二十話
「あ〜ら、シンヤちゃん、今日は女装じゃないの?」
自転車で3分程でchamp d'amourに着いた後、勝手口から店内に入ろうとしたところで瀬川さんから声をかけられた。
「いや。毎回女装は頼んでないでしょ。早く商品を頂けませんか?」
「あ〜らぁ、つれないのよね。でも、よく覚えててねぇ。女っていうのは男が逃げれば逃げるほど捕まえたくなる生き物なのよ。」
瀬川さんはそう言いながら舌舐めずりする。
正直、逃げ出したいが、それだと捕まえたくなるんだろ?どうしたらいいんだ?
背中に冷たい汗が流れる。
そして、知らぬ間に視界が揺れていた。
じ、地震か?
なぜ緊急地震速報が鳴らなかったんだ?
しかし、俺は辺りを見回して不思議なことにきづいた。
食器類や、調理用具に至るまで、全てが元の位置から少しも動いていない。
それで、ようやく気づいた。
地震など起こってはいなかったのだ。
その代わり俺の体が異常なほど震えていた。
「ふふっ、口ではあんなに嫌がっても体は正直なのね。こんなに反応しちゃって。」
瀬川さんが下卑た笑みを浮かべるが、このセリフのチョイスは絶対わざとだ。
「瀬川さん。ほんと俺をオモチャにするのはやめてもらえませんか?ほら、俺、はいた‥‥あ〜っ、配達、、、忘れてた。」
あっ、あまりの恐怖で配達が頭からすっぽり抜け落ちていた。
俺は我に返ってパンケーキを2枚受け取り、でchamp d'amourを後にするのだった。
「はぁ、はぁ、はぁ。この依頼、頭おかしすぎるだろ?」
俺は今、夜の海を泳いでいる。
まだ、季節は夏草が伸び始めた頃で水の中はとても冷たい。
しかし、パンケーキは特製の浮きの中に入っていて、一切海水の影響を受けないらしい。
この浮き輪も自社制作なのだが、この会社、情熱を傾ける方向性が異次元過ぎて正直言ってバカだし、変態だと思う。
それにしても気になることが1つある。
それは俺の前方に俺と同じように特製の浮きをもった人が泳いでいることだ。
今回のお届け先はさらにその前にあるクルーズ船だ。もしかしたら、クルーズ船というのはお届け依頼が多いのだろうか?
しまった。。。?
余計な事を考えている場合ではなかった。
知らぬ間に同業者とかなり離されていた。
しかし、追い縋ることは出来そうにない。
同業者は見事なクロールだが、俺はは扇足を主体とした泳ぎ方しか出来ないからだ。
あぁっ、すまない。
分からないよな。
江戸の初めに生まれた古式泳法の一種、神伝流の泳ぎ方だが、遠泳に向いている代わりにスピードは控えめなのだ。
俺の眼前では同業者がクルーズ船に到着する。そして、信じられない光景を目の当たりにした。
「おいおい、ス○イダーマンかよ?」
俺が思わず声を漏らしたのも無理はない。
同業者さんは船体を登り始めたのだ。
まるで手足に吸盤が付いているようだ。
よく見ると小柄な体躯をしている。
確かに、手足に吸盤が付いていようが重ければあんなに身軽に登ることはできないだろう。
あっ、見惚れている場合ではなかった。
俺も時間がないんだった。
俺は全力で足を動かしながらも同業者から目を離せない。決して目にも留まらぬスピードではないが、素早く手足を動かす様はやはり素人ではないのだろう。
もしかして、、○○○○○○○なのだろうか?
そして、同業者は気づいたらデッキまであと数メートル‥‥の所で船が大きく揺れた。
そのせいで、同業者は水面に向かって落下する。あの高さならよっぽど綺麗に着水しないと大怪我をしてしまうかもしれない。
マズイッ、人の心配をしている場合ではなかった。津波級の波が俺の方にまで向かってくる。
そして、そのまま波と一緒にランデブーする羽目になった。
波にもまれながらも、ビクともしないパンケーキ入れを視界に入れながらも、俺は波に揉まれていた。
「ブクッ、バババッ‥‥マズッ‥‥」
マズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイ。
俺は水を飲まないようにするのに精一杯で、扇足すら忘れて、水の勢いに流されるがまま。
まるで濁流に飲まれる木の葉のようだった。
「い、生きてる?」
どれくらい耐えただろう?
波がおさまってしばらくすると俺は我に返って頭を抱えることになった。
マズイ。
時間がない。
もう、40分経っていて、残りはたったの20分。とにかく急ぐしかない。
扇足は変えずに、とにかく全力で足を動かしてなんとか船体の前にたどり着いたが、、、仰向けに女の子が浮かんでいる。
浮かんでいると言っても別に宙に浮かんでいるのではなく、水面にだ。
これはさっきの同業者だが、全身ウェットスーツに身をまとっているが胸のほのかな膨らみで女の子だとわかった。
俺は仕事を優先したいが、、さすがに女の子を見捨てて人として良いものだろうか?
しっかし、気を失っているのか、全身は弛緩して、目も瞑っていた。
まずは呼吸と心拍の確認だな。
彼女の顔に耳を近づけると、スーッ、スーッと呼吸音が聞こえた。
「呼吸はあるな。後は、心音か?」
俺は彼女の胸に耳を近づけたが、、もちろん近づける位では心音は聞こえない。
「いや、エロい気持ちはないんだが、緊急事態だしなぁ」
俺は誰に言い訳したのか、独り言を呟いたあと、彼女の胸に耳を当てた。
トクンッ、トクンッ、トクンッと心音が確かに聞こえる。
「はぁ〜っ、なんだよ?無事じゃないか?心配して損した。」
俺は安心して、やや大きな声を出したのがまずかったかもしれない。
「ンッ、、あぁっ、、えっ?」
女の子が、このタイミングで目を覚ましてしまった。




