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お化け屋敷のファウスタ  作者: 柚屋志宇
第1章 ファンテイジ家の使用人たち

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15話 最初で最後の普通のメイドの朝

「ファウスタ、朝よ。起きて」


 聞きなれない声に起こされ目を開けると、見慣れない斜めの天井があった。

 ファウスタは一呼吸ほどの間、寝ぼけた頭を巡らせ、そして思い出した。


 朝の光に満たされたこの部屋は、マークウッド辺境伯の屋敷の屋根裏部屋で、目の前にいるのは見習い女中(トゥイーニー)の先輩アメリアだ。

 自分は昨日、孤児院を出て此処へ来たのだ。


「身支度したら仕事に行くわよ」

「はい!」


 ファウスタは急いで着替えると、いつもの着古したエプロンを付けた。

 そしてアメリアに手伝ってもらい髪をまとめると、昨日完成したモブキャップをつけた。


(大人の世界に来たんですもの。頑張らなきゃ!)


 アメリアと一緒に部屋を出て使用人階段を降りると、すでに仕事をはじめている家女中ハウスメイドたちとすれ違った。

 彼女たちは昨日見たレース襟の黒いドレスではなく、可愛らしい薄紅色のドレスを着ていて、石炭バケツや掃除用具を運び階段を上り下りしていた。


「何か気になるの?」


 使用人階段を下りながらキョロキョロしているファウスタに気付いて、アメリアが声をかけた。


「いえ、あの、大人の人たちの服が昨日と違うので……」

家女中ハウスメイドは午前と午後で服が違うの。午前中はお掃除をするから汚れても良いように作業用のドレスを着ているのよ。午後になったら黒のドレスに着替えるの」

「あんな可愛い服が汚れて良い作業服なんですか?!」


 朝一番からファウスタは驚かされた。


(上等の仕事ってなんて贅沢なのかしら!)






 ファウスタは地階に降りると、アメリアと一緒に掃除の仕事をした。

 まずは使用人食堂サーバンツホールの掃除。


「おはよー」


 ファウスタたちが掃除道具を持って使用人食堂サーバンツホールに行くと、すでにテスが床のモップ掛けを始めていた。


「朝食が八時からだから、ここの掃除は七時半ごろまでに終わらせないといけないの。だから使用人食堂サーバンツホールの掃除は朝一で見習い女中(トゥイーニー)全員で取り掛かって一気に終わらせるのよ」

「今日はモップ掛けしてテーブルを拭くだけだから、すぐだよー」


 モップ用バケツの絞り器で、モップを絞りながら気楽そうにテスがそう言うと、アメリアが補足した。


「一週間に一度、念入りに掃除する日があるんだけどね」


 使用人食堂サーバンツホールの掃除を終わらせると、テスは厨房の手伝いに向かい、ファウスタはアメリアと一緒に使用人用の出入口の掃き掃除に向かった。


「手際が良いわね。お掃除も経験があるの?」

「はい。孤児院で食堂や玄関のお掃除はよくやっていました」

「凄いわね。最近の孤児院って針仕事や家事を教えて貰えるのね」

「え……」


(孤児院で年上の子供が仕事を言いつけられていたのって、家事の勉強だったのかしら?)


 何か違うような気がしたが、院長の賢さを見抜けなかった事で、自分の考えに自信を持てなくなっていた。

 もしかするとまた院長の方が賢く、自分の考えが浅はかなのかもしれないという疑惑が湧きあがってきた。


(院長先生は私たちをこき使って怒鳴りつけていたけれど。……まさかまさか、あれも私たちに家事の勉強をさせるという深いお考えがあったのかしら?!)


 ファウスタはジゼルやピコとよく院長の陰口を言っていた。

 偉い人には頭が上がらないからって、子供相手に怒鳴り散らしてうっぷんを晴らしているくだらない大人だとか。

 孤児院を追い出されたら生きていけない孤児は院長に絶対逆らえないからって、子供の弱みを握って調子に乗って威張り散らしてる卑怯な奴だとか。

 王室運営の孤児院の雇われ院長のくせに、子供相手に権力者気取りだとか。


(院長先生、いつも悪口言っててごめんなさい。私は浅はかでした)


 あの辛かった家事仕事の経験が今メイドの仕事で生きている。

 仕事の手際が良いとファウスタは褒められている。


(厳しい叱責には私たちを一人前にするという深いお考えがあったのね)


 ファウスタの中で院長の株がまた急上昇した。






 地階の使用人用の出入口の掃き掃除を終えると、ファウスタはアメリアと一緒に最初に掃除をした使用人食堂サーバンツホールに戻った。

 ファウスタたちが朝一番に掃除をしたときに拭いた長テーブルには、真っ白なリネンのテーブルクロスが掛けられていて、従僕見習い(ホールボーイ)のドムとルーイが食器やカトラリーを並べていた。

 すでに何人かの使用人が席についている。


見習い女中(トゥイーニー)が掃除をした後、従僕見習い(ホールボーイ)がテーブルの準備をするのね。それで厨房で作られている料理がこれから並ぶんだわ)


 それぞれに分担された仕事が積み上げられて出来ていく、全体の形の一端を見た気がして、ファウスタは思わず感嘆した。


(みんなの仕事が繋がっているのね!)


「アルカードさんはお部屋で朝食を召し上がるから朝はいないの。でもバーグマンさんとマクレイ夫人が最後までいらっしゃるから朝食中は私語厳禁よ」

「はい」

「バーグマンさんとマクレイ夫人が食べ終わったら、そこで朝食は終わり。全部片づけられてしまうから、ちゃっちゃと食べたほうが良いわよ」

「は、はい!」


(美味しいものを食べ損ねないようにしないと!)


 柱時計が八時を指すと、使用人食堂サーバンツホールにバーグマンとマクレイ夫人が現れ朝食が始まった。

 給仕役のドムとルーイが朝食を配膳していく。

 全員に配膳が終わると、バーグマンが指揮をとり、皆でヤルダバウト神への祈りを捧げた。


(卵とお肉がある!)


 ファウスタはお祈りをしながら、朝食の皿に目が釘付けだった。


 薄切りパンと豆入り野菜スープは孤児院と同じ献立だったが、そこに葉野菜、黄色くふんわり焼き上げられた卵料理、薄切り肉が添えられていた。


(神様、卵とお肉をありがとうございます!)


 ファウスタは心から神に朝食を感謝した。


 バーグマンとマクレイ夫人がいるので皆が無言で堅苦しい時間ではあったが、孤児院では滅多に食べられなかった卵と肉がお皿に乗っているのだ。

 幸福な時間と言わざるを得ないだろう。


(これが上等のメイドの生活というものなのね)


 朝早くから家事仕事をして、そして素敵な朝食を食べて、ファウスタはメイドとしての一日の始まりに感動に近い充実を覚えていた。

 任された家事仕事には特に困難や苦痛はなかったし、それにアメリアが何かと褒めてくれるので前向きな気分で取り組めた。


(このお屋敷でずっとメイドの仕事をして、大人になったら、私もあの素敵な薄紅色のドレスを着るのかしら)


 ファウスタは自分より上座にいる大人のメイドたちをチラリと見やり、薄紅色のドレスの可愛さを確認して心をときめかせた。

 カリッと焼き上げられた薄切り肉の美味しさを噛みしめながら、薄紅色のドレスを着た未来の自分を想像してファウスタは幸福に浸った。


 ――この普通のメイド時間はもうすぐ終わる。


 後一時間ほどで、ファウスタの人生は普通の人々とは違う、薄闇の版図に大きく踏み込む事になる。


 道が重なっているので、今は同じ場所に立っているように見えているだけ。

 ファウスタの歩く道の先は、皆とは違う方向に曲がりくねり、暗がりの森へと続いているのだ。


 そのことに気付きもせず、残り少ない時間の中でファウスタは美味しい朝食を堪能し、訪れることのない平凡で穏やかな未来を夢想していた。






「ファウスタ」


 朝食が終わると、マクレイ夫人は退室前にファウスタに声をかけた。


「はい」


 ファウスタは姿勢を正し返事をした。


「旦那様が朝食の後、あなたにお会いになるそうよ。身支度を整えたら家政婦長室へ来なさい」

「はい」

「アメリア、あなたはファウスタの身支度を手伝ってあげて」

「はい、マクレイ夫人」


(ついにマークウッド辺境伯にお会いするのね)


 ファウスタの心は一気に不安でいっぱいになり少し胸が苦しくなった。

 貴族と直接話をする日が来るなど、ほんの二日前までは想像もしていなかった。


(余計な事を言わず、聞かれた事に答える……)


 ファウスタは昨日アルカードに教わった事を心の中で復唱しながら、マクレイ夫人の後ろ姿を見送った。






「ファウスタ、もし嫌なら旦那様に正直に言ってみたらどうかしら」


 身支度をするため屋根裏の使用人部屋サーバントルームに向かう途中。

 顔を強張らせてギクシャクしているファウスタと一緒に使用人階段を上りながら、アメリアは心配顔で言った。


「旦那様も奥様もお優しい方よ。まだ子供のファウスタが悪魔と戦うのを嫌がったからって、お怒りになったりしないわ」

「いえ、あの……悪魔は別に……もうどうでもいいんですけど……」


 昨日ネルは、三階の悪魔は羽虫のようなものと言っていた。

 女王様に褒められる仕事をするネルの言葉なので、ファウスタは信用に値すると思った。


 それに悪魔から逃げて屋敷を出たら、貧民街で野垂れ死ぬのだ。

 帰る家などない孤児のファウスタにとってはここが一番安全で、ここを出たら貧民街という地獄が待っている。

 逃げる場所など無いのだ。


 人がばたばた死んでいる貧民街に比べたら、カップを割ったりおしゃべりしたりするだけの非力な悪魔を怖がるのは馬鹿々々しく思えてくる。

 ネルが言うとおり羽虫や如雨露の水くらい馬鹿々々しい小物だ。

 くだらない小物の悪魔なんかを怖がって、さらさらのリネンの寝床や肉詰めパイやロースト肉を捨て、貧民街へ行って野垂れ死ぬ方を選ぶなど馬鹿げている。


 ジゼルが居たらきっと悪魔なんて笑い飛ばして迷わず肉詰めパイを選ぶだろう。

 ピコだって『ちょろっと物を動かすだけの騒霊現象(ポルターガイスト)なんかより怒鳴り散らす院長の方がうるさい』と冷静に事実を比較する子だったから、悪魔より貧民街のほうが危険だと答えるだろう。


「貴族の方とお話するなんて初めてで……心配で……」

「えっ?! そっち?!」


 アメリアは心底意外そうに声を上げた。


「私は悪魔のほうが心配なのだけれど。ファウスタは悪魔より旦那様の方が心配なの?! どうして?」

「旦那様は私を雇って下さっている方なので……何か失敗してクビになったらと思うと……悪魔より貧困が怖いです」

「あなたって、やっぱりちょっと変わってる」


 アメリアは気の抜けたような顔をした。

 そして少し面白そうに笑った。


「そっちは全然心配いらないわよ。旦那様も奥様も本当にお優しい方なの。だって本当のお金持ちなんですもの」


 アメリアは明るい顔で、自分が奉公するファンテイジ家に誇りを持っているのか少し得意気に言った。


「『金持ち喧嘩せず』って諺の通りの方よ。本当の由緒正しい大貴族で大金持ちでいらっしゃるから、そのへんの成金や木っ端貴族とは器が違うの。見習いのメイドが何か失敗したくらいで、いちいちお怒りになるような小さい方ではないわ。……見た目はちょっと怖いかもしれないけど」


 アメリアは最後のほうは小声で言った。


「あの、でも、問題を起こしたナスティという侍女はクビになったと……」


 ユースティスが問題を起こして解雇された侍女の話をしていた。

 それにファウスタは奥様に疑われていて、ユースティスとネルが偵察に来ていたのだ。


(ユースティスさんとネルさんが奥様の誤解を解いてくれてるといいけど)


「そんな話、誰から聞いたの?」

「あの……ええと……小耳に挟んで……」


 言ってはいけない事だったのかもしれないと、ファウスタは口に出してしまった事を後悔した。


「……ユースティスかしら?」


 アメリアが鋭い眼差しでいきなり図星を付いてきたので、ファウスタは観念して正直に告白した。


「……はい、そうです」

「あの子が言ったなら……教えてもいいのかしらね」


 アメリアは眉間に少し皺を寄せて、考え込むような顔をした。


「うん、確かにナスティはクビよ。でもあれは例外。問題を起こしたっていう甘いものじゃないの。ナスティがやった事は犯罪よ」

「犯罪っ?!」


 不意打ちのような物騒な展開にファウスタは思わず声を上げてしまった。

 アメリアが人差し指を口にあて、静かにするようにという身振りをしたので、ファウスタは両手で口を押えた。


「そうよ。ナスティがやった事は失敗じゃなくて犯罪」


 アメリアは声を落として言った。


「最後は警察に逮捕されたんだから」

「……っ!」


 想像を絶する大事件の顛末にファウスタは驚愕した。

 警察に逮捕されるような犯罪者なんて、遠い世界の存在に思っていた。

 そんな恐ろしい人物がこの屋敷にいたなんて。


「ナスティは犯罪者なんだから普通の人間と思っては駄目。いくら旦那様が心の広い方だからって犯罪者を許したりはなさらないわ。犯罪者は警察に引き渡すのが善良な国民の義務だもの」






「うん、良い感じ。ファウスタ、よく似合ってる」


 屋根裏部屋に到着すると、ファウスタは着古したエプロンを脱いで、ネルがお直ししてくれたフリルのエプロンに着替えた。

 アメリアが髪をきれいに結い直してくれて、モブキャップもかぶせてくれた。


「鏡を見てごらんなさい」


 アメリアは棚の上に置かれている鏡を手に取って、ファウスタの前にかざした。

 ファウスタは鏡を覗き込んだ。

 鏡に映った自分は、髪を結い上げているせいか、フリルのエプロンの効果なのか、孤児院にいた頃よりも少し上等になっている気がした。


 そして茶色の目の中に空色の染みがあった。


(あれ? 昨日より青い?)


 昨日、鏡を覗き込んだときよりも、目の中の空色が少し広がっている気がした。


(私、成長しているのね)


 ファウスタは自分が全体的に上等に成長した気がしていたので、目の変化も成長の一つとして受け止めた。


「じゃあ行きましょうか」

「はい」


 ファウスタはアメリアと一緒に屋根裏部屋を後にして、家政婦長室へ向かった。






「アメリア、ご苦労様。あなたはいつもの仕事に戻りなさい」

「はい、マクレイ夫人」


 マクレイ夫人にそう言われたアメリアは、一瞬ファウスタを振り返ってにっこり笑うと家政婦長室を出て行った。


「ファウスタは私に付いて来なさい」

「はい、マクレイ夫人」


 このまま上階に行くのかとファウスタは思っていたが、意外にもマクレイ夫人は使用人食堂サーバンツホールへ向かった。

 朝食を食べた長テーブルはすでにきれいに片付けられていた。

 マクレイ夫人はいつもの自分の席につき、ファウスタを自分の隣の席に座らせた。


「朝食の後のお茶の時間にあなたが呼ばれることになっているの。旦那様たちの朝食が終わったらあの呼び出しベル(サーバント・ベル)が鳴って知らせてくれるわ」


 マクレイ夫人は使用人食堂サーバンツホールの壁にずらりと並んでいるベルを指して言った。

 それぞれのベルの下には部屋名が書かれたプレートがある。


居間パーラーのベルが鳴ったら行きますからね」

「はい」

「食後のお茶の時間に合わせて行くから、あなたもお茶を勧められると思うわ。『どうぞ』と言われたら、まずはお茶に口をつけなさい。お客が最初に口をつけるのが作法なの。あなたがお茶に口をつけなかったら、旦那様がいつまでもお茶を召し上がれないかもしれないわ」

「……はい!」


 そんな作法があったとは知らず、ファウスタは驚かされた。

 此処へ来てすぐにアルカードの部屋でお茶を勧められたが、ファウスタはお茶の飲み方が解らず、ティムが最初に口をつけていた事を思い出した。

 あの時、自分が最初に飲まなければいけなかったのだと反省した。


(もしかしてあの時ティムさんは、作法を知らない私を助けてくれたのかしら)


 ファウスタは自分が全く作法を知らないことを実感し不安になった。


「あの、マクレイ夫人」

「何かしら?」

「私は作法を知りません。他にも何か気を付ける事があったら教えていただきたいです」


 マクレイ夫人はファウスタを観察するような目で見た。


「自分より身分や地位の高い者に質問したい事がある時は、『すみませんが』と最初に言ってから質問なさい」

「っ?!……す、すみません、マクレイ夫人!」


 いきなり失敗していた事を気付かされ、ファウスタは体を縮こまらせて膝の上で両手をぎゅっと握りしめた。

 自分が本当に物知らずである事を思い知らされた。

 今までも気付かないうちに何かやらかしていたのではないかと恐ろしくなった。


「あなたがまだ作法の勉強をしていない事は皆が知っています。旦那様も孤児院を見学なさっていてどういう場所なのかご存知のはず。その上であなたを雇いたいとお望みになったのですから、多少の不作法はお気になさらないでしょう。自分に出来る範囲でお行儀良くしなさい」

「はい」

「もし迷ったら、先程のように質問して教えを請いなさい。お茶の席にはアルカードさんもいらっしゃるから、あなたを助けてくれるでしょう」

「はい。ありがとうございます、マクレイ夫人」

「……適度な緊張は必要ですが、そこまで緊張する必要はないのよ」


 ファウスタがほとんど恐怖するかのように緊張している様子を見て、マクレイ夫人はやわらかい口調で言った。


「私も見習いだった頃は、アルカードさんによく助けていただいたのですよ」

「えっ?!」


 女性使用人の頂点に立ち、常に堂々と振舞うマクレイ夫人。

 そのマクレイ夫人が見習いをしている姿がまったく想像できず、あまりの意外性にファウスタは声を上げてしまった。


「マクレイ夫人も、あっ! す、すみません、マクレイ夫人も見習いだったんですか?!」


 マクレイ夫人はファウスタの慌てぶりに一瞬、不味そうな顔でピクリと眉を歪めたが、すぐにまた優しそうな笑顔を作って言った。


「ファウスタ、落ちついて、慌てずゆっくり話しなさい。メイドがはしたない叫び声をあげてはいけません」

「!……すみません」

「あなたもファンテイジ家のメイドになったのですから、いつまでも子供気分でいては駄目よ。大人の振る舞いをなさい」

「はい」

「本当ならまずは地階で修行して作法を学ぶのです。地階で失敗しながら経験を積んで、上階で恥かしくない振る舞いが出来るようになるまで二年くらいかかるの。昨日来たばかりのあなたが出来ないのは当然のこと。誰もあなたに完璧な作法を求めたりしません。平常心で出来る範囲のことをやればいいのです。深呼吸をして心を落ち着けなさい」

「はい、すみません」


 ファウスタは言われた通り深呼吸をした。


(二年修行して、お作法を覚えて、大人の振る舞いができるようにならないと、あの素敵な薄紅色のドレスは着れないってことなのね)


「私だって見習いだった時代にはたくさんの失敗をしたわ。その頃アルカードさんは執事バトラーでいらしたの。お作法やお茶の煎れ方を教えていただいたわ」


(アルカードさんが執事バトラー……)


 ファウスタにはまだ家令と執事の違いが判らなかったので、微々たる誤差でしかないように思えた。


(ずっと変わりないのね)


 ――そのとき、呼び出しベル(サーバント・ベル)が高らかな音を立てた。


「あら、随分早いわね」


 マクレイ夫人は柱時計をちらりと見やり、何か思い悩むように顔を曇らせると小さな溜息を吐いた。


「では行きましょう」

「はい」






 ファウスタはマクレイ夫人に付き従い、居間パーラーへ向かうために使用人階段を上り一階へ行った。

 そして一階の廊下を歩いた。


(す、凄い!)


 一階は地階とは全然違っていた。


 氷の結晶を集めたようにキラキラと輝くシャンデリア。

 そのシャンデリアが廊下の天井に一定の間隔で配置されていて、足元には紅い絨毯が続いていた。


 壁には肖像画や風景画などいくつもの絵が飾られ、所々に飾り棚が置かれていて、美術品のような品々が飾られている。

 美しい陶器、硝子工芸品、雪花石膏の彫刻、動物を模して何かの場面を表現した細工品、異国風の装飾が施された箱、何かの骨。


(上等すぎて怖い……)


 おそらく廊下に並んでいる物は全てが高価な品なのだろう。

 美術品が飾られている飾り棚すら、優美な彫刻や細工の施された金具などを見るにとても高価な家具なのだろう。

 もし触れて壊してしまったら、傷でもつけてしまったらと思うとファウスタは心底怖かった。


 自分の古靴が綺麗な紅い絨毯を踏むことすら、いけない事のように感じた。

 何もかもが上等な空間で、完全に場違いなファウスタにとっては、ネルが仕上げてくれたフリルのエプロンとモブキャップだけが自分を守ってくれる頼りの味方のように思えた。


 マクレイ夫人は勝手知ったるという風で、腰のベルトに下げた鍵束を鳴らしながら、何の迷いもなく堂々と歩いて行く。

 そしてある扉の前で足を止めると、彼女はちらりと振り返ってファウスタの姿を確認してから、その扉をノックした。


 彫刻が施された重厚な扉が開き、アルカードが姿を現した。


「皆様お待ちかねです」


 アルカードが笑顔でファウスタを迎えた。

 マクレイ夫人は一瞬ファウスタに不安そうな目を向けたが、すぐ無表情に戻りアルカードにファウスタを委ねて下がった。


 ファウスタはアルカードに招き入れられ、一階の居間パーラーに足を踏み入れた。


(……!!)


 見た事もない上等の世界がそこにはあった。

 当たり前のことだが、廊下よりさらに上等な空間だった。


 そしてこの扉こそが、暗がりの森への入口だったのかもしれない。

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