208話 留置所の騒がしい夜
――スープに手を付けてはなりませぬ。毒入りですぞ。
警視庁の留置所で、ラシニア孤児院の元院長ジュード・カニングは今夜も不思議な声を聞いた。
その声は女子供のような声だ。
留置所に入れられてからというもの、今までに何度か夕食に毒が入っているという警告を発した声だった。
毒を警告するその不思議な声をカニングは自分の心の中の声だと思っている。
鑑定能力の超能力が発動し、それが幻聴となって聞こえるのだと。
(私の鑑定能力は自動でのみ発動するのか)
カニングはトレイの上のスープ皿をまじまじと見つめた。
成分を見極めようと凝視したが、不思議な声は聞こえて来ない。
(意識的には鑑定が出来ぬのだな)
毒入りのスープが運ばれてくる度に、廊下の向こうで警官たちが騒がしくなり、悲鳴が聞こえて来ることもある。
大抵はその後、小太りなバロー警部が現れ、毒入りの食事を下げて行く。
だが食事の鑑識は行われていないのか、相変わらず毒入りの食事が運ばれて来る。
弁護士だと言う男が来たので、食事に毒を盛られる状況を訴えてみた。
セドリック・カートライトと名乗ったその弁護士は、カニングと同世代くらいの年齢だったが、擦れていない育ちの良さそうな顔をしており「必ずドスト男爵を引きずり出す」などと青臭い正義を口にしたので、世界の野蛮さを少し教えてやりたくなったのだ。
弁護士カートライトは毒殺未遂を必ず明らかにすると言った。
だが未だに状況は変わらない。
口先だけは威勢が良かったが、今頃はどうにもならない状況にお手上げになっていることだろう。
もしくは……。
(カートライトはもう生きておらんのかもしれん)
キナ臭い事件を担当した弁護士はしばしば不審死を遂げる。
闇に深入りしすぎた者は消されるのだ。
囚人を毒殺し、原因不明の急死で処理してしまうなど、警視庁の内部に味方がいなければ出来ないことだった。
背後に大きな勢力があることは明白だ。
(新世紀派は巨大だ。王室を蝕むほどの勢力だ)
自分は王太子妃の父であると、事あるごとに吹聴していたドスト男爵の自慢げな顔がカニングの脳裏に浮かんだ。
ドスト男爵は痩せ細った死神のような男で、目の周りの隈はまるで不吉な死相のようであった。
だが二十年以上経った今でもドスト男爵は目の周りの隈を貼り付けたまま生きているので、残念ながら死相ではなかったようだ。
(私の命を狙っているのはドスト男爵ではなく新世紀派の上層部だろうな。守りたいのはドスト男爵ではなくマルシャの地位だろう)
ドスト男爵の娘マルシャはエグバート王子と結婚し王太子妃となった。
だが実父が犯罪者となれば王妃にはなれぬだろう。
廃妃も有り得る。
マルシャ本人はただの愚かな女だ。
結婚前は王太子妃の地位に皆が平伏すると思っていたようだが、平伏どころか批判ばかりされる事を身を以て知り、今はもう面倒な王太子妃など辞めたいと思っていることだろう。
だが新世紀派はそれを許さない。
(マルシャの地位を守るために、実父であるドスト男爵の名が汚れぬよう、私に横領の罪を全て擦り付けたいわけだ)
逆に言えばマルシャ妃の地位を利用してドスト男爵がケチな横領などしていなければ、新世紀派は余計な仕事をせずに済んだということになる。
(ドスト男爵は新世紀派の中では煙たがられているかもしれんな)
留置所の廊下の向こうから人々の話し声が聞こえて来た。
毒が盛られたときはいつも廊下の向こうが騒がしくなり、そして大抵の場合は深刻な顔をした小太りのバロー警部が現れる。
だが今日は少し様子が違った。
どやどやと十数人の私服の男たちが留置所の廊下を歩いて来た。
立派な服装の紳士もいれば、中流階級風の装いの者もいる。
(まさかな……)
男たちの集団の中にいる老齢の紳士の顔に見覚えがあり、カニングは内心で首を傾げた。
その老齢の紳士の顔は新聞でよく見かける顔であったが、もし本人であれば、こんな場所へ来るような人物ではない。
「カニング氏、ごきげんよう」
留置所の中のカニングにそう挨拶したのは、男たちの集団の中にいた一人、弁護士セドリック・カートライトだった。
(生きていたか)
初対面の日以来、音沙汰が無かった弁護士の安否についてカニングは疑念を持っていたが生存を確認した。
「……食事にまた問題があったか?」
カニングが手を付けていない食事のトレイを見てそう言ったのは、男たちの一団と共に来たバロー警部だった。
「スープに毒が入っておる」
カニングがそう答えると老齢の紳士が笑顔で答えた。
「ではこの食事は保安局で調べさせてもらおう」
老齢の紳士がそう言うと、別の紳士が血相を変えた。
「こ、こちらで鑑識に回します。保安局に持っていかなくとも……」
保安局とは、内務大臣の管轄下にあり、国内の治安維持のためスパイやテロリストなどの情報収集をする組織だ。
「何度も毒が混入されていたと聞いているが?」
弁護士カートライトがそう言うと、バロー警部もそれに追随した。
「そうです。何度も鑑識に回しているはずですが、何の報告も沙汰もありません」
「それは毒が検出されたことは一度もないからです。カニングの狂言なのです」
血相を変えている紳士はそう反論したが、弁護士カートライトは品の良い微笑みを浮かべて言い放った。
「では、貴方がこのスープを一口飲んでみますか?」
「……いえ。……それは囚人の食事ですので……」
「狂言ならば安全ですよね? 毒味をしていただけませんか?」
血相を変えている紳士はますます顔色を悪くして口を閉ざした。
「この食事を保安局へ持って行き成分を調べるように」
老齢の紳士は厳しい表情で部下らしき男に指示すると、カニングに向き直り自己紹介をした。
「私は内務大臣レイモンド・シェリンガム。君の身の安全は私が保障しよう」
(本物だった)
「あの弱そうな爺が内務大臣でありますか」
留置所でカニングを護衛する見えざる者たち、吸血鬼と魔道士は、人間たちの様子を見物していた。
「吸血鬼ギルドが内務大臣を引っ張り出したのでありますか?」
魔道士タニスの問いに、吸血鬼ダミアンが答えた。
「吸血鬼ギルドではなく竜公の個人的な人脈です。ドラキュリアはマークウッド辺境伯家の家令として人間社会に身を置いていらっしゃるので、貴族に広い人脈をお持ちです」
「なるほど、なるほど。ドラキュリアは社交家でいらっしゃるのですな」
感心するようにタニスは頷いた。
そして、はたと気付いたように、右手の拳で左手の掌をポンと叩いた。
「ああ、それで!」
声を上げたタニスに、ダミアンは訝し気に問いかけた。
「何か?」
「ああ、いえ、こちらの話です。うちのバジリスクス様が三十年前くらいから突然社交がどうのと言い出しまして……」
「魔道士ギルド長のバジリスクス殿ですか?」
「そうです。うちのギルド長であります。三十年くらい前に急に『これからは社交だ』と言い出しまして、小洒落た庭付きの屋敷を購入して、庭師を雇って花など植えさせて、気が狂ったのかと思ったのであります」
タニスは皮肉っぽい笑みを浮かべて、困ったように眉根を寄せ、肩を窄めながら話を続けた。
「ドラキュリアが貴族に人脈を持っている社交家とお聞きして、合点がいきました。バジリスクス様はドラキュリアに対抗して社交を始めたのですな」
「ほう。バジリスクス殿も人脈をお持ちなのですか」
「持ってないと思いますぞ」
けろりとした顔でタニスは答えた。
「マグス商会の会長としてイヤイヤ人間と仕事上の付き合いをすることもあるようですが、大抵は下の者に丸投げしているのであります。屋敷にもマークウッドの盟主代理殿を招いて接待していたという話しか聞いておりませぬ」




