261話 夜のガスパール
「私も魔眼に関する資料を読ませてもらったのだけれど」
ミラーカは紫色の双眸に思案気な色を浮かべた。
「二百年前の魔眼ってガスパール・ハウゼルだったのね」
「そうよ」
ヘカテは茫洋とした眼差しで、窓の外の真っ暗な夜を見やりながら言った。
「『グリーブマインの孤児』ガスパール・ハウゼル。『夜のガスパール』よ」
――今から二百年ほど昔。
ロンセル王国の地方都市グリーブマインの広場で正体不明の少年が発見された。
それは貧民ではない、平民の服装の十五歳くらいの少年だった。
少年は人間らしくない獣のような挙動で、「しらない」という言葉を繰り返すのみで会話が成立せず、狼男あるいは悪魔憑きではないかと騒動になり兵士が出動してこれを保護した。
少年は騎兵フレド・ヴェーセニー宛ての手紙を持っていた。
すぐにグリーブマイン伯爵家の騎兵フレド・ヴェーセニーが呼ばれ確認が行われたが、ヴェーセニーは手紙の内容にも少年にも心当たりはなかった。
手紙には『この子の名はガスパール・ハウゼル。騎兵になることを望んでいます。手に余れば殺してください』と書かれていた。
この手紙を読んだ騎兵ヴェーセニーと兵士たちは、人並みの人情を持っていたため、少年ガスパールを哀れんだ。
ガスパールは会話ができなかったので事情を聞くことはできなかった。
だが調書をとっていた兵士の羽根ペンに興味を示したので、羽根ペンを渡したところ、少年は『ガスパール・ハウゼル』いう名前を書いた。
少年は名前以外の文字は書けなかったが、しかし平民で文字が書ける者はそれなりの良い家で育った者だ。
騎兵ヴェーセニーと兵士たちは正体不明の少年ガスパールの扱いにしばし悩んだ末、彼を孤児として保護することにした。
保護されたガスパールは施設で監護され、教育を受けた。
食事に酷い偏りがあり肉や牛乳を受け付けず、暗闇を好み、光や音で発作のような症状を起こすため、医師が呼ばれて診療が行われた。
教育と治療を受けたガスパールは驚くべき早さで言葉を覚えた。
その学習能力は天才といっても過言ではないほど驚異的だった。
そして治療の過程で彼は五感が非常に鋭いということが判明した。
言葉を覚えたガスパールは、グリーブマインの広場に現れるまではずっと小さな部屋に居て、外へ出ることなくその部屋にずっと居たことを語った。
その暗い小さな部屋が彼の世界のすべてであったのだと。
ある日、ガスパールのその暗い小さな部屋に男が現れ、「しらない」という言葉を教え、名前の書き方を教えた。
そして男はガスパールを馬車に乗せて広場まで連れて来ると、手紙を持たせて置き去りにしたのだという。
ガスパールは遠くの蜘蛛の巣に蝶がかかっていることを言い当て、金属に触っただけで鉄や真鍮などの材質を見抜き、暗闇でも文字を読んだり物を見ることが出来た。
またガスパールはいくつかの予言めいた言葉も口にした。
幾度か北東の方角を指差し「真っ黒な悪魔がいる」と怯えを見せた。
ガスパールの気の毒で謎に満ちた生い立ちと、驚くべき特異な超能力はたちまち話題になり、その噂は瞬く間に国中に広まった。
ロンセル王国の宮廷でも『グリーブマインの孤児』が噂されるほどになり、彼は一躍有名人となった。
ヤルダバウト教の救世主アイオンの誕生を予言した賢者ガスパールと同じ名であったことと、不思議な能力を持つことから、賢者ガスパールの転生ではないかという風評も立ち始めた。
大勢の人々が『グリーブマインの孤児』ガスパール・ハウゼルに興味を持ち、医師や学者や聖職者たちが研究のための面会を求めてグリーブマインを訪れた。
貴族たちも彼に面会を求めて様々な寄付や支援を施した。
そして、新たに、一つの噂が立ち始める。
――『グリーブマインの孤児』の顔はバイドン王国の国王にそっくりだ。
――赤ん坊のころに死んだとされる王子ではないか。
かつては辺境伯領だった地方都市グリーブマインは国境に接しており、国境の向こうにはバイドン王国があった。
大国であるロンセル王国とバユヴァール王国に挟まれている小国、バイドン王国では、ここ十数年の間に赤ん坊だった王子を含め、正式な王位継承者が次々と死亡していた。
――陰謀で死んだことにされ幽閉されていた王子かもしれない。
バイドン王国の前国王には、前王妃との間に生まれた二人の王子と、前王妃の死後に迎えた後妻との間に生まれた一人の息子がいた。
前国王の後妻マヌエラは大富豪マイゼルファイナーの娘といえど平民であったため、これは貴賤結婚であった。
そのため後妻マヌエラは王妃の称号を得られず、彼女はただの夫人となり、息子セレスタンも前国王の血を引きながらも王子の称号を持たなかった。
――後妻の陰謀だ。
ガスパール王子説が過熱すると「真っ黒な悪魔がいる」という謎めいた発言にも様々な憶測が飛んだ。
――彼が指差す北東にはバイドン王国の王都がある。
――真っ黒な悪魔とは王位簒奪を目論む後妻とその一族のことではないか?
「そして後妻の陰謀説が広まると、すぐにガスパール・ハウゼルは暗殺された」
「そうよ」
ヘカテは相槌を打つと小さく肩を窄めてみせた。
「ガスパール・ハウゼルが暗殺された後、彼の世話役も、診療していた医師も、言葉を教えていた大学の教授も、どういうわけか次々と事故死してしまったわ。そして案の定、バイドン王国の王室典範が変更されて、後妻マヌエラの息子セレスタンが国王に即位。国王セレスタンはロンセルの王女を娶り血筋を補強して、その後はミラーカが知っている通りよ」
ヘカテがやや投げやりにそういうと、ミラーカは小さく笑った。
「ええ、そこからは知っているわ。陰謀説も噂程度には知っていた。当時の宮廷ではもう禁句だったけれど」
「ロンセル宮廷には王位簒奪した男の娘がいたものね」
「そうなのよ」
ミラーカは困ったような顔で苦笑した。
バイドン国王となったセレスタンはロンセル王国の王女を王妃とし、その娘の一人はロンセル王国のドランブル公爵家に嫁ぎ、ドランブル公爵夫人としてロンセル宮廷に出入りしていた。
「でもまさかガスパール・ハウゼルが魔眼だったなんて、資料を読むまでは考えもしていなかったわ。ガスパールが悪魔に力を借りているという疑惑は、教会のいつもの言いがかりだと思っていた。でも魔眼だったなら、魔物と本当に親交があったとしても不思議ではないわね」
「今となっては調べる術がないのが口惜しいわ。噂が立ってから暗殺されるまで、あっという間だったんですもの。こちらに噂が届いたころには手遅れだった」
「イングリス王国はちょうど飢饉で大変だった時期かしら」
「そうよ。こちらはこちらで騒動の真っ只中だった。知らせを受けたあと、ロンセルに出向いて調査したけれど、魔眼と接触した魔物は見つからなかったわ。不自然なくらい何もなかった。手がかりは人間たちが残した資料だけよ」
――ガスパール・ハウゼル。
小さな部屋に閉じ込められていた不遇の生い立ちと、特異な能力。
陰謀の犠牲となった悲劇の王子である可能性。
当時、様々な噂が飛び交い、疑惑が渦を巻き、同情が集中し、兎にも角にも最も熱い話題であった『グリーブマインの孤児』ガスパール・ハウゼルの暗殺による突然の死は、人々に大きな衝撃を与えた。
時のロンセル国王は暗殺者に懸賞金を掛け、この事件を捜査させた。
しかし暗殺者は捕まらず、多くの謎を残した未解決事件となった。
この事件を題材として芸術家たちが数々の作品を残した。
ヤルダバウト教の賢者ガスパールを明るい光や昼に見立てた対比で、暗闇で育ち気の毒な最期を遂げたガスパール・ハウゼルは闇の子、あるいは夜の子として表現された。
ある詩人は彼を『夜のガスパール』と書いた。




