18話 悪魔憑きのオクタヴィア
時間は少し巻き戻る。
朝食前の時間、マークウッド辺境伯令嬢オクタヴィアは、母親であるマークウッド辺境伯夫人ヴァネッサの侍女ミラーカの来訪を受けていた。
侍女ミラーカが持って来た言伝は母親のものだけではなく、父親のものも含まれていた。
オクタヴィアは溜息をついた。
「霊視だなんて、お父様はまた騙されているんじゃないかしら」
うねる黒髪にきつい顔立ち、冷たい灰色の目。
今年十四歳になるオクタヴィアは年相応の可憐さがあるとはいえ、悪魔卿と揶揄される父親、魔女と陰口を囁かれる母親、双方の容姿をしっかり受け継いでいた。
「今回は旦那様のご友人の介入はありませんので、お嬢様がご心配なさるような事はないかと存じます」
侍女ミラーカは答えた。
ミラーカは月光を紡いだような白金髪に、暁の空のような紫色の瞳。
母ヴァネッサの一番のお気に入りの美貌の侍女だった。
オクタヴィアもこの美貌の侍女には少し弱い。
絵画から抜け出した詩神のように優雅な容姿の彼女は、少女が憧れる美しさ全てを備えている女性だったからだ。
「お母様は、本音ではどう思われているのかしら?」
「奥様はそもそも霊を否定なさっておられるので、守護霊にも霊視にも否定的でいらっしゃいます」
「まあ、そうよね」
「ですが、それで旦那様の気が晴れるならとお考えです」
「……そういう事ね」
オクタヴィアは思案気に言った。
パキン、パキン、と枯れ枝が折れるような音が空間に鳴った。
その叩音現象にオクタヴィアは全く動じず、ミラーカも何食わぬ顔だった。
「お父様のご心労は私も承知しているわ。お父様が元気になられるなら、少しくらいご趣味に付き合ってさしあげてもいいとは思っているの。でもね……」
オクタヴィアは不快そうに顔を歪めた。
「やっぱり霊能者に会うのは嫌よ。気持ち悪いもの。変な人が部屋に入って来るなんて汚らわしくてゾッとするわ」
「霊能者は子供です。お嬢様より年下の少女です」
「えっ?!」
オクタヴィアの不機嫌な表情が吹き飛び、驚きの表情に変わった。
「子供なの?!」
「十二歳の少女です」
「でも後見人として気持ち悪い男が付いて来るんでしょう?」
「いいえ。少女に後見人はおりません。彼女は天涯孤独の孤児です」
ミラーカはその美貌に憂いの表情を浮かべた。
「旦那様は孤児の少女に霊視を依頼なさいました。お嬢様が霊視を承諾して下さらなければ、少女は仕事を失い路頭に迷う事となりましょう」
「そんな……」
オクタヴィアの脳裏に、粗末な服を着た少女が悲しそうな顔で街をとぼとぼ歩く光景が浮かんだ。
「どうか哀れな少女にお慈悲を。彼女に仕事を与えてやってくださいませ」
「わ、解ったわ。許可するわ」
「寛大なるご配慮をありがとうございます。少女も仕事を得て喜ぶことでしょう」
「貴族として当然のことよ」
オクタヴィアは誇り高く言い放ったが、すぐにまた顔を曇らせた。
「……でも小さい子にこの部屋は危ないわ。悪魔に吃驚して怪我をするかもしれない。お父様もお父様よ、道楽の神秘主義に可哀想な孤児を巻き込むなんて。自分の趣味に目がくらんで考えが足りてないんじゃないかしら」
飾り棚の少女人形が、ゴトリと、誰も触っていないのに動いた。
それでもオクタヴィアとミラーカは、何事も起こっていないかのように平然として会話を続けていた。
「旦那様は霊視の代償として、少女を使用人として雇い生活の保障をなさるおつもりです。少女も生きるために仕事を求めていますので、この霊視は双方に利益があります」
「その子は……他のもっと安全な仕事をしようとは思わなかったのかしら。悪魔がいる家なんて、子供は怖がるものじゃなくて?」
「このご時世です。孤児が仕事を求めても簡単には見つかりません。見つけられたとしても安全な仕事などないでしょう」
「嫌な世の中ね……」
「そのような子供たちを救うために旦那様は議会で発言しておられます」
「解ってるわ。お父様のお仕事は尊敬しているのよ。……神秘主義の事となると急に子供みたいになってしまう部分はどうにかして欲しいのだけれど……」
オクタヴィアは大人ぶった素振りで困り顔をすると、父親の欠点を嘆いた。
「その子もいくら仕事がないからって悪魔を霊視なんて……可哀想な子。此処に居るのは想像の悪魔じゃなくて本物なのに。吃驚してひっくり返ったりしなければいいけど」
「私がしっかりお世話いたしますのでご安心ください」
「貴女に任せるわ。お願いね、ミラーカ」
「はい」
また、パキン、と空間に叩音現象が起こる。
「悪魔は今日は大人しいですね」
ミラーカは部屋を見回して言った。
「一昨日くらいからわりと静かよ。暴れるのに飽きたのかしらね」
ペットの様子でも語るかのように、二人は悪魔について語った。
「一昨日ですか……」
ミラーカは紫色の双眸に思案の色を浮かべた。
「暴れたとしても、ナスティが居た頃に比べたら百倍マシだから。どうって事ないわ」
オクタヴィアは言いながら眉間に皺を寄せた。
そして大嫌いだった侍女ナスティについてまくし立てた。
「あの女、いきなり扉をバンッて開けてずかずか部屋に入って来てたのよ。悪魔は勝手に扉を開けないだけあの女よりお行儀が良いわ」
「まあ! ナスティはノックしなかったんですの?」
「ノックはしてたわ。でもノックして返事を待たずバッと扉を開けるのよ。本当にすぐよ。コンコン、バッ! なのよ。あの女、作法の形を真似っこしてるだけで意味を全然理解してなかったわ。家庭教師に習わなかったのかしらね」
オクタヴィアは思い出に苛立ち、腕組みをした。
「ナスティに比べたら悪魔なんて可愛いものよ。急に雑音を立てるからどっちも鬱陶しいけど。ナスティのほうが音が大きくてうるさかったわ」
「あれは私たちにとっても試練の時でした」
「そうよね! あなたたちも、あんなのと一緒で大変だったわね」
憧れの美しい侍女の同意を得て、オクタヴィアは少し調子づいた。
「ナスティに比べたら悪魔のほうが静かで可愛いわよ。悪魔なんて見えない小鳥みたいなものだもの。居ても全然気にならないわ」
「左様でございますか」
「あ、でも! ……まだお勉強は無理よ」
調子に乗りすぎて少し不味い発言をした事にオクタヴィアは気付いた。
両手を振り、待ってという身振りをする。
「お母様には悪魔がうるさくてまだお勉強できる状態じゃありませんって言っておいてね。ポラック先生にはもう少しお休みしていただいて」
「はい、承知しております」
小さな主人の意を汲み、ミラーカは使用人の礼をした。
「騒霊現象の中では大人でもお勉強に集中することは難しいでしょう。大抵の者は怯えてしまいます。心の弱い者は気が触れてしまうかもしれません」
「そうよね! この状況でお勉強なんて無理よね!」
オクタヴィアは嬉しそうに言った。
「私だって最初は吃驚したのよ。でもナスティがあまりに不愉快すぎて、霊現象なんてどうでもよくなっちゃったの。腹が立ちすぎて、怖がるのが馬鹿々々しく思えて来たのよ。あの女のせいで心が磨り減って、霊現象を怖がれる繊細さを失ってしまったんだわ」
悲劇の主人公であるかのように、オクタヴィアは少し芝居がかった身振りで、打ちひしがれているかのような表情をしてみせた。
「ですが、お嬢様、奥様は霊を否定していらっしゃいます。騒霊現象の正体は家鳴りと隙間風だとおっしゃられ、問題改善のためにお嬢様のお部屋の改修工事を考えておられます」
「ええっ!!」
たとえ事実であろうと、それが目の前で起こっていようと、霊など絶対に認めない母親の頑なさにオクタヴィアは辟易とした。
「あんなに吃驚なさっていたのに……」
「落ち着かれたら冷静なお考えが戻ったのです」
「ナスティが連れて来た悪魔が暴れるのよ。これは事実よ」
「はい、私もこれは何らかの霊現象であると思っております」
オクタヴィアの訴えにミラーカは寄り添い、そして優しく諭した。
「しかしこの科学の時代、霊現象を認めない人々の方が多いのもまた事実。科学の進歩した現代では、中世の時代に魔法や悪魔と思われていたものが科学的に解明されておりますから」
「科学で解明できてない事もあるのに……」
「ええ、もちろんです。それに旦那様は魔法や霊現象を信じておられます。旦那様はお嬢様の味方をしてくださるでしょう」
「そうね。お父様はきっと味方になってくださるわね」
オクタヴィアは冷めた目でそう言うと、小さく溜息を吐いた。
そして不服そうに眉を歪めた。
「……むしろ悪魔や幽霊が居なかったほうがお父様はがっかりなさるわ。お父様は家族と悪魔とどっちが大事なのかしら」
憤慨しはじめたオクタヴィアを、ミラーカは優しくなだめた。
「もちろんご家族を一番大切に思われています。だた普通より少し神秘主義に向ける熱意が多いだけですわ」
「家族の意見よりインチキ霊媒師の言うことを信じちゃう人よ……。普通の家なら破産してるわよ」
「旦那様はご趣味を事業に生かされ成功なさっておられます。失われる財よりも得ている財の方が大きいのですから、大変有益なご趣味です。利益があるからこそ奥様も旦那様のご趣味が多少行き過ぎても大目に見ているのですわ。それに……」
ミラーカは少しオクタヴィアに近づき、声を潜めた。
「世の中には女遊びに夢中になり家庭をめちゃくちゃにする紳士も多いのです。愛人が大勢いて腹違いの兄弟がごろごろ現れ金銭を要求してきたり、深く恨まれたりしている家に比べたら、インチキ霊媒師にちょっと騙されるくらい安いものです。旦那様のご趣味はとても平和的で品行方正です」
「そんなめちゃくちゃな家があるの?!」
「ええ、沢山ありますとも」
「どこの家? 私が知っている家もあるのかしら?!」
「はい」
ミラーカはさらにオクタヴィアに近づき、耳元でヒソヒソ呟いた。
「あの子の家ってそんな事になってるの?! 意地悪な子だから大っ嫌いなんだけど、親もおかしかったのね。不憫だとは思うけど全然同情できないわ。すっごい嫌な子なんですもの」
「他にも……」
ミラーカはさらにヒソヒソと、いくつかの貴族の名前を挙げた。
そして社交界で噂されるいくつかの事件について語った。
「最悪ね! 気持ち悪い! 馬鹿なんじゃないの?!」
「上位貴族にも素行の悪い者がおります。お嬢様もいずれ夜会にご出席なさるかと思いますが、充分にお気をつけあそばせ」
「ええ、気を付けるわ。夜会なんて興味ないから行きたくないけど」
「旦那様の神秘主義への熱意は欠点かもしれませんが、他の方々に比べたら大した欠点ではございません。とても真面目で良いお父様ですわ」
ミラーカは艶然と微笑んだ。
「騒霊現象が起こる部屋へ行くのだよ。ファウスタ、付いて来てくれたまえ」
朝食後のお茶の席から立ち上がりマークウッド辺境伯は意気揚々と言った。
ファウスタは「はい」と返事をして席から立ち上がった。
(いよいよ三階へ行くのね)
「閣下、万が一のことがあるやもしれません。私もお供させてください」
「閣下、私も参ります」
アルカードと、もう一人、エーテルを纏った従僕よりは格上らしき男性使用人が申し出た。
マークウッド辺境伯は少し戸惑いの表情を見せた。
「私は良いのだが……あまり大勢で行くと、オクタヴィアが機嫌を損ねそうで怖いのだよ」
「私はお部屋の外の廊下で待機いたします」
「なるほど。それなら問題あるまい。ルパートも廊下で待機でいいかね」
「はい、閣下」
エーテルを纏った男性はルパートという名らしい。
「よし、ではヴァネッサとミラーカも準備はいいかね?」
マークウッド辺境伯はヴァネッサと美貌の侍女ミラーカに問いかけた。
ヴァネッサは返事をすると席から立ち上がり、ミラーカを伴って一行に加わった。
「では行くのだよ!」
一同の先頭に立ちマークウッド辺境伯は勇ましく歩き出した。
ファウスタもそれに続いた。
(ネルさんは来ないのね)
ファウスタが後ろを振り返ると、吸血鬼のネルが胸のあたりで組み合わせた両手を握りしめ、熱いまなざしで見送ってくれていた。
アルカードがすっと一行の前に進み、居間の扉を開ける。
シャンデリアがぶら下がり、赤い絨毯が敷かれ、美術品が飾られる一階の廊下を一行は歩いた。
そして天井の高い広い空間に出た。
そこはまるで巨人の国の家のように広い空間だった。
吹き抜けの高い天井はレリーフで飾られ、今まで見た中で一番大きなシャンデリアが吊り下がっている。
床はチェス盤のように白と黒のタイルを組み合わせた模様だった。
伝説上の人物たちなのか、聖典に登場する聖人たちなのか、古代の服装をした人々の雪花石膏の彫刻が、壁に規則的に並んでいる柱に飾られている。
ファウスタは知らなかったが、そこはこの屋敷の玄関ホールだった。
その広い不思議な雰囲気の空間の奥には堂々とした大階段。
大階段を上った先には、教会にあるような着色硝子の大窓が威容を示し、そこが天上の神の国であるかのごとく光を放っている。
(まるで天国への階段みたい)
マークウッド辺境伯夫妻も使用人たちも、平然として彫像たちが見守る中を歩き、巨大なシャンデリアの下を通り、天上の光輝を目指して大階段を上っていく。
ファウスタだけが彫像たちの視線に動揺し、シャンデリアの下で首を縮め、大きな階段とその先にある七色の光溢れる空間に萎縮していた。
広くて大きく、全てが美しい空間で、ファウスタは巨人の国に迷い込んだ哀れな旅人や、神の国に至り人が変わって僧侶になってしまった冒険者の気持ちが少し解った気がした。
自分が広い広い世界の中のちっぽけな存在であることを思い知らされる。
大階段を上ると、そこは二階だ。
振り返って見ると、つい先程までファウスタを圧倒していた一階の風景が足元に広がる。
雲の上に昇り、地上を見下ろす気分だ。
(これが神たちが見ている風景なのね)
美術品や彫刻で飾り立てられていた絢爛豪華な一階とは違い、二階はすっきりした内装だった。
だが一階ほどではないとはいえ、壁のところどころには絵画があり、アクセントのように飾り棚が置かれている。
飾られている絵画や美術品は、一階のものよりぐっと怪奇色が強い。
異形の怪物たちが暮らす異世界の絵、魔女が空を飛び交う不気味な森の絵、雷に打たれ崩れ落ちる塔の絵、墓場で踊る骸骨たちの絵。
飾られている彫像も、ドラゴン、三つ首の魔獣、翼を持つ四つ足の獣、髪の毛が蛇の魔女など人外ばかりだ。
硝子扉の飾り棚には魔物や魔獣を題材にした細工品。
(天国の階段を上った先が、どうして地獄みたいな廊下なのかしら)
上下の順番が逆ではないのかとファウスタは内心首を傾げた。
地獄のような廊下を通り抜けて、三階へと続く階段を上る。
階段広場にはたっぷりとした遊びの空間があり、うねった階段には大きな窓から差し込む明るい光が溢れていた。
(……!!)
階段を上って三階に至ると、ファウスタは廊下に異様な人影を見つけた。
三階は二階に似たすっきりとした内装だ。
しかし二階のような地獄の要素は無い。
上等だが落ち着いた雰囲気がアルカードの家令室に少し似ている。
その廊下に、道を空けるように壁際に寄り、全身黒づくめの異形が立っていた。
(悪魔なの?!)
それはカラスの頭を人間の体にくっつけたようなカラス人間だった。
アルカードより更に頭半分ほど背が高い長身で、肩幅の広いがっしりした骨格。
真っ黒なケープ付きの長衣で頭から踝の辺りまでをすっぽり隠し、黒いつば広帽子、黒い手袋、黒い長靴。
肌が出ている部分がどこにもない、全身黒づくめだ。
顔は仮面なのだろうか、目の部分は光沢のある丸い硝子のようで、まるで丸眼鏡を掛けているようだった。
そして顔の下半分は大きく付き出した鳥の嘴。
遠目にぱっと見た瞬間、ファウスタはそのカラス人間が悪魔かと思った。
その一瞬の後、そのカラス人間と一緒にティムが居ることに気付いた。
それを見て一気にファウスタは気が抜けた。
(ティムさんのお知り合いなのね)
ティムは黒づくめのカラス人間に、後ろから脇を抱えられて立っていた。
あるいは脇を抱えられて、ぐったりとぶら下がっていた。
ティムはまるで貴族のお坊ちゃまのような小綺麗な服装をしていた。
靴もサンダルではなくブーツだ。
ボサボサの髪は少し落ち着いていて、整えられた雰囲気がある。
ティムはファウスタ達の一行に気付くと、突然わぁわぁ叫び出した。
そして黒づくめのカラス人間から逃れようとじたばたした。
「おい、アルカード! こんな監視を付けやがって! 解放を要求する! 俺の自由を返せ! ごめん、これから気を付けるから! もう許して!」
(あのカラス人間はアルカードさんのお友達?)
ファウスタはアルカードのほうを見た。
アルカードは何も聞こえていないかのようにすまし顔で歩いている。
ファウスタは次に、すぐ近くを歩くユースティスを見た。
ユースティスはファウスタの視線に振り向き、何だか楽しそうな微笑みを返してきて、片目でパチンと瞬きした。
ユースティスの態度に、ファウスタは暗黙の了解のようなものを察した。
マークウッド辺境伯夫妻には、ティムだけではなくカラス人間の姿も見えていないようだ。
エーテルを纏っているのでティムが見えているはずのルパートとミラーカも、何事も起こっていないかのように平然と歩いている。
(魔物の皆さんはご承知の事なのね)
「ユースティス、お前のセンス最悪! サンダル返せ!」
ティムがそう言うと、ユースティスはティムに向けて無音で指を弾いた。
するとユースティスの指から、指先ほどの大きさの青白い玉がひゅっと飛んで、ティムの額に命中してパチンと弾けた。
「痛っ! おい、今やったのユースティスだろ! アルカード助けて! ユースティスがエーテルでデコピンする!」
アルカードがちらりとユースティスを振り返り、窘めるような視線を向ける。
ユースティスは無言で謝罪するかのようにペコリと頭を下げた。
(ユースティスさんが飛ばしたのエーテルだったのね。エーテルにあんな使い方があったなんて……)
ネルがユースティスを恐れていた理由がファウスタにも解った気がした。
ユースティスは部屋を満たすほどのエーテルを持っていたのだ。
指先程の量でデコピン一回できるなら、部屋を満たすほどの量のエーテルがあれば何千回、いや何万回もデコピンが出来るだろう。
(なんて恐ろしい力なの)
ファウスタは身震いした。
「ファウスタ! 助けて!」
ティムが呼びかけて来たが、ファウスタは皆に倣い無視する事にした。
(ティムさんのことは見えてないふりしなきゃだから、無視するしかないよね)
ネルが語ってくれた、ティムが偉いという話は一体何だったのかとファウスタは訝しんだ。
ティムはイングリス王国で一番偉い魔物だとか、ティムに逆らったら生きていけないとか。
一番偉い魔物だというなら、この状況は何なのだろう。
(あら?)
ファウスタは廊下の壁に違和感を感じて、振り返った。
そこには飾り棚があるのだが、そこだけ壁紙が薄く黒ずんでいた。
この屋敷の中はどこもかしこも磨き上げられているのに、その飾り棚の周りだけが煤けている。
(お掃除できない壁紙なのかしら)
壁紙のその美しい模様、優雅な曲線で描かれた植物、果実を嘴に銜えた小鳥たちの姿にファウスタは思わず見惚れた。
(壁紙まで素敵なのだわ)
「ミラーカ、頼むよ」
マークウッド辺境伯は足を止めた。
そしてやや強張った表情で後ろを振り返り、美貌の侍女ミラーカに言った。
ヴァネッサの後ろを歩いていたミラーカは「はい」と返事をして前に進み出ると、そこにあった扉をノックした。
「お嬢様、ミラーカです。皆様をお連れしました」
「どうぞ」
扉の向こうから少女の声がした。
ミラーカはマークウッド辺境伯夫妻を振り返り、頷いた。
夫妻は少し表情を緊張させ、ミラーカに頷き返した。
そのやり取りを見てファウスタも緊張が高まって来た。
「失礼いたします」
ミラーカは扉を大きく開けた。
開かれた扉の向こうに、ファウスタより少し年上の黒髪の少女が居た。
(……!!)
マークウッド辺境伯の影から、その少女の姿を見てファウスタは驚き、目を見開いた。
少女の頭上に、今まで見た事もない、燦然と輝く何かがあったからだ。
(あれは……王冠なの?!)




