26話 マダム・グラトニー
「ファウスタは大丈夫かな」
厨房の洗い場で皿洗いをしながらテスは独り言のように呟いた。
隣りの流しで油まみれの鍋を洗浄すべく格闘していたアメリアは、テスの方を見ずに手を動かしながらその呟きに答えた。
「まだ大丈夫よ。今すぐ悪魔と対決するわけじゃないもの。今頃は旦那様たちとお茶を飲みながらお話ししてるわよ」
アメリアとテスが小声でひそひそと話しながら洗い物を続けていると、厨房に来訪者があった。
「ヘンリエタさんだ。何かあったのかな」
テスは来訪者の姿をちらりと見やって疑問を口にした。
上階で働く侍女であるヘンリエタが地階の厨房を訪れるのは珍しい。
特にヘンリエタはマークウッド辺境伯夫人ヴァネッサの親戚筋の子爵令嬢なので、細々とした日常の雑用を言いつけられて地階に来る事はほぼ無い。
ヘンリエタが現れるという事は、何か急ぎの案件、あるいは特別な注文だろうと推測された。
「献立の指示を持って来たんじゃないかしら。今日は旦那様の要望で朝食後すぐにファウスタとの面会なんだもの。奥様はきっとハミル夫人に献立の指示を出す時間がなかったのよ」
アメリアは淡々と答えたが、テスは釈然としないようだった。
「そうかなぁ。献立の相談ならいつもハミル夫人が上階に行くよね」
二人は小声で憶測を語り合いながらも目の前の洗い物の仕事に集中した。
すると突然、後ろから声が飛んできた。
「アメリア、テス、ちょっといいかい」
吃驚してアメリアとテスが振り向くと、今まさに話題にしていた人物がこちらへ歩み寄って来た。
恰幅の良い堂々とした体格の女性、厨房の主たる料理人のハミル夫人。
そして彼女の後ろには少し頼りなげな風貌の年若い侍女ヘンリエタ。
「は、はい、ハミル夫人」
アメリアとテスは慌てて水道のコックを閉め、二人に向き直った。
「昨日来たファウスタって子について、ちょいと尋ねたいんだ」
ハミル夫人がざっくばらんに話し始めた。
ヘンリエタはその横で少し困惑した顔で立っていた。
「ファウスタが旦那様に午餐のご招待を受けたんだよ。それであの子の好きな食べ物や苦手な食べ物について何か知っていたら教えて欲しいのさ」
「すみません、ハミル夫人、ファウスタとは昨日会ったばかりなので好みについてはまだ解らないです」
アメリアがそう答えると、ハミル夫人は頷いた。
「それは解ってる。大体でいいのさ。昨日からの食事であの子が手をつけなかった物とか好きそうだった物とか何かないかい?」
「それならテスが隣の席だったので……」
アメリアはテスを振り返った。
「全部美味しそうに食べていました」
テスが笑顔でそう言うと、ハミル夫人は「あらまあ」と嬉しそうに破顔した。
「ファウスタは好き嫌いは無いのかしら?」
ヘンリエタが少し不安そうな顔でテスに質問する。
「全部好きみたいでした。こんな美味しいもの初めてって、すっごいニコニコして全部食べてました」
テスがそう答えると、ハミル夫人とヘンリエタは哀れみの表情を浮かべた。
「孤児院から来た子だからねえ」
「今まで充分に食べる事ができなかったのですね。あんな小さな子なのに……なんて可哀そうな子なの……」
「昨日ちらっと見ただけだが、鶏ガラみたいな痩せっぽっちだったね」
ハミル夫人とヘンリエタの言葉を聞き、ファウスタが孤児院出身であることや、孤児院の環境があまり良くないという風聞を思い出したのか、テスの表情も悲し気に変わった。
「そっか、だから屋敷精霊様は、ファウスタに『沢山召し上がれ』って言ってたんですね……ファウスタ可哀想……」
テスがそう言うと、ハミル夫人は軽い驚きと興味が混じったような顔をした。
「テス、お前さんは屋敷精霊様のお声を聞いたのかい?」
「いいえ、私は聞いていません。ファウスタが聞いたんです」
「どういう事だい?」
「屋敷精霊様がファウスタにそう言ってたって、ファウスタが言ってました」
テスの回答が要領を得ていなかったためか、ハミル夫人はアメリアに視線を向けた。
「ファウスタの前に屋敷精霊様が現れたのかい?」
「はい、ハミル夫人」
アメリアはハミル夫人の問いに答えた。
「昨日の午後のお茶の時間、使用人食堂で騒霊現象が起こりました。料理の皿が次々と宙を舞い、ファウスタの前に勝手に移動しました。ファウスタが言うには茶色のドレスの女性が『沢山召し上がれ』と言って並べてくれたのだそうです」
「茶色のドレス……」
何か思い当たる事があるかのようにハミル夫人は思案気に顎をさすった。
「ファウスタは此処で長く働く事になりそうだね」
ハミル夫人が零したその言葉に一同は不思議そうな顔をする。
その空気を読んでハミル夫人は言葉を続けた。
「この屋敷の代々の料理人や家政婦長は、見習いだった頃に茶色のドレスのお方を見ているのさ。後ろ姿だけだがね。私とマクレイ夫人も、見習いのただのアニーとエミリだった頃に茶色のドレスの婦人を見てるんだよ」
ハミル夫人はニヤリと笑った。
「ファウスタはいずれ家政婦長になる子かもしれないね」
ハミル夫人の予言に、テスとヘンリエタは興味深げに目を輝かせたが、アメリアだけは悲愴な表情を浮かべた。
「そ、それは、茶色のドレスの方を見ていない見習いは、家政婦長にはなれないって事でしょうか?」
アメリアの悲愴な問いかけにハミル夫人は少し面白そうな顔をした。
「おや、あんたは家政婦長になりたいのかい?」
「いえ、その……そういうわけでは……でも仕事を続けるなら出世はしたいので……可能性というか……」
言葉を濁してアメリアは目を泳がせた。
「先代から聞いた話だから三代くらいは続いてるジンクスみたいなもんだね。絶対ってわけじゃないだろうさ。それに……」
食い入るような眼差して話を聞いているアメリアに、ハミル夫人は微笑んだ。
「この屋敷で一番長く働いていて一番出世してるアルカードさんは、屋敷精霊様のお姿を一度も見た事がないんだ。見てないから出世できないってわけじゃないさ」
「アルカードさんも……」
救いの光を見出したかのようにアメリアは表情をゆるめた。
「そうさ。アルカードさんはあっという間に家令まで出世なさったお方さ。でもあの方は屋敷精霊様のお姿を見ていないし、助けられた事すら一度も無いらしいよ。ま、助けようにも隙が無いお人だからね」
ハミル夫人がそう言ってカラカラ笑うと、ヘンリエタも感心するように頷いて話に乗った。
「アルカード氏は社交界でも有名な伝説的家令ですもの。あの方が誰かに助けられている姿など想像できませんわ。あの方こそ家令の中の家令、家令の王ですわ」
アルカードが自分と同じく屋敷精霊に助けられたことがないと聞き、アメリアはアルカードに同類の親近感のようなものを持った。
しかしいくら上級使用人とはいえ、所詮は使用人である彼が何故社交界で有名になっているのか。
伝説的家令とは一体何なのか。
一瞬同類に感じた彼の、その謎に満ちた栄光について、渦巻く疑問にこらえきれずアメリアはヘンリエタに質問をした。
「すみません、ヘンリエタさん、アルカードさんは使用人なのに、どうして社交界で有名なんですか?」
「ご高齢で現役の家令だからよ」
天地の理を説くかのごとく、ヘンリエタは堂々とした態度で答えた。
「ご高齢でありながら上級使用人として現役でご活躍なさっていらっしゃる方はとても珍しいの。それに最近は家令を置かずに執事に管理をまかせている家がほとんどですもの。白髪の老家令なんてイングリス王国でアルカード氏ただ一人。とっても希少価値があるの。うちの両親も初めてアルカード氏にお会いできた時には、まるで御伽噺の世界のようだと感激していましてよ」
ヘンリエタは少し得意気に語った。
「家令は大抵は四十代前後。タレイアン公爵家にいたっては三十代の家令が使用人の中で最高齢だとか。皆、アルカード氏の足元にも及びませんわ。使用人の質ではマークウッド辺境伯家がイングリス王国の最高峰と言えるでしょう」
「アルカードさんの圧勝は当然だがね。タレイアン公爵家の使用人の最高齢が三十代ってのはさすがにちょっとおかしいんだわ。あの家はキナ臭いね」
ハミル夫人が苦い顔でそう言うと、ヘンリエタはそれに大きく頷いた。
「おっしゃる通りです。あの家は色々とおかしいのですわ」
「主に夫人の頭がね」
「そう! そうなのです! ご存知なのですか?!」
「料理人仲間から聞いた話だがね。夫人は朝から晩まで肉を食い散らかしてるらしいね。三食に肉料理は当たり前で、お茶の時間も肉料理。深夜にも急に使用人を呼んで今すぐ肉料理を出せって無茶ぶりするから、あの家では常にすぐ出せる肉料理を用意してるらしいよ」
「深夜にですか?!」
「そう深夜に」
「なんて迷惑な。……あのだらしない体形は怠惰な生活と肉料理から作られていたのですね……」
ハミル夫人とヘンリエタは意気投合して頷き合った。
「あ、思い出した……!」
二人の話に気付きを得たテスが声を上げた。
「ハミル夫人、ファウスタは肉詰めパイが好きって言ってました」
「そういえば……クレアさんに質問されて、肉詰めパイが好きって言ってたわね」
アメリアもテスの言葉を聞いて昨日の光景を思い出した。
「いつもながらクレアは良い仕事するねえ」
未来に必要となる情報を先回りして引き出していたクレアの才覚に、感心するようにハミル夫人は唸った。
「では、ハミル夫人、午餐の献立に肉詰めパイをお願いします」
ヘンリエタがそう言うと、ハミル夫人は少し考えるように顎をさすった。
「肉詰めパイは昨日の献立だね。ファウスタは客だが使用人だ。ファウスタに合わせて旦那様たちに昨日と同じものを出すのは……どうなんだろうね。……見た目とソースを変えて出しましょうか。どんなソースにします?」
ハミル夫人に問いかけられ、ヘンリエタは再びアメリアとテスの方を向いた。
「ファウスタがどんなソースが好みか解らないかしら」
「ファウスタはお肉は一年に一度しか食べられなかったって言ってたから、色んなソースを知らないと思います」
テスがあっけらかんとそう言うと、ヘンリエタとハミル夫人は深い哀れみの表情を浮かべた。
ファウスタが一年に一度しか食べられなかったのは肉詰めパイであり、肉そのものは少なくはあったが月に何回かは食べていた。
テスの記憶違いなのだが、その記憶違いにより語られた悲惨な食生活にハミル夫人とヘンリエタはひどく同情したようだった。
「お肉を! お肉を使った献立をお願いしますわ! ファウスタにお肉をたくさん食べさせてあげてくださいませ!」
ほとんど泣きそうな顔でヘンリエタはハミル夫人に献立の注文をした。
ハミル夫人もそれに頷いた。
「ええ、ええ、たらふく肉を食わせてやりましょう。あの子はもっと太らなきゃいけません」
「本当に……本当に、酷い話ですわ」
ヘンリエタは目を潤ませ、眉を歪めた。
「ファウスタがいた孤児院の理事長はタレイアン公爵夫人なんですのよ。孤児院の子供たちを飢えさせておきながら……自分だけはあんなにぶくぶくと太って……」
「それは本当かい?!」
ヘンリエタがもたらした情報にハミル夫人は目を丸くした。
「それが本当ならあの女は、自分は毎日肉料理をたらふく食べているくせに、仕事をさぼって孤児たちを飢えさせてるってことかい?」
「ええ、そういう事になります。ファウスタは王立ラシニア孤児院出身ですもの。ラシニア孤児院はパトリシア王女が創設なさり、代々のタレイアン公爵夫人に仕事が引き継がれていますの。現在の理事長は現在のタレイアン公爵夫人、つまりあの暴食夫人なのですわ」
「マダム・グラトニーか、そりゃあいい」
ハミル夫人は『暴食夫人』という言葉がツボにはまったらしくカラカラ笑った。
「さすがは貴族令嬢、教養とセンスがおありだ。七つの大罪の暴食にかけてマダム・グラトニーとは、上手い呼び名をお考えになる」
「いえ、マダム・グラトニーというのは私が考えた呼び名ではありません。社交界でのあの女の陰の通称ですの」
気弱な令嬢という印象のヘンリエタが、すっと陰のある笑みを浮かべた。
「式典は欠席するくせに晩餐会にはのこのこ出てきて、それであの体形ですから。皆さん陰ではあの方をそうお呼びになっていらっしゃいます」
「怪物みたいな名前であの女にぴったりだ」
「ええ、本当にあれは怪物ですわ。しかも孤児たちに満足な食事を与えず飢えさせていたなんて……自分は丸々と肥えているくせに……本当に暴食の悪魔のような女ですわ」
「よし、私たちがファウスタに旨いもん沢山食わせて太らせてやろう」
ハミル夫人は好戦的な色を浮かべニヤリと笑った。
ヘンリエタもまるで天啓を得たかのように目を輝かせた。
「あの女に一矢むくいるのですね!」
「そうさ、あの女に搾取されて鳥ガラみたいに痩せちまった孤児を、私たちが丸々太らせてやるのさ」
ハミル夫人とヘンリエタは年齢も身分もかけ離れているが、しかし出陣前の戦友同志のように力強く頷き合った。




