幕間の三 鴉の暗闇
——冷たい石の床に、真っすぐに歩く足音が響く。
そこは狭く、暗い空間だった。窓はなく、光源となるものは壁に一つ掛けられた微かな灯りのみ。少しじめじめとしていて換気も悪い。
好き好んで過ごしたくはないところだったが、生憎その奥には一人、小柄の男が座り込んでいた。本人の趣味ではないことは手足に掛けられた錠が証明しているだろう。
男は衰弱しかかっているような覇気のなさではあったが、身体状況自体は悪くない。皮膚には傷一つないし、HPもマックスだ。
前者の理由はそもそもこの世界に外傷は起こりえないからで、後者は時間経過による自然治癒。拘束されていようが精神が混乱していようが、ただ時間が経てばとりあえずHPは回復していく。
「……ぁ」
カツカツと響く足音に、男も気が付いたらしい。朦朧としていた意識が浮上する。
そして、手足の拘束も忘れ足音の方へ跳びかかろうとする。四つの鎖がピンと張り、男の四肢に錠を食いこませた。
それを厭わず、男は吼える。
「おい! 今すぐここから出せ! 犯罪だぞ、ボクにこんなことしていいと思ってるのか!」
ガチャガチャと鎖が音を鳴らす。全身で無駄な抵抗に勤しむ男、彼こそ昨日アレンたちを襲った悪漢にして卑劣漢——<ギルド>の一員、バニットだった。元、と但し書きは付くが。昨日付けで除名済みだ。
「なんとか言えよ、レイブンッ!」
「……元気そうでよかったよ、バニットさん。それに起こす手間も省けた」
足音の主、<ギルド>の団長たるレイブンは怒号を普段と同じ平静さで受け流す。
そして、笑みすら浮かべて壁際のバニットへと近づき、流れるように足を振り上げた。
「……え? へぶっ」
革靴のつま先がバニットの頬を蹴り飛ばす。鈍い音が響き、HPバーが僅かに減少した。
なにが起こったのか理解できず、バニットはひりひりとした頬の痛みも忘れ呆然とレイブンを見上げる。そこへ、伸ばされた腕がバニットの長めの髪を乱雑に掴み上げた。
「な、なにを……!」
「拷問の時間だ。<エルピス>、この名に聞き覚えは?」
「——っ」
「……この場面での沈黙は肯定と同義だよ、間抜け」
視界が揺れる。一寸先も危うい薄暗さの中、殴られたのだと理解したのは顔面に痛みが走ってからだった。硬い拳の感触が肌に残り、痛みの余韻を残す。
——この男は本当にレイブン、自分の知る<ギルド>の団長なのか?
状況を呑み込むより先に、疑問がバニットの頭をもたげた。
理知的で、なにより温和、少し気の弱いところのある団長。躊躇なく人を蹴り、殴るその姿はあまりにイメージと解離している。
「面倒なことをしてくれたものだ。一体どんな理由があったのか、それも吐いてはもらうが……言っちゃなんだが済んだことだ。それよりもキミには<エルピス>のことを吐いてもらう」
「なんで、ボクが」
「怪しまれてないって思ってた? まさか、いくら人が増えてもキミみたいな人は警戒するさ。確信はなかったから、少し泳がせていた段階だったんだけど。いきなり凶行に及ぶのは正直僕も驚いた」
結果から言えば、バニットはスパイのようなものだ。当初はそのつもりなどなかったのかもしれないが。
過程に意味はない。重要なのは、彼が敵対する組織に繋がりのある人間だということだけだ。<エルピス>が彼を利用してなにをしようとしていたのかは定かでないが、大事になる前に芽を摘むことはできた。もっとも狙いが単なる視察、情報収集であればもう遅かったかもしれないが。
どの道、隠すような情報も内部にはそう無い。それならそれで別によかった。
「なんにしろ、<エルピス>の全容はまだまだ未知数だ。キミから引き出せることはすべて、引き出させてもらうよ」
「い、言えない……言わないぞ、ボクは」
「いいや。言うんだよ」
「なにをされたってボクは言にゃがあッ」
舌の動きを異物が阻害し、言葉尻がおかしくなる。
異物の正体はレイブンが頬に突き刺した、変哲ない店売りのナイフ、その切っ先だった。
「……い、があぁぁああ⁉」
頬を貫通するそれを認識した途端、激痛が口の内外を蹂躙する。視界の端でHPバーがゴリゴリと削られ、血は出ないながらも赤いエフェクトが傷口の代わりを成す。
「痛、いだい……! あがぁぁああああッ」
「大げさだね。別に、傷も残らないのに」
ずぶ、と短い刃が引き抜かれる。なおもバニットは苦痛に喘ぎ、喉から悲鳴を絞り出しながら地を転がる。その度に鎖が壁や床とぶつかって耳障りな音を立てた。
レイブンは引き抜いたナイフをくるりと手の中で回すと、その刃をバニットの首筋にあてがう。頸動脈もなにもないゲーム世界ではあるが、それでも本能的にバニットは「ひいっ」と息を詰まらせる。
「僕のレベルは58だ」
奇しくもレイブンは友人と同じ言葉を使った。唯一違うのはそれが虚言ではなく、彼のステータスに刻まれたレベルの数値そのものだったことだ。
おそらくキメラの平均プレイヤーレベルなど、10かそこらだ。58ともなれば間違いなくキメラの中でトップクラス。バニットもそこまでとは思っていなかったのか、目を見開いて歯を鳴らす。そんな高レベルの人間に生殺与奪を握られているのだ、膀胱の中を出し切っていたのは不幸中の幸いだったかもしれない。
「だ、だからってなにを……」
「要は、加減できないってことさ。こんなナイフでも一応は武器扱いだからね、振るえば攻撃と扱われてステータスの補正が乗る」
「ひッ、やめ」
ステーキ肉でも切り分けるような気軽さで、刃先が喉元の皮を裂く。そのまま刃は肉を分け、赤色のエフェクトとともにゆっくりとバニットの喉へ押し入ろうとする。
「知っている情報をすべて言え。そうだな、まずは……組織立っているのならリーダーがいるはずだ。名前を吐け」
「やめろ、やめてください! 助けて! 助けてくれえッ」
「態度次第だね。僕もどのくらいでキミのHPが尽きるかわからないんだ、なるべく早くに言うことを勧めるよ。死にたくなければ」
「嫌だ! 助けてくれ、誰か! 犯罪だぞおっ!」
「叫んでも無駄だ、上には聞こえないよ。それにこの世界に法はない。誰も裁けなんてしないから、安心してくれ」
レイブンの黒々とした双眸が、冷えた密室の暗澹に溶ける。
助けを求める声もこの地下からはどこにも届かない。牢というわけではないが、ギルドハウスの地下にこんな隠されたスペースがあるとは誰も思わないだろう。副団長ですら知らないことだ。
暗闇の中、拷問行為を咎められる者などいない。<ギルド>の長は元の世界に帰るため、団員たちの身の安全のため、人知れずその汚れを被る——




