17話 天眼鏡
「八百年ほど前、初代マークウッド辺境伯となったファンテイジ家三代目当主セプティマス・トリスタン・ファンテイジ。彼、トリスタンは三つの予言を家訓として残したのだよ。その三つの予言の中にファンテイジ家の守護霊たる大セプティマス様が登場するのである」
マークウッド辺境伯はバネのような髭を指でビヨンと撫でると、歌うように抑揚をつけて話し始めた。
(八百年前……)
いきなり八百年前から話が始まり、あまりの壮大さにファウスタは面食らった。
歴史を知らないファウスタには八百年前という時代が解らない。
人間が剣で戦ったり、魔法使いが空を飛んだりしていて、しばしば神様や天使が地上に降りて来たりする、そんな古き時代なのだろうと朧げに想像した。
「トリスタンの残した予言の一つ。嫡男には必ずセプティマスの名を与えよ、守護霊と同じ名が守護霊を呼びその子を守護する、という予言。この予言に従いファンテイジ家の男子は皆セプティマスと名付けられたのだよ」
役者のような大げさ身振りでマークウッド辺境伯は滔々と語った。
「トリスタンの予言通り、ファンテイジ家八百年の歴史の中にセプティマスと名乗る守護霊が度々現れた。彼はその時々のマークウッド辺境伯を守護し、危殆に瀕したマークウッド領を幾度となく救ったのだ。守護霊様に助けられたという不思議な体験の手記がファンテイジ家にはいくつも残されている。ファンテイジ一族は守護霊様を『大セプティマス』と呼び敬っているのだよ」
そこまでの説明を終えたマークウッド辺境伯は、お茶をぐいと一気に飲み干した。
(ティムさんが現れたってことは、昔のファンテイジ家の人たちは霊が視えてたって事かしら? 視えなかったら居ても解らないよね)
マークウッド辺境伯に二杯目のお茶を煎れている狼男の従僕を見ながら、ファウスタは考えた。
(魔物の正体が視えても黙っていてってアルカードさんもティムさんも言っていたから、このお屋敷の人間は魔物が働いていることに気付いてないのよね。でもティムさんの姿が視えてた昔の人は魔物の存在も知っていたのかしら)
もはやファウスタは狼男や蝙蝠人間が給仕をしていても動じなかった。
絢爛豪華な一階の廊下や、この部屋の着色硝子でたっぷり驚いたからだ。
廊下に並んでいた美術品は動物が題材にされている品も多かったので、狼男や蝙蝠人間が今更出て来たところで、もはや美術品の延長にしか見えない。
ファウスタの生活とはあまりにかけ離れている光景なので現実味がないのだ。
物語の挿絵に異世界や異形の魔人が描かれていても、驚かずに「そういうもの」と自然に受け止められる感じに似ている。
着色硝子がある神の国のごとき場所に、狼男や蝙蝠人間が居ても違和感は無い。
むしろ異世界にふさわしい登場人物のように思える。
そんなファウスタがこの部屋で一番怖いものは、天井からぶら下がる巨大なシャンデリアだ。
床がミシミシ言う孤児院に住んでいたファウスタは、そのうち天井がバキッと割れてシャンデリアが落ちて来そうに思えるので、怖くて怖くてゾッとするのだ。
「そしてついに、私も大セプティマス様に出会ったのだよ」
マークウッド辺境伯は、重大な秘密を打ち明けるかのように言った。
魔女のようなマークウッド辺境伯夫人ヴァネッサは、気怠い表情でたまにお茶に口をつける以外は動かない。
三人の侍女たちは着席を許され、居間の中の、着色硝子の空間の近くに置かれているソファに座っていた。
ファウスタは甘くてふわふわした焼き菓子を大事に食べながら、まったりとマークウッド辺境伯の語りを聞いていた。
(こんなふわふわの焼き菓子があるなんて!)
ふわふわの甘い生地にジャムとクリームが挟まれていて、粉雪のような砂糖がふりかけられている素晴らしい焼き菓子だった。
「私が十歳の時、叔父が外国旅行の土産に不思議な眼鏡を買って来たのだ。その眼鏡を覗いたら、なんと! 目の前に我が家の守護霊、大セプティマス様がいたのだよ!」
マークウッド辺境伯は感動に浸るかのように、目を閉じ、胸に手を当て天井を仰いだ。
「八百年前にトリスタンが残した予言は真実を指していたのだ。先祖たちの残した奇想天外な手記も全て真実だったのだ。何故なら私の目の前に大セプティマス様が現れたのだから」
(天眼鏡を覗いたら、ちょうどそこにティムさんが居たのね)
ファウスタは焼き菓子の素晴らしい味を堪能しながら状況を想像した。
アルカードの部屋で会った時、ティムは落ち着きがなく、何回もアルカードの顔を覗き込んでいたので、あんな感じだったのだろうと。
「おやおや? 君はこの話を私の空想だと思っているのかね?」
ファウスタの反応が薄かったせいなのか、マークウッド辺境伯が絡んで来た。
幽霊の話をして空想だと思われてしまう状況はファウスタにも何度か経験があったので、マークウッド辺境伯の気持ちが解る気がした。
「い、いえ、解ります」
「解るかね?」
「はい。天眼鏡を覗いたら守護霊様が視えたのですね」
「おおお!」
マークウッド辺境伯は雄叫びを上げた。
「君は『天眼鏡』を知っているのかね?!」
「いえ、あの、名前を聞いたことがあるだけで……」
「何と博識な!」
「いいえ、名前を知っていただけで……どんな道具かは全然知りません」
「では教えよう。天眼鏡というのは人の運命が視えるという神秘の眼鏡なのだよ」
(人の運命……?)
ファウスタは内心で首を傾げた。
天眼鏡を覗いたらティムが視えたのなら、それは霊や魔力が視える眼鏡ではないだろうか。
「すみません、閣下、人の運命とはどんな見え方をするのですか?」
「それは解らないのだよ」
けろりとした顔で、あっけらかんとマークウッド辺境伯は言った。
「あの、でも、閣下はその眼鏡で人の運命をご覧になったのではないのですか?」
「天眼鏡ではっきり視えたのは守護霊様だけなのだよ。他にはモヤモヤが見えただけなのだよ」
「モヤモヤとは魔力でしょうか」
「おおお!」
マークウッド辺境伯はまた雄叫びを上げた。
「エーテルを知っているのかね!」
「え……」
「年端も行かぬというのに神秘学の専門用語を知るとは! 君はとてつもない知性を持っているね! 天才少女なのだよ!」
「……」
「世に埋もれていた天才少女を発見しご推薦くださるとは! さすが守護霊様はご慧眼なのだよ!」
ファウスタは呆気に取られてポカンとしてしまった。
(皆さん普通にエーテルのお話してたよね?)
マークウッド辺境伯が「天才! 天才!」と大興奮している隣で、陰鬱な顔をしたまま無言だったヴァネッサが静かに口を開いた。
「ファウスタ、あなたはどこでそのような知識を得たのですか?」
魔女のようなヴァネッサの不健康そうな薄い隈に縁どられた鋭い視線が、探るようにファウスタを刺した。
ファウスタは一瞬怯んだが、正直に答えた。
「本で読んだのです」
「何と言う本ですか?」
「『イェルグニトク妖精事件』という本です」
「おおお!」
マークウッド辺境伯がまた雄叫びを上げた。
「エリファス・フォーサイス博士の『イェルグニトク妖精事件』だね! あれは興味深い著作なのだよ。そういえば君の姓もフォーサイスだが、エリファス・フォーサイス博士と関係があるのかね?!」
「あると言えばあるのですが……」
「ほう! 聞かせてくれるかね」
マークウッド辺境伯は子供のようにうきうきとして目を輝かせた。
その隣でヴァネッサは針のような眼差しでファウスタを見ていた。
「はい。私は五歳のときに孤児院に置き去りにされていたのですが、そのとき一冊の本を抱えていたのです。その本が『イェルグニトク妖精事件』でした。私は自分のファウスタという名と年齢しか知らず、姓も出身も解りませんでした。教会の聖導師様が私が持っていた本の作者のフォーサイスという姓を、私の姓にとお決めになり、私はフォーサイスの姓を授かったのです」
はしゃいでいたマークウッド辺境伯は固まって黙り、ヴァネッサも何か衝撃を受けたような顔をした。
「それで……あなたはその本を読んだというのですか? 子供が読むには難しい本だったのではなくて?」
ヴァネッサがたどたどしく問いかけてきたので、ファウスタは頷いた。
「はい。難しい本でした。七歳の時に辞書の引き方を覚えて、解らない単語を調べながら読みました。私の唯一の持ち物でしたので、何か両親の手がかりになるようなものが本の中にあるかもしれないと思い、単語の勉強をしながら読み進め、十歳のときにようやく全て読み終えました」
「……」
「……」
マークウッド辺境伯夫妻は共に滂沱と涙した。
魔力を纏った男性が慌てて、泣き出したマークウッド辺境伯にハンカチを差し出す。
ソファに座っていた三人の侍女たちも駆け付け、泣いているヴァネッサの世話をしたが、侍女のうち二人、吸血鬼ネルと人間の侍女もすすり泣いていた。
「あの、すみません、私、何かいけない事を言ってしまったのでしょうか」
何人かが泣き出し、混乱してしまった場を見回してファウスタは不安になった。
何か失敗してしまったのではないかと胸がざわざわした。
「大丈夫ですよ。何の問題もありません」
アルカードがすっとファウスタに近付き小声で言った。
「育ちの良い方々は可哀想な話に弱いのです。すぐに落ち着くでしょうからご心配にはおよびません」
「可哀想な話だったのでしょうか?」
思ってもみなかった事を言われてファウスタは目を丸くした。
ごくありきたりな身の上話をしただけなのに、どこが可哀想なのかさっぱり解らなかった。
孤児院には親がいない子供しかいなかったし、親がいないのは普通のことだった。
ファウスタは自分の名を知っていたが、名前すら無かった子だっている。
それに一家全員が強盗に殺されてしまい血の海から救出されたジゼルや、一家全員が流行り病であっという間に病死してしまった家でガリガリに瘦せ細っていたピコに比べたら、健康な状態で孤児院にふわっと置き去りにされていたファウスタの身の上なんて平凡の凡なのだ。
「可哀想かどうかはそれぞれの受け止め方や価値観によって違うでしょう。育ちの良い方々には孤児だというだけでも可哀想に思えてしまうのです」
「そうですか……」
(神様から見たら、家も財産も持たない孤児なんて、そりゃあ非力で哀れよね)
ファウスタは自分がちっぽけな存在であることを自覚した。
しかし神々と比べられては敵わなくて当たり前のようにも思ったので、大して気にならなかった。
「無神経な質問をしてしまった私をどうか許しておくれ、ファウスタ」
マークウッド辺境伯はハンカチで目頭を押さえながら言った。
「その才能の裏にそんな悲劇があったとは……辛い話をさせてしまったね」
「いえ、私は別に……」
「君のために私に出来ることがあれば何でもしよう。何か望みがあるなら言っておくれ。どうか償わせて欲しい」
マークウッド辺境伯は嗚咽しながらファウスタに言った。
大人の人が泣き出したことにすら吃驚しているのに、さらに泣いている大人にどう接すれば良いかなんてファウスタにはさっぱり解らない。
「あの、すみません、閣下」
「いいとも、何でも言ってくれたまえ。こう見えて私はちょっとした権力者で財産家なのだよ。全力で君の望みに答えさせて貰おう」
マークウッド辺境伯は泣き顔で、堂々と胸を張った。
「その……天眼鏡はそれからどうなったのでしょうか」
「おお、肝心の部分をまだ話していなかったのだよ。天眼鏡を覗いているうちに私は……」
「リンデン、そのお話はもうお止めになったら?」
薄い隈に縁どられた目を涙で濡らしたヴァネッサが、話の続きを語ろうとしたマークウッド辺境伯を制止した。
「ファウスタ、気を使わせてしまってごめんなさいね。好きな話を語れたらリンデンの気が晴れるかと思って、あなたに彼の話を聞いてもらっていたけれど……あなたへの配慮が欠けていたわ。あなたが孤児院から来た子だと知っていたのに、私ったらなんて心無い質問をしてしまったのかしら……本当にごめんなさい」
ヴァネッサは涙声でファウスタに謝罪した。
「リンデンの話が詰まらないなら、詰まらないと言ってくれていいのよ。私があなたの味方になりますから、嫌ならどうぞ断ってちょうだい」
「……」
ヴァネッサの言葉に、マークウッド辺境伯は軽く衝撃を受けたようで、涙に潤んだ目を丸くして心外そうな、がっかりしたような顔をした。
「いいえ、奥様、私は心から閣下の天眼鏡のお話を聞きたいのです」
「おおお!」
マークウッド辺境伯は、ファウスタの言葉にぱあっと表情を明るくして感激の声を上げた。
「いくらでも話すのだよ! ぜひぜひ聞いてくれたまえ!」
浮足立つマークウッド辺境伯をヴァネッサは手で制し、ファウスタに問いかけた。
「ファウスタ、どうして? あなたが『イェルグニトク妖精事件』を読んだのはご両親の手がかりを得るためだったのでしょう。神秘学に興味があったからではないのよね?」
「はい。ですが天眼鏡のお話が気になるのです。ぜひ最後までお聞かせください」
ティムの姿が視えて魔力が視える天眼鏡とは、まるで自分の目のようだとファウスタは思った。
ファンテイジ家にティムに関する手記があるというのも気になる。
その手記を書いた昔のファンテイジ家の人々は、自分と同じように幽霊が視えていたのではないのかと。
「まかせたまえ!」
マークウッド辺境伯は水を得た魚のように元気を漲らせた。
「あなたががそれで良いのなら私は異存はないけれど……」
ヴァネッサは心配顔でファウスタに言った。
「私はあなたに負担をかけたくないの。何でも正直に言ってちょうだい」
「ありがとうございます、奥様。私に負担などありません。こんな美味しいお菓子をいただいて、興味深いお話を聞けて、私は幸せです」
「まあ! お菓子ならいくらでもおあがりなさい。欲しければもっとあるわよ」
「そうだとも、どんどん食べるがいい。バーグマン氏!」
「はい、閣下」
執事のバーグマンがマークウッド辺境伯に即座に答えた。
「お菓子をあるだけ全部持って来てくれたまえ」
「畏まりました」
「えっ!? ……あの! すみません、閣下!」
ファウスタはマークウッド辺境伯の言葉に驚いて声を上げた。
「私は先程、朝食をいただいたので、もうそんなに食べられません」
「なんと!」
「申し訳ありません、閣下、お気持ちだけで充分です」
ファウスタが恐縮していると、ヴァネッサがさらりと提案した。
「ねえ、リンデン、ファウスタを午餐に招待したらどうかしら。デザートもたっぷり用意させましょう」
「それは良い考えだね。さすがはヴァネッサだ。ファウスタ、どうかね? 我々と午餐を共にしてくれるかね?」
「あ、あの……」
神々と一緒に午餐などと、ファウスタはどうしたらよいか解らず、助けを求めるようにアルカードを見た。
アルカードはファウスタににっこり微笑んだ。
彼は身をかがめると小声で「お受けなさい」と耳打ちした。
アルカードにそう言われ、ファウスタはマークウッド辺境伯夫妻に向き直り返事をした。
「ご招待ありがとうございます。喜んでお受けいたします」
「天眼鏡を使って守護霊様とお話もできたのだよ」
マークウッド辺境伯は話の続きを語った。
ファウスタは狼男の従僕に二杯目のお茶を煎れてもらった。
マークウッド辺境伯夫人ヴァネッサが「砂糖とミルクはいかが?」と勧めてくれたので、ファウスタは甘いお茶を飲むことができた。
「守護霊様はお姿が視えていればお話も出来たのだ。しかし天眼鏡を外してお姿が視えなくなると、そこにいらっしゃるはずなのに声も聞こえなくなるのだよ。不思議だったのだよ」
マークウッド辺境伯が話している横で、ヴァネッサは小声で侍女に指示を出していた。
人間の侍女がヴァネッサの言葉に頷き、退室して行く。
「さらに不思議な事に、天眼鏡で守護霊様が視えるのは私だけでね。他の者にとってはただの拡大鏡でしかなかったのだよ。だからこそ私が叔父から譲り受けたのだがね。叔父は騙されてガラクタを買ってしまったと思い込んでいたのだ。快く私に譲ってくれたのだよ」
「閣下には天眼鏡を使う才能があったのでしょうか」
自由に質問していいと許可されたファウスタが質問すると、マークウッド辺境伯は喜色を浮かべた。
「やはりそう思うかね?! 私もね、自分に何か特別が力があるんじゃないかと思ったのだよ!」
マークウッド辺境伯は少し得意気な顔でバネのような髭をビヨンと指で撫でた。
「それから毎日、天眼鏡で色々なものを視たのだよ。モヤモヤした使用人が何人もいてね。彼らは何か特別な運命を持っていたのだろう。見えざるものが天眼鏡に映っていたのだから。実際彼らは優秀な使用人ばかりだったので、才能がモヤとなって映るのだろうと私は推理したのだよ」
(モヤってるのは魔物の皆さんだよね)
真相を知るファウスタは心の中で呟いた。
「アルカード氏もきっとモヤモヤが映ったはずなのだよ。大変な賢者だからね。如何ほどの才能が漂っているか視てみたかったのだよ」
「恐れ入ります」
アルカードはマークウッド辺境伯の尊敬の眼差しを受け止めた。
ファウスタは二人の様子を見て、マークウッド辺境伯がアルカードを天眼鏡で視ていないことを疑問に思った。
一番に天眼鏡で視てもおかしくない間柄のように見えたからだ。
「閣下は天眼鏡でアルカードさんをご覧にならなかったのですか?」
「うむ。残念ながら視ていないのだよ。その時は領地館に居たのでね。領地館の人間しか視ていないのだよ」
「領地のマークウッドにあるお屋敷のことよ」
ヴァネッサが気をきかせて補足した。
「アルカード氏はこの王都屋敷の家令だから、ずっと王都にいるの。領地館には別の家令がいるのよ」
「他にもお屋敷があるのですか?!」
「ええ、あります。貴族は仕事の都合で、領地と王都と、両方に屋敷を持っているのです。今は王都で仕事がある時期なので私たちはこのお屋敷にいるの」
他にもファンテイジ家の屋敷があることにファウスタは驚愕した。
(お屋敷が二軒も必要だなんて。普通の人間には出来ない大変なお仕事だわ。普通の人間は仕事道具のお屋敷が揃えられないもの)
この時のファウスタには知る由もないが、ファンテイジ家が所有する屋敷は二軒だけではない。
「閣下は天眼鏡を王都に持って来ようとは思わなかったのですか?」
「できなかったのだよ。私が天眼鏡を持っていたのはたった半月ほどの間だけだったのだ。目に悪いからといって守護霊様に取り上げられてしまったのだよ」
マークウッド辺境伯は残念そうな顔で肩をすぼめた。
(じゃあ天眼鏡はティムさんが持っているのかしら)
「確かに天眼鏡は健康に影響があったのだよ。目の色が変わるくらいは問題ないが、視力も落ちてしまってね。それから日に日に頭痛が酷くなっていったのだよ」
「そんな事が……」
まるで自分の目のような天眼鏡が、マークウッド辺境伯の健康に悪影響を及ぼしたと知り、ファウスタの心に不安が細波のように押し寄せた。
「天眼鏡のせいだとは思っていなかったのだが、守護霊様に天眼鏡を取り上げられたら頭痛は嘘のように消えたのだよ。右目の色と視力は戻らなかったがね」
ファウスタはティムが言っていたことを思い出した。
「それが、天眼鏡の副作用なのですね……」
「そうそう、そうなのだよ! さすがだねファウスタ。魔道具には何らかの副作用があるものだ。何かを得るために別の何かを捧げるのだよ。奇跡は突然湧いて出るものではない。結果を得るために糧となる犠牲が必要なのだ。それこそが錬金術の法則なのだよ」
――そのとき、部屋の扉がノックされた。
辺境伯夫妻も使用人たちも、意外そうな顔でノック音に反応した。
蝙蝠の羽根の従僕が扉に向かい来訪者に応対する。
彼は扉の外に居る者に頷くと、踵を返してマークウッド辺境伯の元に戻った。
「恐れ入ります、閣下、ユースティスがオズワルド様の命を受けて参りましたが、如何いたしましょう」
「何っ!!」
マークウッド辺境伯は驚きの声を上げた。
「聞こう! ユースティスを此処へ!」
「オズワルドが……?!」
よほど驚いたのかマークウッド辺境伯夫妻は少し動転していた。
(オズワルド様ってご子息だったかしら)
ファウスタは記憶を総動員した。
「ご朝食の時間中に失礼いたします。オズワルド様の命により参りました」
堂々と歩を進めて、マークウッド辺境伯夫妻の前に出たユースティスは言った。
彼は今日は黒の上下で執事の服装に似ていたが、ズボンは少年らしく膝丈で、ベルトの靴下留めで黒の靴下を留めていた。
襟元にはタイの代わりに、昔の貴族のようなたっぷりのひだのあるレース飾りを付けていて、首元には光の加減で濃淡が変わる青緑色のタイピンを留めていた。
「オズワルド様はファウスタによるオクタヴィア様のお部屋の霊視にご興味があるとの事。霊視に同行して様子を報告するようにと私にご命令なさいました。つきましては私を霊視に同行させていただけますよう、旦那様にお願い申し上げます」
「オズワルドが興味を!」
「どういう風の吹き回しかしら?! でもこれは進歩ね!」
マークウッド辺境伯夫妻にとっては嬉しい驚きであるようだった。
「ファウスタ!」
「はい、閣下」
「まだ十分な償いもしていない状況で申し訳ないのだが、無理を承知で頼むのだよ。今から三階に行ってくれないかね? 娘の部屋に霊現象が起こるのだ。それを視て貰いたいのだよ。もしかするとこれは我が家族にとって良い転機となるかもしれないのだ。ぜひすぐにでもお願いしたいのだよ」
「はい、閣下。私などでよろしければ、いつでもお力になります」
「おお、なんと健気な……」
マークウッド辺境伯はまたホロリとしたのか、くっと口を引き締め、涙をこらえるように上を向いた。
「では閣下、私も同行してよろしいでしょうか」
ユースティスが恭しく言った。
「もちろんだとも! よし! 皆で三階に行こうじゃないか!」
マークウッド辺境伯は果敢に立ち上がった。




