206話 悪霊の噂
「裁判を見に行きたいんですが、休日の変更って出来るでしょうか」
マークウッド辺境伯邸の執事室で、新聞のアイロン掛けの仕事をしながら、ピコは執事バーグマンに問いかけた。
新聞記事にはラシニア孤児院元院長ジュード・カニングの裁判の日程が書かれていた。
「ああ、出来るよ。裁判はいつだい?」
バーグマンは気安く答えたが、傍らでいつものようにカトラリーの準備をしていた従僕ダミアンがすぐに異を唱えた。
「王立裁判所には子供は入れないよ」
「えっ?!」
「十四歳以上じゃないと敷地に入れてもらえないんだ」
「……そうですか。じゃあ、僕は入れないですね……」
「若様のお言いつけでユースティスが傍聴に行くらしいから、帰って来たら様子を聞いてみたらいい」
「ユースティスさんが?!」
「うん。若様は法学のお勉強をしていらっしゃるから、今回の事件にご興味があるらしくてね。それで代理で傍聴に行くらしい」
「確かに珍しい事件だよなあ」
バーグマンが少し面白そうに言った。
「横領の被害者が王室と教会だなんて、なかなか無い事件だ」
王立ラシニア孤児院は王室が運営する孤児院であり、寄付金の一部は教会運営の孤児院にも分配される。
ラシニア孤児院の寄付金を横領したということは、教会運営の孤児院に分配される寄付金も取り上げたことになる。
「イングリス王国は教会の首長も女王陛下です。王立孤児院も教会運営の孤児院もトップは女王陛下ですよ」
ダミアンがそう言うと、バーグマンは気付いたように頷いた。
「そういえば、そうだったな」
イングリス王国はエグバート八世の時代に、離婚を禁じていた教皇庁と争って決別し、ヤルダバウト教の聖典のみに忠実な教えを掲げた。
教皇庁はエグバート八世を破門し、エグバート八世は国内の聖職者たちに教皇庁に付くか国王に付くかの選択を迫った。
そして国内の聖職者たちは国王に付き、国王エグバート八世を頂点とする国教会に属した。
同じヤルダバウト教であるが、教皇庁が掲げる従来の教えを旧教、イングリス王国の国教会をはじめとする新解釈の教えは新教と呼ばれるようになった。
時を経て、もはや宗教戦争をするような時代は遠くなり、イングリス王国は教皇庁とは争う仲ではなくなっている。
だが制度は決別した時のまま、イングリス王国では君主が新教である国教会の首長であり、旧教徒は王位を継げない法が今でも残っている。
「じゃあ女王陛下が横領の被害者ってことになるんですか?」
「そういうこと。そして司法のトップも女王陛下だ」
「そうなんですか?!」
「そうさ。最高裁判所の裁判官は『女王陛下の代理人』だからね」
古き時代、領主は裁判を行った。
領主の判決を不服とした者たちは、国王に訴えた。
国王が行う裁判が最高裁判であり、最高裁判所の裁判官たちは国王の代理人として裁判を行った。
ゆえに今でも、最高裁判所の裁判官は君主の代理人であり、裁判官の制服である長衣の背には王家の紋章が刺繍されている。
「絶対絶命じゃないですか。よくそんな相手から盗もうと思ったなあ……」
ピコが眉間に皺を寄せてそう言うと、ダミアンは苦笑した。
「トップは女王陛下だけど、今の時代、王権を発動するには議会の承認が必要だからね。議会に人脈があって、捕まらない自信があったのかもしれない」
「ファウスタ、院長の裁判の日が決まったらしいわよ」
家女中アメリアは、ファウスタの身支度を手伝いながら、ピコから聞いた情報を語った。
「ピコは休みをとって裁判を見に行くつもりだったらしいけれど、裁判所は子供は入れないから駄目だったんですって。でも若様のご命令でユースティスが裁判を傍聴に行くから、ユースティスに裁判の話を聞くって言ってたわ」
「ユースティスさんは子供なのに入れるんですか?!」
(本当は百歳以上だけど、見た目は子供なのに。魅了術を使って入り込むつもりかしら)
ファウスタはユースティスを疑ったが、すぐにアメリアが謎を解明した。
「王立裁判所は十四歳以上なら入れるんですって。ユースティスは十四歳だからぎりぎり入れるのよ。でも大丈夫かしら……」
アメリアは微妙な表情で半目になり、眉根を寄せた。
「あの子、年の割に小柄で細いから、十四歳に見られなくて追い出されたりしないかしら」
(その心配は無いのだわ)
ユースティスが吸血鬼である真相を知るファウスタは内心で保証した。
(ユースティスさんは催眠術で人間に命令できるもの)
「そういえば、ファウスタ、心霊探偵社には警視庁からの依頼は来ないの?」
「鬼火が出るという警視庁ですか?」
「そうよ」
(アメリアさんも興味があるのかしら)
ファウスタの主人であるオクタヴィアは怪奇現象の話題が大好物だが、現実派のアメリアがこの手の話をするのは少し珍しかった。
(警視庁の鬼火はそんなに話題なのかしら)
「シャールラータンって知ってる?」
それはファウスタが何度か聞いたことのある名前だった。
「霊能者の人でしょうか」
「そうよ。有名な霊能者。警視庁は鬼火現象を解決するためにシャールラータンを呼んだんですって。でもね失敗したの」
「鬼火を退治できなかったのですか?」
「そうなんだけど、それだけじゃないのよ。手に負えない強力な悪霊がいるからって、シャールラータンは逃げ帰ってしまったんですって」
「悪霊!!」
(悪霊って……すごく悪い霊よね……)
ファウスタが孤児院の書架にあった怪奇小説から得た知識では、悪霊というのは人間を呪い殺したりする恐ろしい亡霊だ。
ファウスタが読んだ物語では、悪霊は退治されていなかった。
悪霊がいるので人間が近付けない場所になったり、持ち主を殺してしまう呪いの王冠は博物館に寄付されたり。
どれも人間が近付かないようにすることで悪霊から逃げる終わり方だった。
(院長先生とタニスさんは大丈夫かしら……)
タニスは強い魔道士だが、悪霊が相手でも大丈夫だろうかとファウスタは少し心配になった。
吸血鬼も魔道士も、便利な魔力を持っているが、幽霊がはっきり見えるわけではなく、全ての幽霊に対処できるわけではないという事を、心霊探偵の仕事を通してファウスタは知っている。
「本当に悪霊が居たかどうかは解らないけれど。イングリス王国で一番の霊能者が逃げ出したことは本当らしいわ。いくつかの新聞に同じ事が書かれていたもの。ゴシップ紙だけど」
アメリアは苦いものを噛んだように少し顔を顰めた。
「ファウスタの探偵社は最近わりと有名になっているから、もしかしたら警視庁はファウスタたちに悪霊退治の依頼をするかもしれないわ。でもシャールラータンにも退治できなかった悪霊なのよ。危ないと思ったらすぐに逃げなさいね。シャールラータンはすぐに逃げ出したんだから。ファウスタもちゃんと逃げるのよ」




