01話 奇妙な少年
(幽霊っぽくないけど……幽霊かな)
ファウスタは本を読むふりをしながら、幽霊かもしれない奇妙な少年をちらちらと窺い見た。
貴族や富豪たちは慈善家であることを顕示するため、しばしば孤児院を訪れ寄付をする。
今日もそういった貴族たち五人ほどの一行が、ラシニア孤児院を訪問していた。
(あの貴族の中の誰かに憑いてるのかな)
立派な身なりの貴族たちの中に、その奇妙な少年は混じっていた。
もちろんこの孤児院の子供ではない。
貴族たちは、絹製の帽子に、上等そうな生地の膝丈の上着、立て襟のシャツにタイを結び、手にはステッキという、上流階級の服装に身を包んでいる。
だがその少年は、古着のようなクタクタの生地の上着をひっかけ、ボサボサの黒髪、ズボンは丈が足りないのか踝が見えていて、靴ではなくサンダルのようなものを履いていた。
大人の貴族たちよりは小柄だが、十二歳のファウスタよりは大きかったので、十代半ばくらいの年齢だろうか。
不潔な感じはしないが貧相で、洗濯したての服を着た労働者か貧民という風体だった。
どう見ても場違いな少年が、立派な身なりの貴族たちの一行に混じっているのに、奇異の目を向ける者は誰一人としていなかった。
貴族たちを案内する院長のカニング先生も、その少年が目の前をウロチョロしているのに、まるで気にしていない。
(他の人には見えてないみたいだから、やっぱり幽霊だよね)
ファウスタは奇妙な少年から目を逸らし、手に持っている本に視線を落とした。
幽霊だとしたら、目を合わせるべきではない。
目が合ったら執着されてしまうかもしれないから。
「お前、俺が見えるのか」
耳元のすぐ近くで声がして、ファウスタは反射的に顔を上げて振り向いた。
先ほどの奇妙な少年が、いつのまに来たのか、ファウスタのすぐ横にいて顔を覗き込んでいた。
「ふぎゃんっ!!!」
吃驚したファウスタは、変な大声をあげた。
孤児院の勉強部屋を兼ねた居間に、ファウスタの奇声が響き渡った。
皆が一斉にファウスタのほうを振り向く。
お行儀よく遊んで見せていた子供たちも、それを見学していた貴族たちも、院長のカニング先生も、みんな目を丸くしてファウスタに注目した。
「どうしたのです、ファウスタ」
小さな子供たちに絵本を読み聞かせていたバーチ夫人は、立ち上がってつかつかとファウスタに近付いて来た。
バーチ夫人は作り笑いを浮かべていたが、目が怖かった。
貴族が来る日はお行儀良くするようにと注意されているにもかかわらず、よりによって貴族の目の前で奇声を上げたファウスタを見るバーチ夫人の目は厳しく威圧的で、「これ以上、不作法をしたら許さない」と無言で語っていた。
そのバーチ夫人のすぐ隣で、奇妙な少年がファウスタに謝るような仕草をしている。
「す、すみません。あの……虫がいてびっくりして……でも見間違いで、何もありませんでした」
「そう。なんでもないのね?」
「はい、なんでもありません」
「そう。なんでもなくて良かったわ」
「はい、すみません、バーチ夫人」
ファウスタが適当に言い訳をすると、バーチ夫人は再び小さな子供たちに絵本の読み聞かせをするために戻っていった。
居間にはまた雑談の波がもどった。
院長は「あの子は慌て者でして」などと言いファウスタの奇声を上手くはぐらかし、貴族たちと談笑していた。
「びっくりさせて悪かったな」
他の人には見えないらしい奇妙な少年は、ファウスタに謝罪した。
「ファウスタ、さっきの大声、どうしたの?」
ファウスタと同い年のジゼルが、バーチ夫人と入れ替わりにファウスタのすぐ隣に移動して来て、トーンを抑えた小声で聞いてきた。
ファウスタの隣、ジゼルの目の前に奇妙な少年がいるのだが、ジゼルは少年に目もくれない。
やはりジゼルにも見えていないらしい。
「幽霊でもいた?」
「うん、まあ、幽霊、かな?」
「ファウスタが幽霊で驚くなんて珍しいね。いつも平気なのに。そんなに怖い幽霊だったの?」
ジゼルは少し興味が湧いたのか、ファウスタに問いかけた。
そんなジゼルの言葉を聞いて、奇妙な少年もファウスタに問いかけた。
「いつも幽霊が見えるのか? まあでも幽霊が見える奴はそこそこ居るから珍しくもないが、俺のことが見えるのは珍しい。噂に聞く魔眼かもな」
ファウスタは正面にいるジゼルの方だけを見て、横にいる少年が顔を覗き込んできても目を合わせないよう努めた。
他の人には見えも聞こえもしないのだ。
幽霊の相手をしても何の得にもならないし、むしろ相手をしたら頭がおかしいと思われ、気味悪がられ、嘘つきと罵られ、損をする。
幽霊なんか無視が最善だ。
「急に出て来たから、ちょっと驚いただけ。怖くなんかないよ。将来のこと考えたら幽霊なんて怖がるのは馬鹿々々しいもん。幽霊は見えるだけで何もしないけど、仕事がなかったら食べる物が買えなくて死んじゃうから」
ファウスタは奇妙な少年は居ないものとして扱い、自分に言い聞かせるかのように、ジゼルの先ほどの問いに答えた。
「そうだよねぇ。幽霊より現実のほうが怖いよねぇ」
ジゼルは奇声の原因についての好奇心から、現実問題に頭が切り替わり、諦めの混じった冷めた顔でうんうんと頷いた。
孤児たちが孤児院で面倒を見てもらえるのは十二歳までだ。
此処ラシニア孤児院は伝統ある孤児院だったので、養子を望む大人たちには人気が高く、大半の子供は十二歳になるまでには里親が決まった。
養子を望む大人たちに最も人気があるのは、希少価値がある金髪や青い目の子供だ。
次に美しい子供、愛嬌のある子供らしい子供。
ファウスタの髪はやや赤味がかった茶色で、ジゼルの髪は落ち着いた濃茶色だったが、そんなものは誤差のような違いでしかなく、見学者たちの目には同じ茶色に見えるのだろう。
そういうわけで、ありふれた茶色の髪に茶色の目で、人目を引く美貌も、愛嬌のある笑顔もないファウスタとジゼルは、里親が決まらぬまま十二歳になってしまった。
十三歳になったら孤児院を出て行かねばならない。
そのため十二歳までに里親が決まらなかった子供たちには、自立に向けて仕事の斡旋がある。
斡旋される仕事は大抵、工場の働き手の仕事だが、子供は安い給金で雇われるのに仕事内容は大人と同じで過酷なのだという不穏なニュースを耳にしていた。
「もうすぐ十三歳だもんね。どこかのお屋敷で住み込みで働けたらいいけど、最近はメイドを減らしてるお屋敷が多いから、メイドの仕事は奪い合いらしいよ」
ジゼルは人生に疲れ切った大人のように、小さな溜息をついた。
「工場に行くしかないのかなぁ」
「ピコの話が本当なら、工場は怖いから行きたくないな。紡績工場は背中が曲がるとか、マッチ工場は三年で病気になるとか」
「新聞に書かれてたんだから本当の話じゃない? 怖いよね」
ピコは一歳年下のとても頭の良い少年だ。
栗色の髪はやぼったいくせ毛で、近くでよく見ればただの茶色ではなく青色が混じった榛色の目なのだが、遠目には茶色にしか見えない。
ぱっとしない地味な容姿で、しょっちゅう眉間に皺を刻んで難しい顔をしている彼は、元気よく走り回ることなどないので、見学者の好意的な眼差しを集めることはなかった。
それゆえやはり里親が決らないまま十一歳になった。
ピコは「働くなら世の中を知っておかなきゃ」と言っているので、自分が里親に引き取られるという夢はもう見ていないのだろう。
院長室に忍び込んでは新聞を盗み読み、仕事についてのニュースを積極的に仕入れていた。
メイドの雇用が減っている話も、工場の働き手が病気になる話も、ピコから教えてもらったニュースだった。
「貴族の人たち、寄付するだけじゃなくて雇ってくれればいいのにね」
「あの人たちは、慈善家っていう評判が欲しいだけだよ」
「偽善者だよねぇ」
「ねー」
奇妙な少年はファウスタとジゼルの世間話に「なるほど、なるほど」と頷いていた。
そしてまたファウスタに語りかけてきた。
「じゃ、メイドとして雇うよ」
ファウスタは奇妙な少年の言葉に、内心で呆れ返った。
幽霊なんて自分の墓で大人しくしている善良な者を除けば、勝手に他人の家に住み着いている不法占拠の輩か、さもなくば道端で暮らす浮浪者しかいない。
家すら持っていないのに家事使用人を雇うとは、これ如何に。
幽霊に必要なのは家事使用人ではなく、墓場の掃除人ではないだろうか。
そもそも幽霊はお金を持っていないのだから、給金が払えないと思う。
寝言は寝て言って欲しいとファウスタは思ったが、相手は幽霊なので、すでに永眠しているのだと気付いた。
(眠ってる人が言う事なら、まちがいなく寝言だね)
「じゃあ準備してくるから、今日のところはこれで失敬する」
奇妙な少年はそう言うと、ファウスタに対して大道芸人のような大げさな礼をした。
「それでは、ごきげんよう、ファウスタ。また会う日まで」
そして彼は人間のようにちゃんとドアを開けて退出していった。
この日からファウスタの人生は激変する。
固いパンと薄いスープの食事は、二日後には豪華なロースト肉やポトフに変わる事になる。
奇妙な少年が言った「また会う日」というのが、まさかたった二日後のことだとは、このときのファウスタは夢にも知らずにいた。