19話 魔法陣と幽霊
「この子はファウスタ。守護霊様がご推薦くださった霊感少女なのだよ」
マークウッド辺境伯夫妻は久しぶりに顔を見せた娘に、健康を気遣ういくつかの言葉をかけた。
そして彼女にファウスタを紹介し、ファウスタにも彼女を紹介した。
「ファウスタ、この子が私たちの娘オクタヴィアだ」
オクタヴィアはファウスタより頭半分ほど背が高く、高価なお人形のようなレースとフリルに飾られたふんわりしたドレスを着ていた。
大抵の少女たちがそうであるように髪は垂らしていて、顔にかからないようにリボンで整えている。
うねる黒髪に、警戒心の強い猫のようなきつい顔立ち、冷たい灰色の目。
そして頭上に燦然と輝き、黄金の光を放つ王冠のような何か。
「お初にお目にかかります。ファウスタ・フォーサイスと申します」
王冠のような何かに気を取られながらも、ファウスタは挨拶をした。
「私はオクタヴィア・ステラ・ファンテイジ」
オクタヴィアは威風堂々と名乗り、そして少し哀れみを含んだ優し気な表情でファウスタに言葉をかけた。
「あなたの話は聞いているわ。霊視の才があるのですってね。でももし何か怖いものがいたら無理しなくていいわ。霊視に失敗しても給金はきちんと支払うように私が言ってあげるから安心しなさい」
「ありがとうございます」
(なんてお優しいお方なのかしら! まるで王女様のよう!)
ファウスタはオクタヴィアの優しい言葉に感激した。
給金の保証をしてくれる部分が特に感動的だった。
まだ銅貨一枚すら持っていないファウスタにとってお金の話は重要なのだ。
(お嬢様のご期待に応えられるように頑張って働くのだわ)
「それで……どうしてユースティスがいるのかしら?」
オクタヴィアはファウスタから視線をユースティスに移し、訝し気に眉を歪めた。
「彼はオズワルドの代理なのだよ」
マークウッド辺境伯が説明した。
「ご興味がおありなら、お兄様がご自分でいらっしゃればいいのに」
この場にいない兄への不服を述べ始めたオクタヴィアを、辺境伯夫妻は壊れ物を扱うかのように慎重になだめた。
「まあ、その、なんだ、……あの子も色々あるのだよ」
「もしあなたの気に障るなら……別の方法を考えてもいいのよ。ええ、無理強いするわけじゃないの」
「恐れながら、お嬢様」
美貌の侍女ミラーカがオクタヴィアに進言した。
「オズワルド様もご心配なさっておられるのでしょう。オズワルド様は杞憂で体調を崩されるお方。オズワルド様のご健康のためにも見学を承諾なさった方がよろしいかと愚考いたします」
「……そうね。あなたの言うとおりね、ミラーカ」
ミラーカの言葉にオクタヴィアは一瞬だけ思案気な表情を見せ、そしてあっさり承知した。
「お兄様は気になる事があるだけでお腹が痛くなるんですもの。ここで断って、またお兄様が腹痛で倒れたら、まるで私が意地悪したみたいになるわね。いいわ、ユースティスに見学を許可します」
「ご配慮に感謝いたします」
ユースティスは恭しくオクタヴィアに使用人の礼をした。
その様子を見てマークウッド辺境伯夫妻はほっとした表情になり、互いに目と目を見交わした。
そしてミラーカに無言の感謝の視線を送った。
「始める前に、お父様とお母様はあちらのソファに座っていただけるかしら? 以前のような事故を防ぎたいの」
「そうね。そうさせていただくわ」
ヴァネッサは即答して、少し残念そうな顔をするマークウッド辺境伯を促してソファに座った。
夫妻がソファに腰かけたことを確認すると、オクタヴィアはファウスタに言った。
「では霊視を始めてちょうだい」
「はい」
ファウスタはぐるりと部屋を見回した。
その部屋は居間のような部屋だった。
お嬢様の部屋と聞いて、ファウスタは寝台や箪笥がある屋根裏部屋のような個人部屋の豪華版を想像していた。
しかし寝台も箪笥も無い、読書やおしゃべりのためにあるような部屋だった。
深紅で統一された部屋に、優美な家具が並んでいる。
部屋の中央には低いテーブルがあり、ゆったりくつろげそうなソファがそれを囲む。
窓際には個人用の食卓のような小さめの高いテーブルと椅子。
部屋の隅には引出し付の物書き机。
壁には本棚や飾り棚が並び、飾り棚に少女人形が何体も飾られていなければ書斎のようでもあった。
ファウスタたちが入って来た扉の他に、もう一つ、別室に続いているのだろう扉がある。
暖炉装飾の上には、花を模した形の優美なランプや、金色の細かい装飾が施された置時計、陶器製の貴婦人の人形たち。
暖炉の前にもソファがあり、飲み物や本を置くのに丁度良さそうな小さな低いテーブルもある。
そして床には植物の模様が描かれた深紅の絨毯。
淡い白色に発光している巨大な魔法陣のようなもの。
(この魔法陣は……飾り……じゃないのかな?)
それは本で見た魔法陣のような形と模様だった。
円の中に大きな六芒星が二重に描かれ、中央の六芒星を囲むようにさらに小さな六芒星が六つ。
そして模様のように、イングリス語ではない謎文字が書かれている。
神々しい巨大な着色硝子や、氷の結晶を集めたようなシャンデリアを見て、地獄のような廊下を通って来たファウスタには、この輝く魔法陣も装飾の一つのように思えてしまう。
だが装飾にしてはやはり少しおかしい気がした。
着色硝子やシャンデリアの煌めきは、窓からの陽光により輝いていることが解ったが、この魔法陣は床から少し浮いた空中に描かれていて光源が解らない。
天井を見上げてみたが、上から光が差し込んでいる様子はない。
しかしその部屋全体に広がる巨大な魔法陣は、まるで上から注ぐ光を反射しているかのように淡く白く発光している。
ファウスタの足元にも魔法陣の模様の一角があるが、反射鏡のようなものはなく、何の感触もない光だ。
ファウスタはさらにぐるりと周りを見回した。
魔法陣の他におかしいものといえば、オクタヴィアの頭の上に浮いている金冠、それから昨日から何度か見かけているお姫様の幽霊。
(あのお姫様、今日は此処にいるんだ)
それから、ちゃっかり部屋に入り込んでいる、黒いカラス人間とティム。
ティムはカラス人間に脇をつかまれ囚われている恰好だが、自分のその状態をあまり気にしている様子はない。
むしろカラス人間が柱か柵であるかのように、体重を預けて寄りかかりラクそうな姿勢をとっている。
ティムはいつの間にか小さな拡大鏡のような、持ち手の付いた片眼鏡を右目に宛てていた。
そして観劇に興じる子供のようなわくわく顔でファウスタのほうを見ていた。
(あれが天眼鏡なのかしら)
マークウッド辺境伯の話では、天眼鏡は最後は守護霊に取り上げられていた。
(次にティムさんとお話しできたら聞いてみよう)
「どう? 何か視えて?」
オクタヴィアがファウスタに問いかけてきた。
ソファに座っているマークウッド辺境伯夫妻は固唾を呑んでファウスタとオクタヴィアのやり取りを見守っている。
オクタヴィアの少し後ろに控えているミラーカも、扉の付近に立っているユースティスも無言で様子を見守っていた。
「はい、あの……」
ファウスタが答えようとしたその時、視界の端に黒いものが見えた。
嫌な感じがして、とっさにファウスタは振り向き、その黒い物を見た。
ファウスタのその行動に、皆が訝し気な顔をして注目する。
「そっちに何かあるの?」
「はい。何か嫌な、黒いものが……」
オクタヴィアの問いに、ファウスタは黒い物の様子を観察しながら答えた。
煤の塊のようなものが壁から滲み出ていた。
そしてその黒いモヤモヤしたものは、壁をすり通り抜けて出て来る蛇のように、壁から部屋の中に突き出て来た。
そして空中をゆっくり泳ぐように、のろのろと、床に平行に進もうとしていた。
――パキン!
壁から抜け出した黒い蛇の幽霊のような物が、突然弾け飛んで音が鳴った。
雷に撃たれたかのように、黒いモヤは一瞬で弾け、霧散して消えた。
黒いものが弾けた瞬間、床が光った気がした。
ファウスタはすぐに足元の魔法陣を見たが、何事も起こっていない。
見間違いだったのか、本当に光ったのか、一瞬のことだったのでファウスタには判別がつかなかった。
「叩音現象なのだよ!」
マークウッド辺境伯はソファから飛び上がるように立ち上がり、まるで隠されている誕生日プレゼントを探す子供のように、期待を込めた眼差しで部屋の中をきょろきょろと見回した。
マークウッド辺境伯のその行動にオクタヴィアは呆れたような半目を向けた。
「あの、すみません、今の音は、黒いモヤモヤが弾けた音だと思います」
ファウスタはどこからどう説明すれば良いか迷ったが、まずは目の前で起こった現象についてそのまま説明する事にした。
「黒いモヤモヤ?」
オクタヴィアが訝し気に眉を顰める。
「はい、あちらの壁から……」
そうファウスタが壁を指差し、説明しようとしたとき、またその壁から黒いものが滲み出てきた。
「あっ、また出てきました。またさっきの音が鳴るかも」
壁から滲み出した黒いものが、壁から抜け出すように部屋の中に伸び始める。
――パキン!
そしてまた何かに撃たれたように、細い枯れ枝が折れるような音を立てて弾け飛び、霧散した。
「おおお!」
マークウッド辺境伯は雄叫びを上げた。
「ファウスタの予言が的中したのだよ!」
「あなた本当に何か視えているの?!」
オクタヴィアは驚いたように目を見張り、ファウスタを見た。
ファウスタは今度はちゃんと足元の魔法陣も視ていた。
やはり一瞬だけ、まるで小さな雷のように、魔法陣に光が走った。
「床に描かれている魔法陣が関係あると思います」
「おおお!」
「まじか!」
ファウスタの言葉に、マークウッド辺境伯とティムが同時に声を上げた。
「この部屋に魔法陣があるのかね?! どこにあるのかね!」
「魔法陣どこ?! どこ?!」
「魔法陣はお部屋の床いっぱいに、白い光で描かれています。その真ん中のテーブルやソファは魔法陣の中に入っています」
ファウスタの説明にマークウッド辺境伯は自分の足元を見た。
「ここにあるのかね!」
「はい、閣下は魔法陣の中に入っていらっしゃいます。壁際や隅っこは入ってませんが、この部屋には魔法陣が大きい絨毯みたいに広がっています」
傍観していた美貌の侍女ミラーカは、無言のままユースティスに問いかけるように視線を送る。
ユースティスはミラーカの視線にやはり無言で首を傾げてみせる。
「ねえ、その魔法陣、絵に描いてもらえないかしら?」
オクタヴィアがファウスタにそう提案すると、ティムとマークウッド辺境伯がまた同時に声を上げた。
「そうか! 絵に描いてもらえばいいじゃん! 賢いな!」
「名案なのだよ! オクタヴィア、お前はなんと賢い子なのだ!」
「どんな魔法陣か解ればこっちでも探せる」
「図案が解れば、私が文献を調べよう!」
手持ちの片眼鏡を右目にかざしているティムと、右目に片眼鏡をかけているマークウッド辺境伯が、同じような反応をして同じような事を言う様子に、ファウスタは血のつながりを感じ、家族というものを少し知った気がした。
(家族は似るって本当なのね。髪や目の色や顔だけじゃない。色んなところが沢山そっくりなのだわ)
「では早速、描いてもらえるかしら?」
「あの、すみません、私、絵なんて描けなくて……」
ファウスタは大役に恐縮して焦った。
孤児院で書き取りの勉強をした紙の裏に落書きをしたことはあるし、庭の地面に木の枝や石で落書きをしたこともある。
でもファウスタは絵が下手なのだ。
年下のパメラとエミリアはよくお絵描きをしていて、凄く上手にお姫様の絵を描いていた。
でもファウスタにはパメラやエミリアみたいな絵を描く才能が全然無いのだ。
「上手に描けなくてもいいのよ。大体解ればいいの。紙とペンはここにあるわ」
オクタヴィアは物書き机の引き出しを開けて紙を取り出した。
「画板が必要ではなくて?」
今までずっと黙ってソファに座っていたヴァネッサが口を開いた。
「スケッチをするなら、ペンより木炭の方が描きやすいでしょう。紙も画用紙にしたら良いわ」
「そうね。お母様のおっしゃる通りだわ。画材を使った方が良いわね」
二人の会話を聞き、マークウッド辺境伯が即座にユースティスに指示した。
「ユースティス、外にいるルパートに画板と画用紙と木炭を持って来るよう伝えてくれたまえ」
「畏まりました」
ユースティスが扉を開け、外に控えている使用人たちに用件を伝える。
「ねえ、黒いモヤモヤって悪魔なの? 魔法陣も悪魔が描いたものなのかしら?」
オクタヴィアがファウスタに質問した。
「悪魔の仕業かどうかは私には解らないです……」
ファウスタはお姫様の幽霊を視た。
「でも幽霊みたいな人はいます」
「幽霊!?」
「おおお!」
オクタヴィアとマークウッド辺境伯が同時に声を上げた。
ティムは今度は声を上げず、はっとした顔で手持ちの片眼鏡をかざし、部屋中を念入りに見回し始めた。
「はい、あの、ちゃんと人間みたいなので、幽霊だと思います。動物の頭とか羽根とか牙とか、そういうのは無いです」
「その幽霊が私に取り憑いているの?」
オクタヴィアの問いにファウスタは首を傾げた。
「すみません、取り憑いているとは、どういうことでしょうか」
「私に幽霊がくっついていて離れないって事よ」
「幽霊はくっついてはいないです」
「そうなの?!」
ファウスタの答えに、オクタヴィアは少し意外そうな顔をした。
「はい、あの、幽霊は今、暖炉の近くに立っていらっしゃいます。お嬢様にくっついてはいないです」
「じゃあ私じゃなくて、この部屋に取り憑いているのね」
「いえ、部屋にもくっついてないと思います」
ファウスタは昨日から何度かこの幽霊に出会ったことを思い出す。
この幽霊はわりと自由に屋敷の中を動き回っている気がした。
「私は昨日、あの幽霊を他の場所でも見ました。あの幽霊はお屋敷の中を自由に動き回っていると思います」
「素晴らしい!」
マークウッド辺境伯が目を輝かせ感嘆の声を上げた。
オクタヴィアはそれにチラリと冷めた視線を向けたが、またファウスタに向き直って質問を続けた。
「他の何処で見かけたのかしら?」
「はい、昨日の昼間に地階の廊下と家政婦長室で見かけました。あと夜に使用人階段の三階のあたりにいました」
「それが本当なら、確かに自由に動いてる感じね」
オクタヴィアは暖炉の方を見やりつつ、思案するような顔をした。
そして何か思いついたように顔を上げると、ファウスタに向き直った。
「その幽霊も絵に描いてもらえるかしら?」
「賛成なのだよ!」
オクタヴィアの提案に、マークウッド辺境伯も賛同した。
ファウスタは難問を課せられ、果てしなく深い海の底に沈んだ。
給金の保証をしてくれる心優しいお嬢様のために誠心誠意働きたいという気持ちは大きいのだが、如何せん絵が下手なファウスタには難問すぎた。
「すみません、私、あんな難しいもの描けないです……」
「どんな感じなのか特徴が解ればいいの。画家みたいに凄い絵を描けって言ってるんじゃないのよ。大体でいいの」
「……でも、あの、私すごく絵が下手なのです」
「下手でもいいわ。そうね……」
オクタヴィアは言葉を切って、少し思案気な顔で目を伏せ、そして再び顔を上げるとマークウッド辺境伯の方を振り向いた。
「お父様、ファウスタが絵を描いてくれたら、その絵をきちんとした値段で買い取るというのはどうかしら?」
「おお、いいとも。もちろん全部私が買うのだよ」
「一枚百ドログくらいでいいかしら?」
「いいとも、いいとも、安い買い物なのだよ」
マークウッド辺境伯はオクタヴィアにほくほくと答えた。
オクタヴィアは父親の了承が取れると、ファウスタに向き直った。
「魔法陣の絵と幽霊の絵、二枚で合計二百ドログ支払います。どう? 描いて貰えるかしら?」
「え、ええっ!」
ファウスタは提示された値段に吃驚して、はしたない声を上げてしまった。
孤児院で育ち、自分のお金を持ったことのないファウスタには、お金の価値がまだよく解らない。
ファウスタにも価値を把握できるお金は、硬貨である銀貨と銅貨までだ。
紙幣であるドログという単位は漠然と、大金というイメージなのだ。
一ドログだけで大金に思えるのに、二百ドログとはどれほどの大金なのか。
二百ドログの報酬を貰った未来の自分が、紙幣の山の上に寝そべり、紙幣の束を扇子のようにビラビラ振っている姿を想像してしまい、ファウスタの心は物欲の夢に大きく揺さぶられた。
この時のファウスタはまだ知らなかったが、紙幣二百枚程度ではファウスタが上って寝転がれるような山にはならない。
それに十ドログ紙幣が存在するので、二百ドログが支払われるとしたら実は紙幣二十枚なのだ。
ちなみにこの屋敷の見習い女中は月給平均八十ドログである。
無名の子供の下手絵の値段としては二百ドログは破格と言えるが、貴族の遊興費としては大した金額ではない。
算術は初歩の初歩しか知らないファウスタには二百という数字はとても沢山に思えたし、その単位がドログなら尚更だ。
夢のような大金に思えた。
「絵を描くだけでそんなにお金が貰えるんですか?!」
大金の話に気が動転したファウスタは、はしたない質問をした。
「ええ、仕事にはきちんと報酬を支払うわ」
オクタヴィアは威厳のある態度で優雅に微笑んだ。
頭上に輝く金冠も相俟って、ファウスタにはオクタヴィアが世界の女王であるかのように見えた。
「私、本当に絵が下手なんです。それでも良いんでしょうか?」
「下手でもかまわないの。描いてくれればいいのよ。そしたらちゃんと報酬を渡します。どう? 仕事を受けてもらえるかしら?」
ファウスタは自分の絵の下手さを全世界に向けて謝罪したい気持ちに襲われたが、その謙虚の大波の中を物欲の蒸気船が力強く突き進んだ。
「はい! やります! 頑張ります!」
大金に目がくらんだファウスタは絵の仕事を承諾した。
(これは本当に現実なの?! 私は夢を見ているの?!)




