓から、ファウスタは遠ざかっていく孤児院を見ていた。
門の前でファウスタに手を振ってくれていた孤児院のみんなの姿がやがて見えなくなると、ファウスタは前を向いて姿勢を正した。
「お屋敷に到着する前に、少しお話をしましょう」
頃合いを見計らって、ファウスタの正面に座っている白髪の老紳士アルカードが口を開いた。
昨日会った時と同じく、彼は青い煙のようなものを纏っている。
「あの……私……」
どうなるんでしょう?と聞いていいものか、ファウスタは思考を巡らせた。
先の見えない不安で頭がいっぱいになっているファウスタには、今まで見たこともないほど豪華で美しい馬車の内装もまったく目に入らなかった。
「まずは不安や疑問を取り除きましょう」
アルカードはおだやかな笑顔と声で話し始めた。
「あなたは私が普通の人間とは違うことに気付いたのではありませんか。それで怯えている。違いますか」
ファウスタの反応を見るように、アルカードは一呼吸置いた。
正直に答えて良いものかどうかファウスタはまだ迷っていて、目を泳がせた。
「確かに私はふつうの人間とは違います。私は人間たちに吸血鬼と呼ばれる存在です」
「えっ……?!」
ファウスタは、アルカードのこの突拍子もない告白を真面目に受け取っていいものか混乱した。
「吸血鬼なのに日光が平気なんですか?」
「太陽の光や銀の弾丸で灰になる吸血鬼は、人間たちの空想の産物です。そう誤解されるような事件が過去にあったことは確かですが、実際の我々は怪奇小説の中の吸血鬼とは違います」
おだやかな笑顔を浮かべたままで、アルカードは語った。
「いきなり首に噛みつくような暴漢でもありませんのでご安心ください。私はこの国の法律を守り、きちんと仕事をして生活しております」
アルカードの安定した笑顔と平和的な発言に、ファウスタは少し気を緩めた。
「あの、本当に吸血鬼なら、私に正体をバラしてもいいんでしょうか」
「大昔ならいざしらず、今の時代、吸血鬼がいると子供が告発しても、誰も信じないでしょう」
「それは……たしかに……そうですね」
思い当たる事例が多すぎて、ファウスタは顔を曇らせた。
蒸気機関車が陸を走り、飛空艇が空を飛ぶ、この科学の時代。
幽霊や吸血鬼は、空想の産物であるというのが常識だった。
何しろ実際に見た人は殆どいないのだから。
「私はあなたに危害を加えたりしません。ふつうの人間と同じようにお屋敷で働いています。お屋敷の他の吸血鬼たちもです」
「他にも吸血鬼がいるんですか?!」
「はい。ファンテイジ家の屋敷には、吸血鬼の他にも異形のものが使用人として働いています」
「ファンテイジ家?」
勤め先はマークウッド辺境伯のお屋敷だったはず、と、ファウスタは疑問符を浮かべた。
ファウスタの様子で混乱を察して、アルカードは説明した。
「マークウッド辺境伯は名をセプティマス・リンデン・ファンテイジ様と言います。辺境伯というのは王国に任された職業とお考えください。セプティマス・リンデン・ファンテイジ様が、マークウッドの地を治めるマークウッド辺境伯のお仕事をなさっているのです」
(カニング先生を「院長」って呼ぶようなものかしら)
ファウスタはアルカードの説明を、孤児院に置き換えて理解に努めた。
「ファンテイジ家の代々のご当主がマークウッド辺境伯の仕事を継いでいます。辺境伯のご家族はファンテイジ家の皆様です。お解りいただけたでしょうか?」
「はい」
アルカードの説明にファウスタは頷いた。
ファウスタが理解しているらしい様子を見て、アルカードは話を続けた。
「ファンテイジ家の皆様は人間です。しかしファンテイジ家には守護霊と呼ばれる者が住み着いて居て、これは人間ではありません。我々はこの守護霊をティムと呼んでいます」
「守護霊ということは、ティムは幽霊なんですか?」
「いいえ」
ここでアルカードは一度言葉を切って、少し考えこむように顎に手をやった。
「ティムに関する考察より、先に肝心の部分をお伝えしたほうが良いでしょう。あなたをファンテイジ家のメイドにすると言い出したのはティムなのです。魔眼を見つけたと言っていました」
「魔眼?!」
『魔眼』という言葉で、他の人には見えない奇妙な少年のことをファウスタは思い出した。
「もしかして一昨日の……」
あの変な幽霊、と言おうとして、ファウスタは言葉を飲み込んだ。
「えっと、ティムは、大人より小さくて、髪がボサボサですか?」
「そうです。ティムは小柄で見た目は十五歳くらいです。髪は真っ黒でボサボサ、寝ぐせのようにボサボサです。浮浪児のようなだらしない恰好をして、大抵フラフラしています。行儀も口も悪く、とても貴族には見えません」
アルカードはちょっと面白そうに含み笑いをして、ティムの様子について辛辣に語った。
その特徴を捉えた説明で、ファウスタは見学の日に見た奇妙な少年が守護霊ティムだった事を確信した。
「一昨日、ご当主はラシニア孤児院を見学に行かれました。ティムもそれに付いて行き、そこであなたを見つけたのです。そしてあなたをメイドとして雇うよう手紙に書き、それをご当主の書斎に置きました。ご当主は手紙を見つけ、すぐにあなたを雇うようにと私に指示なさったのです」
アルカードの語る話を、ファウスタは想像しながら聞いていたが、少しおかしく思った。
他の人にはティムの姿は見えず、声も聞こえないはず。
アルカードの話から、孤児院に見学に来た貴族の一行の中にマークウッド辺境伯が居た事が知れたが、あのとき貴族たちの中にティムの存在が見えている感じの人はいなかった。
書斎に手紙が置かれていたくらいで、見えない霊が書いたなどと信じるものだろうか。
「どうして手紙がティムからのものと解ったのでしょう。誰かが悪戯で置いたとは考えないのでしょうか」
「ご当主はご幼少のみぎり、ティムと話しをした事があるのです。現在は全く視えないようですが、手紙にはご当主に解るティムの特徴があったのでしょう」
「辺境伯は幽霊が視えたんですか!」
ファウスタはこの話に身を乗り出した。
自分と同じくらいはっきり幽霊が視える人には、今まで会ったことがなかった。
広い世界の中で、たった一人の理解者を見つけたような気持ちになった。
「昔は視えたようです」
アルカードはここで言葉を切り、考えをまとめるように顎に手をやって目を伏せた。
「本題に入りましょう」
アルカードは考えがまとまったのか、顔をあげてファウスタを見据えた。
「現在ご当主の長女であるオクタヴィアお嬢様が、良くない霊が居るとおっしゃっており、当家では問題が持ち上がっています。しかしお嬢様がおっしゃる霊とはティムの事ではありません」
「別の幽霊なのですか?」
「一年ほど旅行していたティムがファンテイジ家に舞い戻って来たのは、つい最近なのです。お嬢様はそれ以前から霊がいるとおっしゃっていたので、ティムではない事は確かかと」
「そ、そうですか……」
幽霊が旅行していたという部分にファウスタは衝撃を受けた。
大抵の幽霊は自分が死んだ場所や、思い入れのある場所に留まっているものと思っていたからだ。
自由気ままに旅行するような幽霊がいたとは。
ファウスタの幽霊常識がひっくり返された。
(幽霊社会にもいろんな人がいるんだな)
ふと馬車の窓の外を見ると、風景はだいぶ変わっていた。
ラシニア孤児院があった小さな建物がごちゃごちゃと並ぶ教会区とは違い、四階建てや五階建ての見た目も華やかな高層屋敷が道の両脇にびっしりと軒を連ねていた。
貴族の王都屋敷が並ぶ中央区の一角だった。
「あなたがオクタヴィアお嬢様の問題を解決すると、ティムはご当主に宛てた手紙に書きました。それでご当主は大至急あなたを雇用するようにとおっしゃられたのです。そういった事情から、こんなにも急いであなたをお迎えすることになったのです」
(お嬢様は霊がはっきり視えるわけじゃないのかな)
ファウスタはアルカードの話を聞いて思案した。
ラシニア孤児院の地下室には幽霊が居たが、それをはっきり視ることができたのはファウスタだけだった。
他の子供たちには、白いモヤや、黒い影しか見えなかったらしい。
孤児院の幽霊は物を少し動かしたり、物音を立てたりして自己主張もしたので、ひどく怯える子供もいた。
「私は、お嬢様に憑いている霊を確認するために雇われたんですか?」
「仕事内容についてはティムが直接説明するはずです。私もまだ詳しい事は聞いておりませんので、お答えすることができません。ですが目的の一つであることは間違いないかと思います」
「目的の一つ……」
アルカードの、何か引っかかる物言いに、ファウスタは眉をひそめた。
「あの、私、幽霊は視えますが、視えるだけです。幽霊退治はできないです」
「ご心配にはおよびません。魔眼が幽霊退治の才能ではないことをティムは知っています」
そしてアルカードは馬車の窓から外に目をやり、風景を確認した。
「まもなく屋敷に到着します」
「……!」
ファウスタも窓の外を見た。
先ほどの美麗な街並みに比べると、少し古ぼけた屋敷が並んでいた。
とはいえ、どれも立派な高層屋敷ではあったが。
「最初にお話したように、屋敷には私以外にも異形の者がいます。皆、人に化けていますが、あなたの目には見破られてしまうでしょう。中には恐ろしい姿をした者もいますが、怖がる必要はありません。皆、使用人として真面目に働いています。できれば普通の人間と同じように接してやってください」
「恐ろしい姿とは、どのような姿でしょうか」
「一番吃驚されるのは狼男かもしれません。何しろ顔が獣ですから」
「狼男……!」
ファウスタは少し怖気づいた。
狼男といえば、満月の夜に暴れまわり噛みつきまくる恐ろしい怪物だ。
狼男に嚙まれると同じ狼人間になってしまうという。
「怖がる必要はありません。怪奇小説に登場する狼男のように理性のない猛獣ではありませんから、顔に吃驚するくらいです。それに彼は、私より弱いです」
アルカードは不敵ににっこり微笑んだ。
「さて、到着です」
高層屋敷がびっしりと並ぶ街並みの中に、ぽっかりと、緑があった。
庭もなく敷地も狭い他の高層屋敷とは、一線を画する、緑に囲まれた屋敷だった。
イングリス王国の貴族は、本宅である領地の屋敷の他に、王都屋敷と呼ばれる別宅を王都タレイアンに所有している。
議会や国王主催の行事に出席するため、貴族たちは王都に滞在する必要があるからだ。
しかし王都の土地は限られている。
千人を超える貴族それぞれが庭付きの屋敷を構えるには、王都の土地は狭すぎた。
そのため大抵の貴族は狭い敷地しか所有できず、敷地が狭いのでおのずと上に部屋を積み上げる高層屋敷が並ぶことになった。
王都に庭付きの屋敷を持てる貴族は、よほど高位か、よほど裕福な、ごく一握りの貴族だけだった。
ファウスタを乗せた馬車は、石造りで大きな鉄格子の扉がついた門を潜った。
正面には古風な建築の堂々とした三階建ての大きな屋敷があった。
孤児院で二十人ほどが生活していたことを思えば、この屋敷なら百人か二百人くらいが余裕で生活できるのではないかとファウスタは思った。
こんな大きな屋敷に住むファンテイジ家の一族は、一体何人いるのだろう。
「ファンテイジ家の皆さんは何人いらっしゃるのですか?」
「現在この屋敷にいらっしゃるのは、ご当主と奥様、二人のお子様の四名です」
「たった四人ですか?! こんなに大きなお屋敷なのに?!」
「はい」
アルカードはファウスタの驚きを察して言った。
「貴族とはそういうものです。大きなお屋敷を所有することそれ自体、仕事の一つなのです」
門から一直線に屋敷の玄関まで続く石畳の道を中ほどまで進むと、馬車はその道を逸れて屋敷の横脇に進んだ。
「使用人は正面玄関を使うことはできません。裏手の使用人専用の出入口から入ります」
屋敷の庭は、まるで田舎の自然の風景のように、緑にあふれていた。
野生であるかのように絶妙に配置されたロゼリアの木が、生き生きとした薄紅色の花を咲かせている。
丈高く伸び枝葉を広げたリラスの木も、零れんばかりにたくさんの紫色の花を付けていた。
ラシニアの木立も葉を生い茂らせ、心地よさそうな木陰を作っている。
とても『お化け屋敷』とは思えない、天国のような庭だった。
春の女神がひょっこり現れても当然のことと受け入れてしまいそうなほど。
そんな神聖さすら感じる緑の天国だったので、白っぽい半透明に透ける何か小さなものが花々の間を浮遊していても、ファウスタは違和感を覚えなかった。
何か虫のようなものが視界に入ったようにしか思わず、このときは全く気に留めなかった。
「本日ご当主の帰宅は夜遅くになります。ご当主があなたに会うのは明日以降となるでしょう。ですから……」
アルカードはニヤリと、少し人の悪そうな微笑みをにじませた。
「早速これから、ティムの奴を捕まえて問い質すとしましょう」