14話 夜のしじま
(なんて大きなお肉!)
夜九時を少し過ぎた頃、使用人食堂で使用人たちの夕食が始まった。
ファウスタは今度は他の使用人たちと一緒に、末席で起立して上の三人を迎えた。
食卓につくと給仕の少年たち、ユースティス、ドム、ルーイの三人が上座から配膳を始めた。
最初にスープが配膳された。
ファウスタは隣のテスを見て作法の真似をしながらスープを飲んだ。
一見、野菜がごろごろしている普通のスープだったが、根菜や芋がやわらかく煮込まれていて、スープの素晴らしい味がしっかり染みこんでいた。
ファウスタが今まで知らなかったような深い味わいだった。
次に葉野菜、魚の揚げ物、トーストが乗せられた皿が配膳された。
食材が違うのか、調味料が違うのか、料理の味は孤児院より格段に上だったが、夕食の献立そのものはあまり変わりないのだなとファウスタは思った。
しかしその考えは次の瞬間に打ち破られた。
今、夢の中でしか見た事がないような、大きな肉の塊が運ばれて来たからだ。
(あんな大きなお肉が! これは現実かしら!?)
大皿にどっかり乗せられた大きな肉の塊が、上座に置かれた。
執事のバーグマンがその肉の塊を切り分け始める。
バーグマンが切り分けた肉を、給仕の少年たちが配膳しはじめた。
末席のファウスタに配膳されるのは一番最後だったが、自分の席にその肉料理が配膳されるまで給仕から目が離せなかった。
切り分けられた肉は、外側はしっかり焼かれた焦げ色だが、中は食欲をそそる薄紅色で、配膳されると目の前で飴色のとろりとしたソースがかけられた。
逸る心を抑え、テスの真似をしてナイフとフォークを使い、ファウスタは上品に肉料理を口に運んだ。
(美味しい! 何これ美味しい!)
孤児院ではそもそも芋や魚ばかりで肉料理が滅多に出なかった。
分厚い肉切れが目の前に出て来るだけでも大事件なのだが、その肉はやわらかくソースの味も合わさり未知の美味だった。
ファウスタはナイフで一口サイズに切った肉に、念入りにソースを絡めて口に運んだ。
(こんなに美味しいお肉をこんなにたくさん食べれるなんて!)
ファウスタは今日だけで一生分くらいの美味しいものを食べた気がした。
(『生きてさえいれば良いこともある』なんて、大人の誤魔化しの言葉だと思っていたけど、本当の事だったのね!)
だが、ふと、ファウスタは『悪魔のご馳走』という絵本を思い出した。
森の中に素晴らしいご馳走が用意されたお屋敷がある物語だ。
そのお屋敷は、人間を丸々太らせてから食べようとする悪魔の家だったので、ご馳走に目がくらんだ子供たちはみんな悪魔に食べられてしまうのだ。
敬虔なヤルダバウト教徒の兄弟だけが贅沢を好まず、料理を食べずに屋敷を逃げ出して命が助かるのだ。
食い意地を張ってはいけないという教訓が最後に書かれていた。
(まさか……)
このお屋敷に来てから、今まで知らなかったような素晴らしい料理ばかり食べているので、ファウスタの心に一瞬不安が過った。
しかしその不安はすぐ論理により否定された。
(人間で一番新人のテスさんが一年以上働いてるんだから、少なくとも一年は安全ってことよね)
給仕の少年たちは料理を配膳し終わると食卓の脇に控えていた。
ドムとルーイが肉料理に格別の思い入れがあることは、休憩時間の姿を見て知っていただけに、顔色一つ変えず冷静に給仕の仕事をこなしている彼らをファウスタは尊敬した。
(ドムさんもルーイさんも仕事に集中してる。さすが大人の世界だわ。私もあんなふうにならないと)
「残りは部屋に運んでください」
上座のアルカードがそう言うと、使用人たちはカトラリーを置いた。
隣のテスがテーブルの下でファウスタを指でツンツンして知らせてくれた。
「我々はこれで失礼します。皆さんゆっくり食事をお楽しみください」
アルカードがそう言い、上座の三人が席を立つと同時に、皆一斉に立ち上がる。
そしてアルカードはバーグマンとマクレイ夫人を引き連れて退室していった。
使用人たちは一斉に礼をして上の三人を送り出した。
「ファウスタのモブキャップ、完成したのね」
上の三人がいなくなると、テスの向こう側にいるアメリアが話しかけてきた。
「はい。ネルさんが仕上げてくれました」
「ネルさんが?! すごーい!」
隣のテスが驚いたのか目を丸くした。
テスの驚きの意味をファウスタが解らずにいるのを見て、アメリアが説明した。
「ネルさんは奥様のお帽子やドレスを縫っていらっしゃる方なの。先月ネルさんが縫ったお帽子は女王様にお褒めいただいたのよ」
「女王様に!?」
女王様という神に等しい方が話題に登場して、ファウスタは驚いた。
ファウスタにとっては貴族でさえ世界が違う雲の上の人たちだったので、そのさらに上にいる女王様はほとんど神様と同じくらいに思えるのだ。
神に等しい女王様に褒められるとは、ほぼ世界一ではないだろうか。
「ネルさんてそんな凄い人なんですか!」
「ネルさんは奥様の侍女だもん。そりゃあ凄いのよ。凄いお帽子を作るのよ」
「家政婦長室にネルさんが居て驚いたけど、本当にネルさんが縫ってくれたのね」
「新しいエプロンもお直ししていただきました……そんな凄い方に……」
ファウスタは事の重大さを知り畏れ慄いた。
「いいなー。女王様の前に出ても恥ずかしくないエプロンとキャップだよ」
「いくらネルさん制作でもエプロンとキャップで女王様の前に出ちゃ駄目よ」
冷静にアメリアは反論したが、テスはうっとり夢見心地のようで、ネルが縫ったドレスや帽子がいかに素敵かを語り始めた。
そんなアメリアとテスのおしゃべりを聞きながら、ファウスタはデザートの果物の砂糖煮を大事に大事に食べた。
「アメリアさんたちはまだ仕事があるんですか?」
夕食を終えたファウスタは、今日はもう休むようにとマクレイ夫人に指示された。
ファウスタは屋根裏の使用人部屋に戻るため、アメリアに付き添われて使用人階段を上っていた。
アメリアがランプを持って先導してくれている。
「ええ。見習い女中は夕食の後は、厨房の流し場の仕事をするの。眠れるのは夜十一時頃よ。何もなければ……」
ランプの光がアメリアの顔を温かい色に照らし、濃い影を作っていた。
「何かあったら違うんですか?」
「旦那様がお客様を招いて晩餐会を開かれると、皿洗いが深夜までかかる事があるの」
「深夜まで?! そんなに?!」
ファウスタは孤児院で皿洗いをやらされていたが、さすがに深夜までかかる事はなかった。
夜も寝れず皿を洗い続ける事を想像して、仕事の厳しさに驚いた。
「お客様が十五人くらいいらしたらお皿は五百枚くらい使うの。そりゃあ洗い物が大変になるのよ」
「五百枚?!」
五百枚もの皿がある事にファウスタは驚かされたが、その枚数をたった十五人で使うことにも驚いた。
孤児院は二十人くらいいたがお皿は百枚もなかったように思う。
「今日は何もないから大丈夫よ。……当分何もないわよ」
アメリアは少し顔を曇らせ、意味深に言った。
「今年はもうあるか解らないけど……無いかもしれないけど……でもきっと、いつかはまた晩餐会が開かれるわ。晩餐会は大変だけどやりがいがあるの。ちょっとしたお祭りみたいなものよ。お料理もすごく豪華なものが作られるし、厨房が戦場みたいに忙しくなるの。そのときは男の子たちも厨房を手伝うのよ」
「ユースティスさんも?」
ドムとルーイは想像できたが、ちょっと偉そうにしているユースティスが野菜の皮むきや皿洗いをしている姿が想像できなくてファウスタはアメリアに問った。
「あの子は厨房はやらないわね。あの子は見習いじゃないから」
「男の子の中で一番小さいのに見習いじゃないんですね」
「あの子は子供だけど上階の仕事をしてるの。ちょっと特殊な子なのよ。部屋も地下じゃなくて三階にあるし」
「三階に?」
「そう。男性使用人はふつう地階の使用人部屋に住んでるんだけど、あの子は特別に上階に部屋を貰ってるのよ」
(三階に屋敷精霊様が現れなくなったのって、ユースティスさんのせいじゃ……)
精霊は吸血鬼の前には出て来ないというネルの話を思い出し、三階に屋敷精霊が出て来なくなったのは悪魔のせいではなく吸血鬼のユースティスが住んでいるせいではないかとファウスタは疑惑を膨らませた。
「上階に住んでる使用人は侍女以外ではあの子だけよ。家令のアルカードさんは上階に住まわれてもおかしくない方なんだけれど、地階がお好きでずっと地階にいらっしゃるんですって。だからユースティスは男性使用人の中では一番良い待遇を受けているのよ」
(アルカードさんは吸血鬼だから地下が好きなのね。ユースティスさんも吸血鬼なのに三階で眩しくないのかしら)
「ユースティスは身分は下級使用人の小姓だけど、上階で大人と同じ仕事をしてて、上級使用人の三人より格上の部屋に住んでるの。だから本当は使用人食堂で給仕の仕事をする必要ないんだけど、他の見習いの子に気を使ってるんじゃないかしら。そういうところも抜け目ないのよね」
「ユースティスさんは子供なのに偉い人なんですね」
「偉いというより、家具ね」
「え……」
意外な単語が出てきてファウスタは首を傾げた。
「貴族の方々にとって人前に出す使用人は自慢の家具みたいなものなの。見栄えの良い使用人を揃えていることが貴族の格になるのよ」
アメリアは渋いものを食べたように顔を顰めた。
「ユースティスはファンテイジ家の自慢の家具で、ご家族全員のお気に入りだからとても贔屓されてるの。ううん、ご家族だけじゃないわ。他家からの贈り物も凄いし、引き抜きの誘いも結構あるの。ちょっと特殊なのよ、あの子」
(魅了の魔術かしら)
ユースティスの能力を知るファウスタは、アメリアの話から魅了魔術の存在を疑った。
「誰かに贔屓されてるっていう人間らしい贔屓じゃないのよ。多分あの子は地上の何処にいても贔屓されるの。あれはもう神様の依怙贔屓よ」
真相を知るファウスタは内心で異を唱えた。
(神様の依怙贔屓じゃないわ。だって吸血鬼は魔物で、魔物は神様の敵だもの。神様の反対だから魔王の依怙贔屓かしら。でも魅了の魔術だよね)
階段が三階に差し掛かったので、悪魔の話が気になっていたファウスタは階段の外を振り向いた。
廊下はランプが灯されているのか暗闇ではない。
(……!!)
壁からぬっとお姫様の幽霊が顔を覗かせてファウスタを見た。
壁から上半身を出しているので、壁に掛けられた飾りのようにも見えた。
「物が飛んだりするだけで、そんなに怖いことが起こってるわけじゃないのよ。他の階と違って物が壊れるだけで」
足を止めて三階の廊下を見ているファウスタに気付いて、アメリアも足を止めると三階について説明した。
「若様やお嬢様も三階に住んでいらっしゃるし、ユースティスも三階で全然平気なんだから、大したことは起こっていないのよ。今のところ」
ランプを持つアメリアの手元が揺れて、アメリアとファウスタの影も揺れた。
お姫様の幽霊には影はなく、ランプの光はすり抜けているようだった。
「でももし悪魔がいて、あなたが悪魔を見破ったら、今までと違う事が起こるかもしれないわ。もし悪魔と目が合ったら作法は気にせず走って逃げなさいね」
「……はい」
お姫様の幽霊はひとしきりファウスタを眺め、また壁の中に引っ込んで消えた。
「じゃあ私は戻るからね」
屋根裏の使用人部屋で、夜着に着替えたファウスタがベッドに入るところまで見届けると、アメリアは言った。
「朝は六時半からよ。しっかり休んでおくのよ」
「はい、ありがとうございます」
「それじゃあ、おやすみなさい、ファウスタ」
「おやすみなさい」
ランプを持ったアメリアが部屋を出て扉を閉めると、部屋の中は青ざめた月明りだけになった。
(誰もいないって、こういう事なのね)
孤児院では一つの部屋にベッドがいくつも並べられていて、何人かが同じ部屋で寝ていた。
たった一人で寝るなんて、ファウスタにはほとんど初めての体験だ。
孤児院に来るよりずっと前に、一人で寝ていた事があるような気もしたが、思い出せなかった。
(さらっさら)
ファウスタはシーツの手触りを確かめた。
孤児院のごわごわしたシーツとは全然違う、さらさらのリネンのシーツだった。
(このお屋敷は上等なものばかりね)
やわらかい固焼きパン、分厚い肉詰めパイ、大きなロースト肉。
美しいカップに宝石のような高級品のお茶。
しゅっとした大人の使用人たち、賢く勤勉な見習いの少年少女たち。
女王様にお褒めいただけるような針仕事をするお方。
さらさらのリネンのシーツ。
こんなお屋敷に住まわせてもらえて、美味しいものを食べさせてもらえるだけで幸せなのに、更に給金もいただけるのだ。
なんという幸運だろう。
人間ではないアルカードが恐ろしくて、マークウッド辺境伯家のメイドの仕事の話を喜べなかったとき、『ファウスタ、あなた幸運よ!』と真理を説いてくれたジゼルの笑顔が、閉じた瞼の裏に浮かんだ。
(もう十時だもの、孤児院のみんなはとっくに寝てるよね)
孤児院の院長が言ってた『上等の仕事』という言葉の意味が、このお屋敷に来てファウスタにもようやく解った気がした。
院長が言っていた事は正しかった。
このお屋敷のメイドの仕事を断ろうとしていたファウスタは浅はかで、院長の方が賢かったのだ。
嫌がるファウスタに、この仕事を強引に勧めてくれた院長は、ファウスタの本当の幸せを考えてくれていたように思えた。
(院長先生のことずっとお金に汚い悪い大人だと思っていたけど、私は物知らずで浅はかな子供だったんだわ。院長先生の本当の姿が見えていなかったのよ。院長先生は本当に私の幸せを考えてくれていたのに)
ファウスタは院長のことをずっと軽蔑していた自分が恥ずかしく、謝罪したい気持ちでいっぱいになった。
(院長先生、金の亡者なんて言ってごめんなさい)
もう一度院長先生に会えたなら、ファウスタはちゃんとお礼を言って感謝を伝えようと思った。
さらさらの気持ちの良いリネンに包まれて、ファウスタは眠りに落ちた。




