第二話 森の金色
——チュン、チュン。
どこか遠くから、鳥の囀る声がする。
「……ん」
それに加え、嗅ぎ慣れない緑の匂い。ベッドから滑り落ちでもしたのか、背と頭に感じる感触はどこか硬い。
およそ直近の目覚めとは違いすぎる覚醒に、彼女は疑問を覚えながらも瞼を開いた。
「…………は?」
開いた視界には、見慣れた天井があるはずだった。
夜更かししてランクマッチを回した後に寝たから、起きる頃には既に昼過ぎ。パソコンもモニターもつけっぱなし、窓から僅かに透ける日光で部屋の中は、ほのかに照らされていて——そういった景色が視界には映るはずだったのだ。
なのに、開いた目に木々や重なり合う枝葉、そこから透ける青空が飛び込んでくるものだから、寝起きの眠気など一瞬で吹き飛ばされた。
森深く。あまりに見覚えのない、緑に囲まれた光景がそこにあった。
「ど、どこだよここ!」
驚愕のあまり叫びながら、バッと上体を起こす。そして、
「なんだよこの声っ⁉」
自身の声が想定より遥かに甲高いことにまたも驚き、
「なんだこの体ァ——っ⁉」
あまりに華奢な手足と、明らかに平時より低まった視点に腰を抜かしかけた。
まるで意味がわからない。手のひらを広げても、視界に入るそれは明らかに自分の、いつもマウスやキーボードを巧みに操作してきた手だとは思えなかった。
小さいし、細い。あとちょっとぷにぷにしてる。
「なんだよ、これ……!」
周囲を見渡す。すぐそばに都合よく、あまり大きくはないが湖らしきものがあることに気づく。
……いや、目が覚めたそばに湖があること自体が既におかしい。住み慣れた愛しき自室はどこへいったのか。
彼女はそんな疑問を覚える余裕すらなく、湖面をバッと覗き込んだ。
「な……っ」
澄んだ水面に、自らの顔が映り込む。それを見て彼女は、さっきよりも遥かに大きな驚愕に全身を貫かれた。
いつも鏡で目にする、茶髪の、やや目つきの悪い人相とはかけ離れている。
髪は金糸のようにさらさらとした黄金。長い睫毛に飾られる瞳は、まっさらな海のような碧色。肌は白く艶があり、頬には幼さの象徴のようにほのかな赤みが差している。
少女だ。それも、絵本の中から飛び出て来たかのような、とびきり可憐な。
「なんじゃこりゃああああああああーーーーーーーーーっ!」
水面を波紋となって揺らすほどの声。理解を越えた魂からの絶叫が、真昼の森にこだました。
どうかしている。これは夢だ。そう違いない。
そう思って、焦りとともに頬をぐにっと短くなった指でつねるも、残念なことに痛覚は正常に痛みを脳へ送ってくる。
「……女になってる……しかもチョーかわいい幼女に」
もはや認めるしかない、荒唐無稽な現実。
だが、それでも——
「いや……でも俺は、男だ。なにがなんだかわからないけど、そこだけは揺るがないぞ」
彼女は、彼だ。
十八年を男性として過ごしてきた彼は、今さら肉体が金髪碧眼ぷにぷにほっぺの女の子と化したところで、精神的には男性である。半生で培った意識というのはすぐに切り替わるものではない。
そう決めてみると、少し落ち着く。
無理やりにでも一度深呼吸をすると、彼はいくらか余裕を持った視野で、現状の把握に努めることにした。そしてすぐ、視界の左上にある見慣れないモノに気づく。
「なんだこれ。バー? と、こいつは……」
あるいは、体が少女になっていることと同じくらい奇怪ではある。
視界の左上に、真っ赤な棒があった。その下には赤い棒より少し細めの、オレンジ色の棒もある。
だがそれよりも、彼はそのさらに下にあるアルファベットの方に目がいった。
——Aren。
それは彼にとって、安心を覚えるほど見慣れた四文字だった。
本名をもじったそれは、もはや本当の名前と同じかそれ以上にしっくりくる、ハンドルネームというやつだった。
ゲームのIDも多くはこれか、埋まっていれば後に英数字を付けるようにしている。
「……夢じゃないなら、答えは一つか」
アレンの名と、視界に表示された赤とオレンジのバーがこの状況を明晰に表している。
アレンのメインフィールドは、こういったゲージの視認できない一人称視点でのシューティングゲームだが、これを見て察しが浮かばないほど他のジャンルに疎いわけではない。
すなわち、赤いのはヘルスバー。体力を表すものと見てまず間違いない。
その下の細いオレンジのものは……スタミナな気がする。が、ひょっとすると他のゲージかもしれない。
「ここは、ゲームの中なんだ」
なによりも、ArenのIDがそれを意識付ける。これが表示されている時は、すなわち彼がアレン——プロゲーマーとしての顔で活動をしていた時だ。
寝て、起きたらゲームの世界にいた。そう認めた時だった。
「……なんだ?」
軽い地響きのようなものを感じた。地震だろうか?
いや、違う。揺れはだんだんと、枝葉を叩き折るような音とともに大きくなる。やがてそれは間近に迫り、地に長い影が落ちた。
「——ガアアアァァァァァァァァァ!」
枝を割り、木々の間から現れたのは、いかにもな巨大生物だ。
見るものの知性を麻痺させ、無条件に震え上がらせるような三つの黄色い眼光。肌は小石状のうろこに覆われ、尾は木々や垂れ下がる葉に隠され先を見ることすらできない。
恐竜。こげ茶色のその巨大な生き物は、図鑑から飛び出してきたかのような強烈なリアリティを伴って咆哮した。
それを見て心底驚きはしたものの、すぐさま行動に移すことができたのは、ここがゲームの世界だと認識できたからかもしれない。
アレンは半ば反射的に、一切の思考を介さず背を向けて走り出していた。
「ヤバい、ヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいってぇ……!」
それでも、狼狽するものはする。突然現れた恐竜——そういえば、あの恐竜は額にも目がついていた。
(モンスター、ってことか……?)
そう直感する。実物の恐竜を再現したいのであれば、目はどう考えても二つだ。三つ目がある理由は、実物とは異なるディテールを持たせたいからにほかならない。
とはいえ、実際の恐竜だろうがそれを模した恐竜モンスターだろうが、その脅威に変わりはない。
「クソ、なんで見つかっちゃったんだ……⁉」
いきなりあの化け物が現れた、その理由。考えるまでもなく明白だった。
——どこだよここ!
——なんだよこの声⁉
——なんだこの体ァ⁉
——なんじゃこりゃあああああああーーーーーーーーっ!?
「……あんだけ騒げばそら見に来るわな。クソがっ!」
直前の行いを思い出し、必死に森を駆けながらアレンは強く後悔した。頭を抱えたくなるが、そうすれば走る速度が落ちてしまうため自重する。
状況がわからなかったとはいえ、結果最悪の事態を招いてしまった。
走りながらも、ちらりと後ろを確認する。
「ゴオオオオオオオオォォォォ————ッ!」
「あっ迫力すご」
音でわかってはいたが、普通に追ってきていた。
射貫くような三つの眼光と、開いた口から覗く巨大な牙。否応なしに死を意識させる、人とは比べ物にならない野性的な暴力に、思わず漏れかける。小の方が。
男性よりも女性の方が我慢しづらい。齢十八にして新たな知見を得た。
「そんな知見ゲットしてる場合じゃねえ——!」
ゲームの世界と言えど、死ねばどうなるのかわからない。
それに、仮に死んで生き返ることができたとしても、あの腕より太い——今のプリティ幼女アームと比較してだ——牙に体をガジガジされるのは、冗談抜きでトラウマを抱えることになりそうだ。PTSDで二度と恐竜が出てくるゲームをやれなくなる。
しかし、人と恐竜では一歩の歩幅があまりに違いすぎる。加えて今のアレンは幼い少女の足だ。走って逃げるなど到底難しく、
「あっ」
加えて、一日中引きこもってゲームをやっている筋金入りのゲーマーに森の中を駆けた経験などあるはずもなく、アレンはあっさりと出っ張った木の根に躓いた。足元不注意だ。
浮遊感が全身を包む。事実体は浮いていた。
「へぶばっっ」
その直後、ヘッドスライディングの要領で、アレンは顔面から地面へ突っ込んだ。さらに、
「ぎゃああああああああっ」
運の悪いことに、そこはしかも坂道になっていたようで、アレンはごろごろと地を転がっていく。
「オオオオオオオオオオオォォォォォ——ッ‼」
「怖えぇぇぇぇぇぇぇーーーーーーー!」
さながら転がるおむすびを追いかけるように、回転する獲物を恐竜モンスターが叫びながら逃がさんと走る。それをアレンはくるくると忙しなく回る視界の中で、断続的に捉えていた。
「いでぇッ」
ゴツンッと背に走る鈍い痛み。そして再び浮遊感がアレンを包み込み、天地をわからなくさせる。
どうやら出っ張った岩にぶつかって、スキージャンプのように飛んでしまったらしい。
緩やかな回転の中、追跡する野生の死神が足を止めたのが見えた。何故か——疑問に思うと同時に、頭上を影が覆う。
そしてすぐ、アレンの四肢は無情にも硬い地面へ投げ出された。
「がッ……!」
坂道を転がった慣性が残ったまま、強く全身を打ち付ける。
洒落にならない痛みがあちこちに走った。打撲は一か所二か所では済まないだろう。下手をすれば骨が折れている。
アレンは激痛に悶絶し、しばらくその岩肌の地面をのたうった。
だがやがて、痛みが引いていくとともに異変に気付く。
怪我がない。血も出ていなければ、皮膚には傷一つなかった。もっと言えば、ものの数十秒で痛みが完全に引いてしまう。
そして、その代わりと言わんばかりに視界左上の赤いバーが三割ほど減っているのが窺えた。
「……落下ダメ―ジってか」
やはり、いかにもゲーム世界だ。そして三割で済む辺り、理不尽系でもない。……どうだろう、スタート直後に恐竜の化け物に襲われるのは十二分にハードな気もするが。
ヘルスバーの下、オレンジのバーを見ると、そちらは少しも減っていなかった。どうやらスタミナのゲージではないようだ。
なんのゲージか、探りたいところだが——
「ここは……洞窟、か」
まずは自分がどこに入り込んだのかを確認するべきだ。
硬い岩の地面に手をついて立ち上がる。そこは暗い、穴の続く洞窟だった。時折天井になっている岩肌から水が滴り、耳心地の良い音を発する。
そんな音は、鼓膜を裂くような咆哮で一息にかき消された。
「オオオオオォォォォォォォォォ——ッ!」
入口の方から、あの化け物がギョロりと三つ目をギラつかせ、アレンを睨む。
どうやら巨体が災いして、洞窟の中には入ってこれないらしい。
「ははっ、こりゃいいや。結果オーライだな」
災い転じて、というやつだ。たまたま転がり込んだ洞窟は、結果的に最良の逃げ場になった。
とはいえ、あのモンスターが入口の立っている以上あそこから出ることはできない。実質選べる道は、洞窟の奥に進むほかないことになる。
「ガン待ちモンスターめ……くそぉ、せめて外に繋がっててくれよ」
祈るような心持ちで、アレンは化け物に背を向ける。長い金の髪がふわりと靡き、入口から入る陽の光に濡らされて煌めいた。
とにかくこの場を早く逃れたい。焦燥の中、先の見通せない暗闇の奥へと足を踏み入れる。