第三十九話 目を覚ますネームレス
「ど、どうするよ、これ」
「どうって……どうしましょう。これ」
——自室。
リーザに勧められて決めたのがもはや懐かしい、『黄金の鉄の塊亭』。その一室、アレンの部屋。
そこで二人は顔を見合わせては、頭を抱えていた。
普段アレンの使っているベッドは、今、別の人物が占有している。
白い少女。背丈はアレンと同じくらいだが、容姿としてはどちらかと言えばリーザに近いものがある。
透き通る肌に、淡雪のような艶やかで白い髪。無地で簡素な服を着ており、薄い胸は微かな寝息で上下する。身に着けているものも最小限で飾り気はないが、それでも身一つで芸術品じみた存在感。
リーザの妹だと言われれば信じてしまいそうな、幻想的で、儚げな少女だった。
「警察……はないんだった。児童所……もあるはずないか」
「ど、どうすれば……うう、頭がこんがらかってきたわ……!」
「とりあえず連れ帰って来ちまったけど、これ誘拐にならないよな? 心配になってきたぞ俺も……」
「ちょ、ちょっと怖いこと言わないでよー! 大丈夫よね⁉ 意識がなかったからひとまず運んだだけだしっ」
半分は冗談だったが、リーザは潤む瞳を向けてくる。案外、結構簡単にパニクるのはアレンも最近気づいたリーザの特徴だった。
まあ、なにかあっても迷子保護で通用するだろう。
妥当な落としどころと言えば、やはり<泰平騎士団>辺りに連絡だろうか。町で困ったことは大体あそこに押し付けていればなんとかなる。もちろん団員たちの尽力あってのことだが。
アレンたちが、バベルのロビーで倒れている彼女を発見したのが数十分前。
とにかく介抱し、NPCを含む出店の人たちに彼女のことを聞くも誰も見覚えないとのことだった。
不可思議なのは、そもそもロビーに入ったことすら誰も見ていないのだ。こんなにも目立つ容姿なのに。
まるで、突然その場に現れたかのような。
「……誰も見覚えがない少女」
細い肩を揺すれども反応はない。
キメラの転移者は、その多くが日本人である。少なくとも転移されているのは、皆同様のタイミング——十二月十二日の午前四時に日本に在住していた者たちのみだという。
「どうしたの、アレン?」
だから、外国人は目立つ。銀髪に緑がかった眼の、ロシアとのハーフであるリーザのように。
そしてアレンもそうだ。リーザとは違い、何故か元の世界とは異なる姿になってしまったが……とにかく、低い背丈も相まり、金髪碧眼の容姿は尋常でなく目立つ。アレンのあずかり知らぬところで、町やバベルでアレンを見てその姿を印象に残している転移者もいるだろう。
しかし、眼前の白い少女。彼女のことは、訊いた限りでは誰一人して覚えがないという。無論アレンにもない。こんなにも目を引く髪と顔立ちなのにだ。
「いや……ふと思ったんだけど、これ、転移じゃないのか? 来てすぐっていうかさ」
「え? 転移って……あっ。確かに、言われてみれば」
——彼女はひょっとして、ついさっきキメラへ転移したのではないか?
そうだとすれば、誰も彼女に見覚えがないことも、バベルのロビーに入ったところを見ていないのにも説明がつく。
そしてこの、現実離れした端整な顔立ちに白い髪。
(ひょっとするとだが、俺と同じでキメラに来て見た目まで変わったんじゃないか……?)
確証はないが、こうも真っ白い髪などそうそうない。
先天的な遺伝子疾患——アルビノなどの症候。あるいは近年では完璧な黒髪であってもわりかし手軽に真っ白く染められるようになったと聞くが、どちらもかなり稀な話だろう。特に後者はこの幼い年齢だとなおさらだ。
「だけど、だとしたら転移場所がバベルっていうことになるわ。ありえなくはないのかもしれないけれど……わたしは聞いたことないわね」
「む、それもそうか」
まだ決めつけるのは早計だろうか?
腕を組み、うんうんと唸るアレン。しかし結局のところ、本人に訊いてみなければ詳しいことはわからない。
だが、当人が眠っているのなら訊くものも——
「それにしても、ここまで起きないっていうのはもしかしたら、睡眠系の状態異常かも……って」
「……ぁ」
か細い声とともに、その瞼が開く。
「え」
「あ」
これまでいくら声を掛けようとも揺すろうとも反応のなかった彼女は、あっさりと起きた。本当に前触れなく、むくりと上体を起こす。
金色。ぱちりと開かれた瞼、雪庇を思わせる白いまつ毛に飾られたその瞳は、輝くような黄金色をしている。琥珀色よりもなお濃く美しい、思わず息が止まるほどの双眸。
本能的、直感的に確信する。
やはりこの少女は普通じゃない。尋常の、少なくともこの肉体は現実世界の投影では断じてない。
「お、起き……っ」
「どっ、どうしよう。ええと、あなた——」
突然体を起こした彼女に、アレンとリーザはうろたえてしまう。あるいはその表情、浮世離れした超然な雰囲気に呑まれていたのかもしれない。
しかし当の本人、白い少女はまだまどろみの余韻を残す容貌のまま、薄い唇を微かに動かすと、
「……誰?」
とだけ、呟くように言った。
丸い瞳がぼんやりと、しかし確かに二人を捉える。
「あ……ああ。そうだな、まずは状況確認……自己紹介からだな。俺はアレンで、こっちがリーザだ」
「誰?」
「え? だから、俺が——」
「ワタシは、誰?」
「……えっ」
困惑が降りかかり、沈黙が訪れる。その間も少女は真っすぐにアレンたちを見据えたままだ。
落ち着いているようなそうでないような、きょとんとした顔。アレンはまさかと思いつつも、声を僅かに震わせながらその問いを発した。
「ワタシは誰って……自分が、誰だかわからないのか? 記憶がない?」
迷いなく、間を置くこともなく少女は頷きを返した。
「……なんてこった」
「え、それって……記憶喪失ってこと?」
周囲の人間に面識はなく、本人にさえ記憶がないのであれば、どこから来たのか本当に誰もわからなくなってしまう。彼女の名すら迷宮入りだ。
「アナタは、誰?」
「さっきも言ったけど、俺はアレン。で、こっちがリーザ。倒れている君をバベルで見かけて、とりあえずここまで運んできた形だ」
「あれん? りーざ? ……ばべる?」
揺れるように小首をかしげる。バベルのことも知らない、覚えていないような反応だった。
このゲーム世界、キメラのことまで忘れてしまったのだろうか。
「アレンは、お母さん?」
「違う。ひな鳥でもあるまいし、最初に見つけたからって親にはなれないぞ」
「なら、お姉ちゃん?」
「……いや、それも性自認がイカれそうになるから勘弁してくれ」
「⁇」
ならどう呼べばいいのかと、少女の顔にとめどない疑問符が溢れていく。
容姿からすればお姉ちゃん呼びは許容するべきなのかもしれないが、そんな呼称をされた日にはいよいよ男性を名乗りづらくなる。今でも大概だが。
「アレンでいい、アレンで。俺は男なんだ」
「アレンはね、体は女の子だけど心は男の人なの」
「ぁー……GID当事者、性別違和?」
「なんでジェンダー・アイデンティティにはちょっと詳しいんだよ」
記憶がないのではなかったのか。
いやしかし、記憶にもいくつか種類がある。長期記憶に短期記憶、さらに長期記憶は陳述記憶と非陳述記憶に別れ陳述記憶は意味記憶とエピソード記憶、非陳述記憶は手続き記憶——等々、要はなんだかたくさんあるのだ。細分化していけばどれもきりがない。
記憶喪失も一概にはまとめきれない。忘れたことがあれば、残ったこともある。それだけの話だろう。
(これが一時的なもので、やがて記憶が元に戻ればいいが……)
——本当にそれが、失った記憶ならば。
覆水とてかき集めれば盆に戻すことできよう。しかし、初めから空の器に返せるものなどない。
……いや、考えすぎの妄想だ。まだ結論を出せる段階ではないし、少なくとも本人に言えることではない。アレンは一度思考を打ち切った。
「自分の名前、わからないのか?」
「わから、ない。ワタシは誰?」
「俺にもわからない。だが、知る方法はある」
「え?」
意外な顔を浮かべたのは隣にいるリーザだ。だが彼女もきっと、もうしばらく頭をひねれば思い至ることができただろう。
この世界には極めて決定的な、自己を知る手段がある。ゲームの世界、情報を管理された箱庭だからこそのすべが。
「ステータスを見ればいい。念じれば、ウィンドウが浮かぶはずだ」
「すてー……たす?」
「あ、そっか! アレンってば冴えてるっ」
——ステータスウィンドウ。そこにはレベルやHPやSP、所持金やユニークスキルなどの大切な情報が詰まっている。
……まあ、もう少し、攻撃力だの防御力だの、具体的な数値も見せてくれても罰は当たるまいが。ケチな世界の法則はさておき、平時もっとも役立たない情報がプレイヤーIDだ。
ひょっとするとIDではなくプレイヤーネームそのものの扱いなのかもしれないが、もうこの際どっちでもいい。
「つっても、一応IDだけなら視界の端っこ、SPバーの下にも常時出てんだけどさ……ステータス画面のほうが情報量は多いだろ」
自分のことがわからないという彼女であれば、普段なんの役にも立たないその文字列にも価値が生まれる。すなわち、自己の確認という価値が。
「ステータス……あ。出てきた、透明の、板」
「そう、それだ。俺からは見えないが……なにが書いてる?」
ステータスしかりインベントリしかり、他人が展開しているウィンドウは目視できない。どこかもどかしさを感じながら、アレンとリーザは返答を待つ。
「……れべる、いち。HP、ひゃく。SP、ひゃく。しょじきん、ぜろ」
「……っ。それは」
「初期ステータスそのものね……あの、他にはなにかない?」
その答えは、アレンの想像とはいささか違ったものだった。
肝心の、いの一番に出てくるはずのIDを彼女は飛ばした。口にしなかった。誰だって普通、最初に読み上げるのは最上段の、最も目につくところからのはず。
嫌な予感。冷気がアレンの背筋を微かに、しかし確かに這っていく。
「あとは……ゆにーくすきる、『凍化陥穽』」
「ユ、ユニークスキルじゃなくて。いえそれも大事だけど、名前かなにかなかった? 英数字とかの」
「……? ない……はず」
念のため、と少女は虚空——彼女にだけは見えているであろう半透明のウィンドウに、もう一度隅から隅へと黄金の目を走らせる。
が、結果は変わらなかった。
「ない……ワタシは、誰?」
「——。インベントリ、と念じてみてくれ。なにが入ってる?」
「いんべんとり……わかった。ううんと……ない。からっぽ」
「そうか。わかった」
ぽん、とアレンはベッドに座り込む少女の頭に手を置いた。労わるように。
過程がわからずとも、記憶もステータスもまっさらな状態でこの過酷なゲーム世界に放り込まれることがどれほどのことか。それを思えば同情もしよう。




