119話 国難の化身(1)
(あの悪魔の前に、私は無力だった)
二十年前、ロジャー・シスレーは王宮料理人だった。
その二十年前の事件から、その後の二年間の出来事は、ロジャーの中でいつまでも鮮烈な記憶として残っていた。
頭から追い出そうとしても、ふとした拍子に勝手に浮かんで来る、まるで呪いのような記憶だった。
――およそ二十年前。
王太子でありタレイアン公爵である第一王子エグバートの婚約が正式発表された。
前年に王配殿下が逝去し、国中が喪に服した後ということもあり、王室の久々の明るい話題に国中が沸いた。
王太子妃に選ばれたのはフラウド伯爵令嬢マルシャ・グレイス・フラウド。
男爵家の生まれながら、優秀さを見込まれて伯爵家の養女となった稀代の才女という触れ込みであった。
女性の身で大学入学資格試験に合格し、タレイアン大学を卒業したフラウド伯爵令嬢マルシャが、いかに容姿端麗で頭脳明晰な令嬢であるかを新聞社は連日こぞって書き立てた。
新聞に掲載されたマルシャ嬢の写真を初めて見たとき、ロジャーは特に美人だとは思わなかった。
目鼻立ちのはっきりした整った顔立ちではあったが、獲物を狙うようなギラギラした目と、どこか意地の悪そうな歪んだ口元にむしろ不快感を覚えた。
だが突然、世間に注目されたら、笑顔が不自然にもなるだろうと、その表情の違和感を好意的に解釈した。
毎日、新聞記者に囲まれて、心穏やかではなくなっているのだろうと。
それが好意的な誤解であったと気付くのは、それから半年後、王太子の結婚式当日のことである。
王太子の結婚が正式に決まり、様々な準備が開始された。
慣例により、エグバート王子は結婚後、女王の居城であるマーグンキブ宮殿から、代々のタレイアン公爵の居城であるロスディン城に移り住む。
エグバート王子の結婚後の新生活を支えるために、王宮の有能な侍従や侍女たちの幾人もがロスディン城への移動を任命された。
それは次世代の王室を支える選りすぐりの側近たちであった。
「ロジャー、行ってくれるか」
王宮料理長バクスレイ氏の右腕として活躍していたロジャー・シスレーはこれに選ばれ、ロスディン城の料理長に任命された。
「次代のイングリス料理の伝統を守ってくれ」
王宮料理長バクスレイ氏は、伝統的イングリス料理が忘れ去られようとしている状況を憂いていた。
庶民の子供たちが家庭料理を習う暇もなく外へ働きに出る時代において、イングリス王国の家庭料理のレシピは子供たちに継承されず失われつつあった。
上流階級ではロンセル料理が持て囃されており、貴族たちはロンセル人の料理人を雇いたがった。
今やイングリス料理の伝統は風前の灯だ。
「王室の厨房はイングリス料理の伝統を守る最後の砦だ。頼んだぞ」
「はい、料理長」
イングリス料理の伝統の守り人として、次世代を担う王太子夫妻の食を支えるという大任をロジャーは真摯に受け止めた。
一生涯をかけて必ずやりとげようと固く決意した。
しかしエグバート王子の結婚式当日に早くも暗雲が立ち込める。
「エグバート王子殿下! このようなところへ!」
華やかな結婚式が行われ、国中がお祭り騒ぎとなった当日。
日中の婚儀を終えたエグバート王子が、花嫁マルシャ妃を腕にぶらさげて王宮の厨房にふらりと現れた。
「何か食べるものがないか探しに来た」
エグバート王子はふにゃりとした笑顔でおかしなことを言った。
王子に腕を絡めて体を寄せているマルシャ妃は、目をギラつかせて勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。
軽食が必要なら、侍従や侍女に言えば済むことだ。
そもそも付き従っているはずの侍従や侍女たちはどうしたのか。
何故、王子とマルシャ妃が二人連れで厨房にふらふら立ち入って来るのか。
酷くおかしな状況であった。
王子とマルシャ妃が、面白半分に侍従や侍女たちをふりきって脱走した事をロジャーが知ったのは後日のことである。
マルシャ妃の為人の真実を知った後日であれば、何が起こったのかは容易に推測できた。
マルシャ妃は持ち上げられれば持ち上げられるほど、万能感を得て、鎖から解き放たれた獣のように猛り出す。
婚儀が行われたレツニム大聖堂からマーグンキブ宮殿までのパレードで、大群衆に歓喜で迎えられたマルシャ妃は大層高揚し上機嫌だったという。
万能感が頂点に達していたのだろう。
だが初めてマルシャ妃に相対したその時は、その性質を誰も知らなかった。
「すぐにお持ちいたします。どうかお部屋でお待ちください」
厨房に入ろうとする王子とマルシャ妃を制止しようと、厨房女中や料理人が苦言を呈した。
王族の体に直接触れることは不敬なので、言葉でどうにか止めるしか手立てはなかった。
「あ! 良いものあるじゃなーい!」
厨房の中をギラギラした視線で物色していたマルシャ妃は、突然に奇声を上げ、にちゃりとした微笑みに顔を歪めた。
マルシャ妃は王子の腕をぱっと離れ、巨大な焼き菓子を目指してドタドタと走り出した。
「これ美味しそう!」
王太子であるエグバート王子の結婚という一大行事を祝うため、厨房では祝宴のための様々な準備がなされていた。
巨大な焼き菓子もその一つだ。
その巨大な焼き菓子はたっぷりのクリームと、何種類もの果実とで、宝石を散りばめた白亜の塔のように飾られていた。
王国北部の何種類かのクリームやバター、王国南部の果実たちやジャムなど、王国全地域の食材を結集した渾身の一品であった。
「エグバート! これ食べましょ!」
マルシャ妃は弾けるような笑顔で、巨大な焼き菓子に素早く手を伸ばした。
「そ、それはっ!」
メイドが半ば悲鳴のような声を上げた。
周囲の制止の声がまるで聞こえていないかのように、マルシャ妃は巨大な焼き菓子にずぼっと手をつっこむと、焼き菓子の一角をむしり取って齧り付いた。
たくさんの宝石で飾られた白亜の塔のごとき美しい焼き菓子は、落雷を受けたかのように無惨な傷を晒した。
その場に居合わせたタロット占い好きのメイドは、後にこの光景を「塔のカードが目の前に現れたようだった」と語った。
「美味しいわよ! エグバート、貴方も食べなさいよ」
口の周りをクリームだらけにして、マルシャ妃は手づかみで焼き菓子をむしゃむしゃと食べた。
口に物を入れたまましゃべるのも有り得ないが、手づかみも有り得ない、クリームだらけの顔も有り得ない。
庶民ですらこれは無いだろうと思われるほどの野蛮であった。
それより何より、妃の身で王子に上から命令するのが有り得ない。
人目のない場所での諫言ならば問題無い。
だが今は大勢の者の目の前であり、しかも諫言とは真逆の奇行の指示だ。
衆目の前で奇行せよと妃が王子に指示し、王子が諾々とそれに従うとは。
悪夢のような光景だった。
(これが……才女……?)
王太子でありタレイアン公爵であるエグバート王子の身分を足蹴にすることは、その妃となったマルシャ妃自身の身分にも泥を塗る行為だ。
マルシャ妃がエグバート王子の身分を貶めて何故得意気に勝ち誇った笑顔を浮かべているのか、ロジャーはさっぱり理解できず混乱した。
新聞社が連日、頭脳明晰だの才女だのと書き立てていたマルシャ嬢とは、あまりにも落差がある現実が目の前にあった。
どこからどう見てもその焼き菓子は特別な超大作であり、今日は王太子の結婚を祝う特別な晩餐会がある事を、祝宴の主役である二人は知っているはずだ。
どういう意図で作られた焼き菓子なのか、子供の知性でも解るような事だ。
「本当だ、美味しいね!」
エグバート王子は悪びれず、無邪気な子供のように焼き菓子のクリームを指ですくいつまみ食いをした。
「気取ってないでもっと思い切ってガブッと行きなさいよ」
マルシャ妃に促され、エグバート王子も素手で焼き菓子を千切り取り齧り付いた。
そして何が可笑しいのか、二人は大口を開けて大笑いした。
わざとなのか、二人は焼き菓子の一か所だけではなく、あちこちの部分をむしり取り、広範囲に傷をつけた。
まるで壊す事を楽しんでいるようだった。
「お、おやめください!」
厨房の人々の制止の声がむなしく響く中、王子とマルシャ妃はますます大はしゃぎで焼き菓子を崩した。
自分たちの一世一代の祝宴のための特別な焼き菓子を滅茶苦茶にし、幼児のような顔で楽しそうに笑い合う、二十四歳のエグバート王子と二十一歳のマルシャ妃。
その光景に厨房の者たちは愕然とした。
「エグバート王子殿下! これは一体!」
知らせを受けた料理長バクスレイ氏がその場に飛び込んで来た。
無惨に食い散らかされた特別な焼き菓子を前に、普段の赤ら顔は血の気が失せて真っ青になった。
「ご自分が何をなさったのかお解りですか!」
王子に苦言を呈するバクスレイ氏を、マルシャ妃は嘲笑った。
「焼き菓子くらいで大騒ぎしてバッカじゃないの。貧乏臭いわね」
マルシャ妃のその言葉に、何が面白いのかエグバート王子は大爆笑した。
クリームまみれの顔と手で、王子とマルシャ妃はゲラゲラ笑いながら厨房を出て行った。
野生の獣に荒らされたような厨房で、人々は呆然として声をなくしていた。
静まり返った厨房に、廊下の方から二人がはしゃいでいる声が響いた。
「貧乏人たちがみんな慌てちゃって! 面白かったわね! あの顔、傑作!」
「ハハハッ! マルシャといるといつも楽しいよ!」
「焼き菓子なんて幾らでも作れるのにねー。あんなに慌ててバッカみたい。貧乏性がしみついてると大変よねー」
「仕方ないさ。料理人は庶民だから。僕らとは生まれが違うんだよ」
「そうね! 生まれが違うものね!」
台無しにされた焼き菓子の代わりに、急いで代わりの焼き菓子が作られた。
だが晩餐が数時間後に迫っていた状況では、時間も材料も不足していたので、同じものを作ることは断念せざるをえなかった。
王国中の実りを集めた祝いの焼き菓子という主旨を達成することは最早不可能となり、メニューを変更することになった。
エグバート王子とマルシャ妃は結婚当日の祝宴からケチがついた。
そしてそれは当人たちが自ら行ったことだった。
(あれが、才女……?)
ロジャーには、国中の実りを集結させた白亜の宝石の塔の無惨な姿が、踏みにじられた国民のように思えた。
実際、多くの国民の手により育てられた作物たちの晴れ舞台を、彼らは台無しにしたのだ。
晩餐のメニューが後日公表されたとき、国中の実りを結集した焼き菓子はちょっとした美談として語られただろう。
故郷の実りが祝いの席に出されたことを国民は誇ることが出来ただろう。
だが国民の祝意の形となるはずだった焼き菓子は、国民に祝われる当事者たちの手によって破壊されてしまった。
一大慶事の晩餐とあって明るい活気に満ちていた厨房は、一転、墓場のような真っ暗な絶望に支配された。
エグバート王子とマルシャ妃は、まるで魔法使いのように、希望に満ちた活気を瞬時に絶望に変えたのだ。
このときのロジャーは、その事件を突発的な事故のように思っており、まさかそれがロスディン城の日常になるとは露ほども予想していなかった。
人々からことごとく笑顔を奪い絶望させる、マルシャ妃の稀なる才能にロジャーが気付くのはもう少し後のことだ。




