102話 予言者ファウスタ
「とても良く書けていますよ、ファウスタ。院長先生の素晴らしいお人柄が伝わって来るわ」
ファウスタの日記を検分しながら、家庭教師のポラック夫人は微笑んだ。
「貴女が望むなら、院長先生にはいつでも会えると思うわ」
「そうでしょうか」
「そりゃあお仕事がお忙しいでしょうから時間の都合をつけるのは難しいかもしれないわ。でも貴女が会いたいと望むなら、きっと会って下さるわ」
――遠い所なので院長先生にはもう会えないです。
そんな言葉でファウスタの日記には院長との別れが綴られていた。
まるで永遠の別れであるかのように残念そうに書かれていたので、ポラック夫人はそのことについてファウスタを励ました。
「たしかに此処からは少し距離があるから、子供が気軽に行ける場所ではないけれど、地の果てというわけではないのよ」
此処からラシニア孤児院の建つ教会区までは、子供が歩いて行ける距離ではないし、子供の身では辻馬車も難しい。
主人の命令であれば屋敷の馬車で行けるが、子供が自分の意志で行くには距離的に困難だ。
ポラック夫人はファウスタが距離と手段に絶望しているのだろうと思った。
「馬車さえあれば行ける場所なのだし……」
ポラック夫人は、子供のファウスタが遠出する手段について思案した。
「そうだわ、執事のバーグマン氏にお願いするのはどうかしら。彼は整備のために定期的に蒸気自動車を走らせているの。決まった場所に行くわけではないから、お願いしたら乗せて行ってくれるかもしれないわ。私もバーグマン氏に蒸気自動車で実家まで送ってもらったことがあるの」
「蒸気自動車とは何でしょう」
「馬車みたいなものだけれど、馬ではなく蒸気で走らせる車なの。見た事はないかしら?」
不思議そうな顔をしているファウスタに、ポラック夫人は蒸気自動車とはどういうものなのかを説明した。
「まだまだ珍しいものだけれど、このお屋敷には最新式のものが色々ありますからね。勉強のために見せてもらえるよう、私から奥様にお願いしてみましょう。そしたら蒸気自動車のことを日記に書いてもらえるかしら?」
「はい、ポラック先生」
前向きなファウスタの返事に、ポラック夫人は満足気に微笑んだ。
このところファウスタの日記の文章量は格段に増えている。
前回のロスマリネ家での心霊調査について書かれた日記も大作であったが、今回の孤児院訪問についての日記も力作だった。
幽霊も人間も等しく登場している珍妙な日記ではあったが、その珍妙な部分についてはポラック夫人は言及しなかった。
ポラック夫人には大人の知性と教養があったので、幽霊は空想の産物であることを知っていた。
しかし今ここで幽霊の存在を否定する必要はないと判断した。
まだ子供のファウスタが幽霊や魔法を信じているのは、年相応の空想であるとも言える。
ここでポラック夫人が指摘しなくとも、ファウスタが成長して大人の知性を身に着けたなら、それが空想の産物であることを自然に理解するだろう。
いずれ時間が解決する問題だ。
ここで急いで、大人と同じ考え方を強要する必要はない。
そもそも日記を書かせているのは文章の練習のためだ。
例えそれが空想であっても、たくさんの文章を書くことは歓迎すべき事だった。
「すみません、ポラック先生。私は歴史のお勉強をしたいのですが、教えていただけるでしょうか」
「まあ、歴史に興味があるの?」
「はい。マークウッド辺境伯やロスマリネ侯爵は歴史をご存知で、幽霊がデュランさんであることにすぐ気付きました。私も歴史を習って、幽霊の正体が解るようになりたいのです」
(勉強の意欲になっているのなら、幽霊も悪くないわ)
「ポラック夫人がおっしゃっていた通り、ラシニア孤児院から来た二人は初等教育を受けていました」
「やはりそうなのね」
家政婦長マクレイ夫人の話に、ポラック夫人は頷いた。
家庭教師として本日の仕事を終えたポラック夫人は、上級使用人の休憩室でもある家政婦長室で、マクレイ夫人と共にお茶を飲みながら世間話のような情報交換をしていた。
家女中の中では年若いポリーが作法の勉強も兼ねて、二人の給仕をしていた。
「はい。二人とも文字が読めますし、計算もできます」
「ファウスタは明らかに教育を受けていましたからね。ラシニア孤児院は初等教育をしっかりやってるんじゃないかと思ったのよ」
「ええ、驚きました」
「最近はあまり知られていないけれど、ラシニア孤児院はもともと孤児に教育を与える主旨の施設だったのよ」
ポラック夫人は教育に携わる大人らしい教養を披露した。
「全ての子供に教育を与えるという理想の下に、パトリシア王女が私費を投じて作られた孤児院だったの。でもそんな理想の実現は今の時代でも不可能。夢物語よ」
ポラック夫人は残念そうに微笑んだ。
「だから結局、パトリシア王女の理想の孤児院はラシニア孤児院だけで終わってしまったの。でもその伝統が今でも受け継がれていたなんて驚いたわ。伝説の生き物に出会った気分よ。さすが王室が運営する特別な孤児院ね。何百年も伝統が引き継がれていたなんて」
「お役所仕事ですね」
マクレイ夫人は冷めた顔で呟き、小さく溜息を吐いた。
「幸運な養子縁組でもない限り、孤児の行く末は労働者です。半端に学があっても生きにくいだけでしょう」
「そうね。とても悲しい事だけれど貴女の言う通りよ。孤児院は教育よりも仕事の斡旋に力を入れるべきね」
ポラック夫人は悲し気に眉を歪めた。
「ファウスタはちょっと夢見がちだけれど頭の良い子よ。そういう事も薄々気付いていたのかもしれない。日記に突発的に不穏な事を書くのは、きっと不安の表れね」
「不穏な日記なのですか?」
「普段は普通の日記よ。幽霊が登場しているけれど、それ以外は普通。でも突然脈絡なく不吉な事を書くの。作法学校は気が狂うとか……不吉なイメージを綴るのよ」
「なるほど。新聞記事を読んだのですね」
「新聞記事?」
マクレイ夫人から出た意外な言葉に、ポラック夫人は問い返した。
「昨日の新聞です。ご存知ありませんか? パルム作法学校の死亡事故」
「死亡事故?!」
あまりに衝撃的な事件に、ポラック夫人は驚きの声を上げた。
王立パルム作法学校は淑女教育で有名な国一番のお嬢様学校である。
不祥事などからは最も遠い名門で、女王の孫であるアントニア王女も現在パルム作法学校に通っている。
「気鬱の病からの自死だとか。校内での事件だったので衝撃を受けた生徒も多いようです。学校は現在一時閉鎖。お嬢様が作法学校を拒否なさったときはご心配申し上げましたが、こうなると、行かなくて大正解でした」
伝統ある名門校での事件にポラック夫人は衝撃を受けたが、ファウスタの日記との時系列にも大混乱していた。
「……ちょっと待って、待って、マクレイ夫人、昨日の新聞ですって?」
「ええ、そうです」
「ファウスタが作法学校の事を書いていたのは、もっと以前の日記よ」
「それはどういう事ですか?」
「どういう事なのか、私にも解らないの……」
ポラック夫人は大いに動揺した。
お茶のカップのハンドルをつまんだ手が小刻みに震え、陶器がカチカチと音を立てた。
「マクレイ夫人、ちょっと確認したいのだけれど……」
「はい」
「喫茶店で最近事件が起こったかしら?」
「ああ、詐欺事件のことですか?」
「詐欺事件!」
記憶にある犯罪の名称に、ポラック夫人は大きく目を見開いた。
――作法学校は気が狂ってしまう恐ろしい場所です。
――喫茶店は詐欺師と人攫いがいる恐ろしい場所です。
それはかつてファウスタが日記に書いていた脈絡のない書き付けだった。
「西タレイアンの喫茶店の事件ですね」
マクレイ夫人は事件をざっくりと語った。
詐欺事件の主犯が喫茶店の経営者であり、店が犯行に使われていたこと、主犯は奴隷売買にも関わっていたことなど。
「詐欺師で人攫いだったというの?!」
「ええ、恐ろしい事です」
「その事件はいつ起こったの?!」
「一昨日の新聞だったと思います」
「一昨日?!」
ファウスタの書き付けとの一致に、ポラック夫人はまるで幽霊に出会ったかのように顔色を変えていた。
事件の報道より、ファウスタの日記の方が大分早い。
「ポラック夫人? 大丈夫ですか?」
「ロスマリネ侯爵を訪ねるより、前だったのよ……」
「何の話です?」
「ファウスタの日記よ!」
おかしな事を口走りはじめたポラック夫人に、マクレイ夫人と給仕のポリーは訝し気な視線を向けた。
「……ファウスタの日記に書かれていたのよ。作法学校で気が狂うとか、喫茶店に詐欺師と人攫いがいるとか。一週間以上前のことよ」
ポラック夫人は取り乱し、驚愕に顔を引きつらせた。
「まさか、まさか……予言だったというの?!」
ポラック夫人の叫びに、マクレイ夫人は首を傾げ、ポリーは瞠目した。




