02話 悪魔卿の使用人
「すっごい綺麗な男の子が来たの!」
貴族たちの一行が訪れた翌日、ラシニア孤児院はいつも通りの日常に戻るかと思いきや、いつもとは違う騒がしさで一日の幕が上がった。
「あんな綺麗な子、見たことない!」
「王子様みたいだったよ!」
おませな十歳のパメラとエミリアは、朝食後の食堂の掃除をしているファウスタにまといつき、先刻この孤児院を訪れた少年について興奮気味に話していた。
ファウスタはそれを聞き流しながら掃除を続けた。
物理的に掃除の邪魔をしてくるやんちゃな子たちに比べたら、おしゃべりするだけのパメラとエミリアは無害と言える。
生返事をしていれば問題ない。
あらかたしゃべり終われば、気がすんで他へ行くのだから、しゃべらせておけばいい。
「きっと王子様だよ! 髪がさらさらふわふわ!」
「すっごい綺麗な髪なのよ!」
「さらっさらだったよね!」
「サファイアみたいな青い目だった!」
「絶対、王子様だよ!」
朝っぱらから孤児院に一国の王子が来るわけがない。
パメラとエミリアの妄想に、ファウスタは「ふうん、そうなの」などと適当に相槌を打ってやった。
そこへ栗色のくせ毛の少年ピコが現れ、夢見る二人に現実的な回答をつきつけた。
「あの子はただの使い走りだよ。院長に手紙を持ってきたんだ。どこかの使用人だよ」
ピコは淡々と、夢も希望もない説明をした。
「あんな綺麗な子は使用人じゃないよ!」
「高そうな綺麗な服だったもん! 絶対、王子様よ!」
美少年がただの使用人であることが不服なのか、夢見るパメラとエミリアは反論した。
もしかするとこの二人は、王子様が迎えに来てくれる夢を見ているのかもしれない。
そんな二人にピコは、眉間に皺を寄せた難しい顔で答えた。
「使用人の服装で主人の家の格が解るから。貴族や金持ちは家の面子にかけて、外に出す使用人には良い服を着せるんだ。そういうわけで、ファウスタ……」
ピコはファウスタの方に向き直った。
「食堂はいいから、先に院長室の掃除をしろってさ。それを伝えに来た」
「そういうわけって、どういうわけなの?」
話が見えなかったファウスタは、ピコに聞き返した。
「お客が来るんだよ。使い走りの少年はそれを伝えに来たんだ」
「なるほどー」
「返事が届き次第、すぐに来るらしいから、急いで掃除してくれってさ」
「院長室は一昨日、念入りに掃除したばかりなんだけど……」
今日の仕事が増えることが決まったファウスタは肩を落とした。
「ざっくりとでいいんじゃない? 僕なんか玄関回りの掃除だよ」
ピコは自分の不運を嘆くかのように、肩をすぼめてみせた。
子供が立ち入り禁止になっている院長室と違い、玄関回りはやんちゃな子たちが庭の泥がついた靴で走り回る場所なので、掃除は少し骨が折れる。
かまって欲しい子たちに掃除の邪魔をされることもある。
玄関回りの掃除をさせられるより、院長室の掃除のほうがマシと言えるだろう。
ファウスタとピコは死んだ魚のような目で、それぞれの仕事に向かった。
「あの馬車は貴族っぽいね」
孤児院に到着した立派な馬車を窓から伺い見て、ファウスタは呟いた。
「本当にすぐに来たね。早すぎる。よほど慌ててるのかな」
ピコは眉間に皺を寄せた。
まだ昼前だ。
ファウスタとピコが掃除を言いつけられてから、二時間ほどしか経過していない。
(あれ、あの人、なんだかおかしい……)
立派な馬車から降り立った白髪の老紳士を見て、ファウスタは眉をひそめた。
その老紳士は、青白い煙のようなモヤモヤを纏っている。
「ねえピコ、あのお客様、何だかおかしくない?」
ファウスタは近くにいたピコを振り返り、窓の外を指さした。
ピコはファウスタに示された窓の外の紳士を見た。
院長のカニング先生が諸手を広げ、ものすごい笑顔で、白髪の老紳士を大歓迎しているのが見える。
「別に変なところはないと思うけど? 院長がめちゃくちゃご機嫌なのは寄付金絡みの客だからだと思う」
「青い煙みたいなもの見えない?」
「煙草の煙? 見えないよ」
「そっか……」
(他の人には見えないのかな?)
「ファウスタ、ピコも、お疲れー」
今日は洗濯を言いつけられていたジゼルも仕事を中断し、居間に撤収して来た。
来客があるときは、子供たちは仕事の手を休めることになっている。
お客様の前で仕事をしていることは失礼にあたるから、という理由なのだが、ピコが言うには「本当はメイドを雇わなきゃいけないのに院長は経費を横領してるんだ。子供を働かせていることがバレたら院長はやばくなるから隠したいのさ」という事だ。
「ちょうど良かった、ジゼル、あのお客様どう見える?」
「ん?」
ジゼルは窓の外に目を凝らした。
「白髪のお爺さん? あの品の良さは貴族ね。院長がご機嫌でニコニコだから寄付金たっぷり。きっと大金持ちよ」
「他には何か見えない?」
「見えない、けど、ファウスタには他に何か見えるの? また幽霊?」
ジゼルにも見えないらしい。
やはり自分にしか見えていないのだとファウスタは確信した。
ならば黙っていようと思った。
正体が何であろうと、用が済めばお客は帰るのだから、関わることもないだろう。
仮に自分に見えているものを主張して、それで周囲の同意を得られたとしても、お金が貰えるわけでも、何か得するわけでもない。
ただの自己満足にしかならない事を主張するのは馬鹿々々しい。
「モヤが見えた気がしたんだけど……。ごめん、見間違いだったみたい」
「うん。幽霊には見えないよ。あれは現実のお爺さん。そしてお金持ちよ」
「ファウスタ、院長先生がお呼びよ」
「え?」
勉強部屋を兼ねた居間で、ジゼルとピコと三人で世間話をしていたファウスタに、バーチ夫人が声をかけた。
「今すぐですか?」
「今すぐよ」
「でも今は、お客様がいらっしゃってるんじゃ……」
「私にも解らないのだけれど……すぐにファウスタを呼んでくるよう言われたのよ」
バーチ夫人も首をかしげていた。
「とにかく行ってみてちょうだい」
「解りました」
先程、関わることがないと思ったあの青い煙の老紳士に、院長室でまさかの対面という事態に陥ってしまった。
ファウスタは厄介事にまきこまれる不安を感じながら、院長室に向かった。
院長室の扉の前まで来ると、ファウスタは気持ちを落ち着かせるために深呼吸をした。
そして意を決して扉をノックする。
「院長先生、ファウスタです。お呼びでしょうか」
「おお、ファウスタ。来たか。入りなさい」
院長のカニング先生は上機嫌らしく、嬉しそうに声を弾ませていた。
きっと満面の笑顔なのだろう。
「失礼します」
ファウスタは扉を開けて入室した。
そして一瞬、固まった。
院長室の来客用の長椅子に、満面の笑顔の院長と、白髪の老紳士が向かい合って座っていた。
上流階級の服装に身を包んだ白髪の老紳士は、やはり透明な青い煙のようなものを纏っている。
そして老人かと思ったら、もう少し若い顔も重なって見える。
院長にも他の人にも老紳士の姿は見えているので、幽霊ではないのだろうが、ふつうの人とは明らかに違う何かだ。
院長は長椅子から立ち上がると、ファウスタを老紳士に紹介した。
「この子がファウスタです。さ、ファウスタ、ご挨拶を」
「は、初めまして。ファウスタ・フォーサイスです」
ファウスタはただのファウスタで、孤児院に来る前は姓がなかった。
名前が無い子や、呼び名はあっても姓が無い子は、孤児院に入居が決まったとき聖職者に正式な名付けをしてもらう。
フォーサイスという姓は、孤児院に連れて来られたファウスタの唯一の持ち物だった本の作者の姓だ。
正式な名付けだが、どんな名前にするかは聖職者の気分で、わりと適当なのだ。
「私はマークウッド辺境伯の屋敷で家令を務めております、ブラッド・アルカードという者です」
白髪の老紳士は立ち上がると自己紹介をした。
一通りの挨拶をすませると、三人は長椅子に座った。
ファウスタは院長の隣、老紳士アルカード氏と向かい合う位置に座るよう指示された。
院長がウキウキした声で本題に移る。
「ファウスタ、お前は幸運だ。マークウッド辺境伯がお前をメイドとして雇ってくださるそうだ。こんな立派な就職先は滅多に無いぞ。おめでとう!」
「え?!」
それは青天の霹靂。
人生の大変化を突然に告げられ、ファウスタは思考が追い付かず頭の中が真っ白になった。
アルカード氏が、青い煙を纏った姿で、ファウスタににっこり笑いかける。
「当家の主人は昨日この孤児院を見学し、あなたの様子をご覧になりました。そして当家のメイドとして申し分ないと判断されました。すぐにでも働いて欲しいとお望みです」
「お、お断りします!」
ファウスタは麻痺した頭で、反射的に拒否した。
それは生存本能、夜の闇を恐怖する人間としての本能だったかもしれない。
上機嫌だった院長の顔は、一変、怒りで紅潮した。
「ファウスタ、自分が何を言っているのか解っているのか」
院長は眉を吊り上げ、目を三角にして怒りに声を震わせた。
「理由をお聞かせ願えますか?」
アルカード氏はおだやかな声でファウスタに尋ねた。
「あの……」
ファウスタは、正直に言うべきかどうか、迷い、迷い、頭の中がぐるぐるした。
この人は人間じゃないから嫌です、などと言っても、院長には見えないのだから信じてもらえないだろう。
うかつに正体を暴くことで、人間ではないアルカード氏を怒らせてしまったとしたら、その先にどんな仕返しが待ち受けているかも解らない。
何か上手い言い訳はないか、ファウスタは頭をフル回転させながら、アイディアを探すかのように目だけを動かして院長室の中を見回した。
壁に飾られている肖像画が目に入った。
この孤児院の創設者パトリシア王女の肖像画だ。
詰襟の青色のドレスの王女はいつもと変わりなく、優しく知的な微笑みを浮かべている。
知恵者だったというパトリシア王女の肖像画に、心の中で祈ってみたがご利益はなく、何の言葉も浮かんでこなかった。
「正直に答えていただいてかまいません」
老紳士は優し気な笑顔でファウスタを促した。
ファウスタが口ごもっていると、院長はイライラした様子で口をはさみ始めた。
「ファウスタ、お前はもう孤児院を出なければならない年だ。生きていくには仕事を見つけねばならない。だがこのご時世、お前のような孤児が仕事を見つけるのは非常に難しいということは理解しているかね。貧民街で野垂れ死にたくはなかろう」
ファウスタがメイドになることを断ったのは、価値を理解していないためと思ったのか、院長はいかに上等の仕事なのか、いかに幸運なのかを説いた。
「大貴族のお屋敷で働けるのだぞ。下級貴族のお嬢様が働いても申し分ない上等の職場だ。お前にはこの価値が解らんのか? 上等な職場で働ける機会など、これを逃したら二度とないぞ!」
院長の剣幕に、アルカード氏はおだやかな声で横やりを入れた。
「院長、いきなり人生が変わる話をしたのです。突然の話に戸惑うのは当然のこと。考える時間は必要でしょう」
「ま、まあ、それもそうですな。おっしゃるとおりです」
院長はアルカード氏の機嫌を損ねることを気にしてか、相槌を打った。
「当家は今、人手が足りておりせん。しかし当家の主人は気難しい方で、闇雲に使用人を雇うことはできません。ですから主人の眼鏡にかなったあなたには、すぐにでも来て欲しいのです」
「それはお困りでしょう。すぐにでもこの子をお連れください」
院長はファウスタの意向は全く考慮せず、もみ手でアルカード氏に即答した。
(ああ、寄付金をたっぷり貰ったんだ……)
全面的にアルカード氏に賛成する院長の態度で、ファウスタは状況を察した。
孤児のファウスタが、お金の力に勝てるわけがない。
どんな上手い言い訳をしようが、院長はアルカード氏の味方をするだろう。
「そこでファウスタさん、一つ提案があります」
アルカード氏は優しく微笑んだ。
「まずはひと月ほど当家で働いてみてはどうでしょう。ひと月の間に働きながらお考えいただいて、そのまま働き続けるかどうかの正式なお返事はひと月後としましょう。ひと月の間にこちらも人手の補充に努めます。いかがですか?」
「素晴らしい提案です! ぜひそうさせていただきたい!」
院長はファウスタそっちのけで、アルカード氏の提案を勝手に了承した。
そしてファウスタが急展開に対応できず口をパクパクさせているうちに、院長とアルカード氏の間で話はトントン拍子に進んでいった。
猟師の前に飛び出した野兎のように、ファウスタはあっという間に追い込まれた。
そもそも外堀は寄付金でガッチリ埋められていたのだから、最初から逃げ道なんてなかったのだ。
院長室の壁に飾られたパトリシア王女の肖像画のいつもと変わりない微笑みが、何故か今日は自分を憐れんでいるように見えて、ファウスタの気分は深い海の底に沈んで行った。
「ファウスタ、どうしたの? 大丈夫?」
「叱られたのか?」
悲愴な顔で院長室から退出したファウスタが居間に戻ると、ジゼルとピコが心配そうに話しかけてきた。
「なんか、……仕事が決まったみたい」
「それって……」
ファウスタの暗い顔を見て、ジゼルは悪い知らせを予想した。
「もしかして工場の仕事?」
「ううん、メイドらしいけど……」
「メイド! 良かったじゃない!」
ジゼルは両手をパン!と打ち鳴らした。
「おめでとう! でもどうしてそんな顔? メイドに決まったなら良い話でしょ」
「なんだか……雇い主が……変な感じで……」
ファウスタはどう説明していいか迷って、言葉を濁した。
「雇い主の名前は?」
ピコが眉間に皺を寄せながら、ファウスタに質問した。
「マークウッド辺境伯って言ってた」
「ああ、解った。そういうことか」
ピコは一瞬で全て理解したかのように頷いた。
「ピコ、どういう意味よ」
ジゼルが問うと、ピコは説明をした。
「マークウッド監獄って聞いたことない?」
「北方にある監獄よね。凶悪犯が送られる怖い監獄で、拷問部屋があって、幽霊が出るっていう。もしかしてマークウッドってそのマークウッド?」
「そそ、そのマークウッド監獄ってマークウッド辺境伯の領地にあるんだ。元は戦争時代に要塞だったマークウッド辺境伯の城」
「要するに、怖い貴族ってこと?」
ジゼルが結論を急ぐと、ピコはさらに説明した。
「監獄もそうだけど、マークウッド辺境伯はお屋敷も魔物の巣窟って噂があるんだ。王都屋敷もゴシップ誌に『お化け屋敷』って何度か書き立てられてる」
「王都にお化け屋敷があるの?!」
ジゼルが目を見開いた。
イングリス王国の王都タレイアンの教会区に、このラシニア孤児院は建っている。
自分たちが何年も住んでいる都市に、魔物の巣窟があったことに驚いたのだ。
「幽霊が住み着いてるとか、魔女が空を飛んでたとか、怪物の声がしたとか。真相は謎だけど、怪奇現象が原因で使用人が何人も辞めてるらしい。辺境伯自身も悪魔卿ってあだ名で呼ばれてる」
「その悪魔卿のお化け屋敷にファウスタは雇われたのね」
ジゼルは苦笑いした。
「それは確かに……『変な感じ』の雇い主ね」
「でもファウスタなら問題ないんじゃないの? 幽霊は平気なんだろ?」
ピコは淡々と現実を語った。
「マークウッド辺境伯って財産家だから就職先としては優良だよ。時代の波に乗れずに破産する貴族が増えてるのに、マークウッド辺境伯は遊戯カードを売り出して大儲けしたんだ。貴族が商売なんてって最初は叩かれたらしいけど、先見の明があったって事。奇怪な噂もマークウッド辺境伯の成功に嫉妬する貧乏貴族たちのやっかみじゃないかって言われてる。節約のために使用人の数を減らすようなケチな弱小貴族じゃないから、マークウッド辺境伯のお屋敷に就職できるなら安泰だよ」
「つまり大金持ちの有能貴族で就職先としては最高ってことね。欠点は怪奇現象」
ピコの長い説明を、ジゼルが一言でまとめた。
「怪奇現象が本当だとしても、それ以外に欠点が無いなんて、ほぼ完璧じゃない。ファウスタ、あなた幸運よ!」
「そう、なのかな……?」
「幽霊だろうが怪奇現象だろうが、無視して気にしなければいいのよ。無視で全て解決よ」
ピコとジゼルの話を聞いて、ファウスタの思考は嵐の海に投げ出された小舟のように揺れ、ひっくり返ったり流されたり戻されたりした。
確かに幽霊よりも、人間じゃないよりも、工場で背中が曲がるほうが怖いかもしれない。
住む家もなく食べるものもなく貧民街の浮浪児として朽ち果てるよりは、たとえ魔物がいようと大金持ちのお屋敷のメイドとして生きたほうが幸福かもしれない。
悲観するほどの状況でもないような気がしてきた。
家令であるアルカード氏が、普通の人間ではない、どちらかというと幽霊寄りの存在だったので不安が大きかったが、ピコの話でマークウッド辺境伯は実在の貴族であることが解った。
少なくとも勤め先は墓場の幻ではない、現実の貴族の屋敷なのだ。
雇い主は幽霊ではなく、実在の富豪貴族なのだから、給金も支払われるだろう。
たとえ悪魔卿と呼ばれていても、国から年金をもらっている実在の上位貴族なのだから、国から信用されている雇い主と言える。
「まあ、もう決まっちゃってるし、何を言っても今さらなんだけど」
ファウスタはいまいち釈然としない、魂の抜けたような顔で、ぼそぼそと話した。
「明日の朝、お屋敷から迎えが来るんだ。だから明日でみんなとはお別れなの」
「ええっ?!」
「明日?!」
この急な予定にはさすがにジゼルもピコも驚いて、顔色を変えた。