第六十六話 傷心のリザルト
宿に帰って部屋に戻ると、途端にどっと疲れが全身を襲った。
休むのは体を綺麗にして、服も着替えてから——そう思いつつも、ついベッドの縁に腰かけてしまう。
「は、ぁ……」
息を吐いて脱力すると、殴られるような強烈な眩暈が頭を揺らす。
ろくすっぽ寝ずに夜中に叩き起こされ、それからずっと動きっぱなしだったのだ。身も心も精神は限界に近い。
まだ寝ない。そう思いつつも全身が弛緩していき、うつらうつらと穏やかなまどろみの波が——
人を殺した。
「っ‼」
意識が眠りに落ちる直前、目の覚める鮮明さで脳裏にフラッシュバックする顔にアレンは顔を跳ね上げた。
二つの顔。嘆くような表情で痩せこけた頬の男と、鋭い目を見開いて怨嗟に顔面を歪ませた男。さらにその奥では、首から上の見えない大男が、それでもわかるほど物言いたげな非難の視線でアレンを見つめる。
「う、あ」
眩暈がした。さっきよりも遥かに強烈な、平衡感覚を狂わせるほどの。
イベントも終わり、戦場の高揚が冷め、ふと休息に身を委ねようとすると、死者がそれを許さない。怒りに目を見開いた顔が視界に浮かび、恨みのこもった声が耳から離れようとしてくれない。
寒い。突然凍えるような、体の芯に冷たい氷を埋め込まれたような寒さが全身を刺し、思わず両手で自分の体を抱く。それでも寒気は収まらず、手足がガタガタと震え、歯が勝手にカチカチと音を立てて止まない。
まぼろしだ。この冷えは体感幻覚で、瞼に映る死に顔は幻視で、耳朶に直接響くような怨恨はすべて幻聴だ。そうわかっているのに冷や汗が止まらない。なにもないのに心臓はどくどくと病的に脈打ち、細い呼吸に肩が上下する。
とても眠れない。神経が過敏で、なにをしても心が休まる気がしない。
(外に、外に出たい。風でも浴びてこよう)
眠れもしないくせに疲れを訴える体を押して立ち上がり、ドアも閉めずにふらふらと廊下を出る。窓の外はとうに明るく、清々しい朝の訪れに小鳥がさえずりで喜びを表現している。
——朝の陽を浴びて、涼しい風で心を落ち着かせよう。そうすればきっと眠れるから。
階段から一階に降り、軋む木の扉を開き外へ一歩出ると、朝にしては明るい陽射しがまたも視界を眩ませた。が、すぐに目が慣れる。大丈夫だ。
「すぅ……はあ——」
新鮮な空気を肺いっぱいに注ぎ、吸い込む息に薄い胸が微かに膨らむ。春目前のような、涼しくも陽気の予兆を含んだ風が優しく体を撫で、長い金の髪を揺らす。
落ち着かなくては。早く休んで、疲れを取るべきだ。幻覚に悩まされている場合ではない。
深呼吸。澄んだ空気が頭の淀みを払い、呼気として吐き出す。そのイメージで息を吐こうとすると、
「——ぅ、おぇっ、ぁ、うぐ」
胃が逆流した。目の奥を焼かれるような頭痛がして、思わず日陰で壁に手をついて下を向く。息の代わりに漏れるのは喉の奥から口腔内に溢れる吐瀉物で、黄緑の色をした液がびたびたと地面に落ちていく。
——殺した。また人を殺した。殺した!
「ぁ、がぁっ……うぇぇ」
苦しい。胃液とポーションとが混ざったそれが出尽くし、なおも胃は痙攣して、喉の奥からピリピリとした酸っぱいものを送ろうとする。にじむ涙が目じりから溢れ、キーンとした耳鳴りが止まらない。
瞼には常に殺した三人の——否、マグナを含めて四人の般若のような憤怒に満ちた顔が浮かぶ。脳に響く耳鳴りに混じってアレンを非難する声まで聞こえてきた。
——どうしてお前が生きている。四人も殺した殺人鬼、薄汚れた人殺しが!
ぐるぐると声が、視界が、遠のいて回転していく。手足の感覚が希薄になり、ふらふらと体が揺れる。風にそよぐ穂のように。
「——アレン?」
そんな今にも切れかかる意識の糸をつないだのは、いつの間にか外に出てきていたリーザの声だった。
アレンが廊下に出たのに気付いて、様子を見に来たのだと思われた。
「……ぁ。りー、ざ」
余程にひどい顔をしていたのだろう。振り向いたアレンを見て、リーザはしばし面食らったような様子になり、急いで駆け寄ってきた。そしてアレンの足元、黄緑色の液が地面を濡らしていることにも気づく。
「アレン……大丈夫? 顔も青白いし、目つきもなんだかおかしいわ」
「ああ、ちょっと、体調悪くて。すぐ戻るよ」
微笑もうとするも、リーザの反応を見るに引きつっただけの歪な笑みにしかならなかったようだ。心配を掛けまいと平然なふりをしたが、とても装える状態ではなかった。今も耳鳴りが止まず、気を抜くと倒れてしまいそうになる。
異常とも言えるアレンの姿に、リーザもその理由にいくらか勘付いたようだ。
罪悪感。結局はその一言に尽きる。
一日で三人も殺した。銃で頭を撃ち抜き、物言わぬ死体どころか、姿形すら残らぬ塵へと変えた。
どんな人間にも家族はいるし、元の世界に残してきたものはあるはずだ。人とまったく関わりを持たぬ人間など社会には存在しない。それらすべてを傲慢にも断ち切り、二度と話すことも見ることも、考えることすらできぬ死の淵へ叩きこんだ。
耐えられるはずがない。人の死は、到底人が背負えるものではない。直視せず、なにかに押し付けない限りは。
だが生憎、アレンはそういった信仰や思想、大義や使命といった背の十字架の押し付け先を持っていなかった。最初から倫理の壊れている人種ならばともかく、まっとうな人間の神経が人の死を軽んじさせるには、道徳を麻痺させるなにかに酔うしかない。
それができないアレンに、自らの行為を肯定することはできなかった。
「とても平気には見えないわ。やっぱり、<エルピス>の人を撃ったから……なのよね」
「……」
「その……つらいのは、わかるけど。だけどみんな心配するし、とにかく今は休むべき——」
「……ぁ?」
その一言。何気ない彼女の言葉が、ささくれた心を刺激した。
衝動が、爆発する。
「……かよ」
「え?」
「わかるかよッ! 殺してもねえのに‼」
「——」
口に出した瞬間、語気の強さと同じだけの後悔が胸を裂いた。いきなり怒鳴られたリーザは顔色を失って、時間が止まったみたいに呆然とする。
しまった、と自身がしてしまったことに気が付いても、もう遅い。吐いた言葉は無かったことにはできない。
『それ』だけは、一番口にしてはいけない言葉だった。
殺してもいないのに。その通り、リーザは一人も殺していない。
だがそれは、代わりにアレンが殺したからでもある。人斬りを躊躇する彼女に手を汚させないために、アレンはあの戦斧の大男を撃ち殺したのだ。
それを一度責めてしまえば——アレンが殺めたのは、リーザのせいなのだと言っているようなものだ。
「……そうよね。ごめん」
「ぁ」
彼女は俯き、か細い声でそう短く言って踵を返す。
その間際。銀色の前髪に覆われた目元に、陽に照らされて小さく輪郭を輝かせる雫が見えたとき、アレンの心はいよいよどん底に落ちて冷え込んだ。
言ってはいけない言葉を、無かったことにはできなくともしかし、訂正や謝罪することは不可能でないはず。背を呼び止めるためにアレンは手を伸ばし——なにもできず、傷つけてしまった彼女が去った後にゆっくりと下ろした。
わかってる。こんなものは、ただの最低で下劣な八つ当たりだ。この異世界、キメラに落ちて初めに出会い、手を差し伸べてくれた友人に対する最悪の裏切り。
それをしてしまった自分に対する、今すぐ消えてなくなりたい自己嫌悪。
サトシが——見知った人間が死に、それと本質的に変わらない、見知らぬ人間を殺した事実が心を侵す淀みとなる。それは胸の底で渦を巻き、行き場を失った挙句、友人に対する謗りとなって傷つけた。
(所詮、俺の覚悟なんてそこまでだったんだ)
——アレンはずっと、元の世界に帰ることを目的としていた。
今もそれは変わらない。だが、それに対する思いは今日、変わってしまった。
人よりも強い思いのはずだったのだ。キメラの中でも一番、自分は現実世界に対する思いが強いのだと、絶対に帰らなくてはいけないのだと考えていた。
やり残してきたことがあるから。託されたものがあるから。
別れも告げられなかった両親。手が届くやもしれぬ栄光。応援してくれる人たち。
そして、この手で命を断った亡き友の遺言のため、その行いを久しく顔を合わせていないチームメイトに伝えること。
それらのために、アレンはなにを賭してでも、絶対に現実世界に帰還する。
そう思っていた。そう思えていると、思っていた。
違った。
「人を……殺して、なにやったって駄目だ」
命を踏みにじることをアレンは許容できない。
そしてそこが、戦場で浮き彫りになったレイブンとの違いなのだ。
レイブンは殺人を躊躇しない。それが彼の、<ギルド>を率いる団長としての正義だ。邪魔をする者は誰であれ排除するし、何人斬り殺そうと表情一つ変えない。
アレンだって結果だけ見ればそう変わらない。やりたくないだとか、心を痛めているだとか、そんな言い訳を並べても結局は引き金を引いて撃ち殺している。同じ場面が再び迫れば、同じことを繰り返し、また同じように心をすり減らすのだろうと、頭のどこかで冷静な部分が言っている。
だから違うのはその結果ではなく過程と、実行にあたる心の在り方。転移者ひとり葬るのに一々死にそうな顔をしているアレンとはわけが違う。
なにより覚悟が違うのだ。そこには決して揺らがず傷つかぬ、鋼鉄の意志がある。
ああなれたら、と思う。
あの冷めた目と同じ温度を手に入れられたら、きっとなににも悩まない。
いつまでぼうっと立っていただろう。少なくともまだ昼にはなっていないし、もしかしたら数分程度だったかもしれない。
とにかく、なにをしなくとも疲れは訪れる。もう立っていることすら辛くて、とにかくアレンは部屋に戻ることにした。
耳鳴りは止んでいる。視界は少しかすむが、死人のまぼろしも見えない。幻聴も失せていた。
(ああ、ようやく休める)
今なら泥のように、死体のように眠れる。
休みたかった。ただただ、疲れた体を横たえて、なにもかも忘れてまどろみの泥濘に浸かっていたかった。現実のことも奪った命のことも、傷つけた友人のことも忘れて。
アレンはふらついた足取りで宿に戻り、階段を上がって廊下へ向かう。リーザはきっともう部屋の中だし、みんなも疲れて寝ているだろうから、誰とも顔を合わせることはない。
そう思っていただけに、アレンの部屋の隣で壁に背を預ける彼の姿にはいささか驚いた。
「やあ、これはひどい。今にも死んじゃいそうってツラしてるねぇ」
「……ユウ。なんの用だ」
階段を上がりきったアレンを見て、その男は少しだけ目を細める。
それから、浅く口元の緩んだ軽薄な笑みを張り付けた。日常と変わらない、普段のように。




