一話
草木も眠る丑三つ時‥‥‥なんておどろおどろしい雰囲気はカケラも無い、全てをオレンジ色に染め上げる夕暮れ時。
俺の目の前にはとびっきりの美少女が佇んでいた。
しかも、密室に2人きりなのだから、一見俺にとってはあり得ないシチュエーションだ。
いわゆる、高校生男子なら誰でも憧れる状況で、なんだか変に意識してしまうのはまぁ仕方がないよな。
もちろん、俺がいつも寝る前にする都合のいいピンク色の妄想なんかではなく、間違いなく真実なのだから。
真実はひと〜つ。もちろん、密室殺人も起こらないな。
美少女の名前は朱鷺田楓
大豪邸に住む、箱入りの正真正銘のお嬢様
「アッ‥アアァッ〜‥‥ウウンッ‥‥ハムッ‥‥アッ‥‥‥‥‥フゥ‥‥ご馳走さまでした。」
いかがわしい想像、、いや妄想をした君は、一旦頭を再起動してから読む事をオススメするね。
彼女は有名スイーツ店champ d'amourのイチゴのパンケーキを食べていただけなのだから。
彼女が食べ終わると、俺は食器をカチャカチャと最短手順で手際よく片付けていく。
ここの主人が帰ってきたら例の抜け道は使えず、かなり厄介なことになるから片付けは1秒でも短縮する必要がある。
「はいっ、橋本さん。チップです」
しかし、朱鷺田さんはそんな俺の張り詰めた空気を一切読まず、足音もなく近寄ってきて二千円札を差し出した。
しかもピン札だった。
ゴクリ‥
俺は喉から手が‥‥いや、喉からネコの手が出るほど欲しかった、、、んだけど、、、
「朱鷺田様、申し訳ございません。弊社は不正なお金のやり取りが起こらないよう、規則で現金のやり取りは禁止となっております。申し訳ございませんがお気持ちだけ受け取らせていただきます。」
そう。チップは1円も受け取ることができないのだ。
ちなみに代金は先にキャッシュレス決済だ。
時代の進歩とは時に厄介なもの。欧米では古き良き伝統であるチップ文化も最近はサービス料と名を変えて強制に取るところが増えたらしい。そして、そういった金は労働者の懐には入らない。
つまり、『君が、好きだ〜』なんて叫びたいのではなく、『伝統、、もっと頑張れ〜』と喉が枯れるほど叫びたくなるってものだ。
朱鷺田さんは上気した頰に人差し指をつけて、数瞬考える‥‥そのポーズでご飯三杯はいけるほど鬼可愛いから困ったものだ。
だから、俺は見惚れる前に目を逸らした。
ちょっと、女子の胸元を凝視しそうになって、ムリヤリに視線を剥がす行為と似ているのかもしれない。
男子の視線って女子は気付いているって言うけどな。
「あっ、いいことを思いつきました♡」
しかし、俺の心中を知ってか知らずか、朱鷺田さんは足音も立てずに上目遣いのまま俺に近寄ってくる。
そしてキスできそうな距離まで近づくと、俺は思わず目を瞑ってしまった。
すると、右頰に信じられないくらい柔らかな感触が‥‥
これって‥‥
「フフフッ、、、チップの代わり、、になるかわかりませんけど。」
朱鷺田さんの顔が更に朱に染まる。
自分で大胆な行動をしておきながら、ものすごく照れている。その朱色は彼女の控えめな笑顔によく映えていた。
俺が普通の状態ならこの瞬間、間違いなく恋に落ちてしまっていたと思う。
しかし、ビジネスモードの俺は顔色1つ変えることなく受け答えできてしまう。
だって、ビジネスの世界は弱肉強食なのだ!!
一瞬たりとも油断してはいけない。
「いえ、金銭でなければ、恐らく‥ほっぺにキスもチップ代わりとして扱って問題ないかと思われます。本日はご注文を頂きありがとうございました。お手数ですが評価は五つ星【ファイブスター】でお願いします。またのご注文心よりお待ちしております。」
俺はいつものキメ台詞を一切噛むことなく言い切る。その後、完璧な一礼を決めると静かに部屋から立ち去った。
パタンッ。
部屋から出た途端に俺の顔が沸騰したように熱を持つ。
うわぁ〜っ、マジなのか?夢じゃないよな?
あんな可愛くて控えめな娘からほっぺにチュウもらえるなんて‥‥
その時の俺は本当に浮かれすぎていたのだろう。
そのせいでホッペにキスの跡がクッキリとついていたことに全く気付けなかった。
それから数日後。
俺たちは放課後の並木道をゆったりと歩いていた。
まだ太陽は高い位置にあり、柔らかな光が頭上から降り注ぐ。
悪戯に吹いた春風が俺たちを優しく包んだ。
こんなにいい天気なら学校近くの冷泉公園。
あそこの芝生の上にねっ転がりたい。
そして、頭ん中カラッポにして昼寝でもしたい気分なのだけど、俺はそこまで暇人じゃない。
「ねぇねぇ、シンシン。すごくいい天気だよね?どこかへ遊びに行かないの?」
高校の制服である紺のブレザー、そしてチェックのスカートに身を包んだ凛花が子犬のような人懐っこい笑みを浮かべた。
凛花は可愛い。
まぁ、可愛いだけでなく、こういう気安さを持っているのもモテる理由なのだろう。要は高嶺の花より、近くのタンポポみたいな感じと言えばわかりやすいか?
実際、凛花は学年一の美少女よりも告白を受ける回数が多いらしいのだ。
ちなみに、学年一の美少女は神埼刹那という女の子だ。
八頭身で、目が大きく、シンメトリーの美少女の中の美少女である。
しかし、天は二物を与えずとはよく言ったもので、残念ながら性格はかなり鬼悪らしい。
俺も彼女と話したことすらないのであくまでも噂レベルになってしまうのだけれども、告白を受けた時、普通の人間なら数週間は寝込んでしまうくらいの罵倒を浴びせて断るらしいのだ。
だからなのか、そういうのが大好きな男子は、何度も彼女に告白してはフラれて、尚且つホクホク顔で帰ってくるらしいのだ。
一粒で二度美味しいというやつなのだろうか?
正直に言って理解に苦しむんだが。
まぁ、そんな刹那様とは違い、凛花は老若男女誰にでも好かれてしまう。
昔は結構ワガママだった印象だが、今の彼女は『かなりのお人好し』なのだ。
ただ、今の彼女でも、ほんのたまに俺に対してはワガママ女王の顔がひょっこりと顔を出す時がある。
あとこれはどうでもいい情報かもしれないが、凛花は俺の幼馴染だ。まぁ、中学1年の時にイギリスへ行ってしまい、高校で再会した。まぁ、再会時に2度見してしまったけどな。
だって本当に綺麗になっていたんだからな。
俺の中の凛花はもっとボーイッシュな印象だったのに。
それに小さい頃は一緒に風呂に入ったこともある。
もう二度と一緒に入る事はないけどな。まぁ、一緒に入る可能性があるとしたら俺が覗きという犯罪に手を染める時くらいか。
まあ、幼馴染であっても、垢抜けた凛花と違い、俺は冴えないままの高校生だ。
同じ学校にいてもコミュニティ自体が違うんだよな。
それなのに、俺のような冴えない君と再会した途端、また急に仲良くしてくれるようになった。
そんな幼馴染はアニメの中ならともかく、普通はなかなか見かけることはないだろう。
大体が、思春期にはイケメン供にキャーキャー言い出して、それなりのイケメンと付き合って冴えない君とは疎遠になるルートを辿るし。
実は、彼女と俺が疎遠になっていない理由はもう一つあるが、今は関係ないか。
とにかくそこそこ仲の悪くない幼馴染の距離感をまた保つことが出来た。それって、俺の数少ない幸運の一つなのかもしれないな。
まぁ、もちろん、男として釣り合うかと言えば別問題なのだろうし、結構、俺にだけは冷たい発言をする時があるのだか、そんなことで一喜一憂するのはバカらしい。
だって、幼馴染なんて、しょせん只の腐れ縁なのだから気にする必要はないのだろう。
「行かない。凛花と違って俺はこれからバイトで忙しくなるんだよ」
俺は苦笑いを浮かべた。
「あれ?アプリ、立ち上げたの?」
凛花が首を傾げると艶やかな髪の毛がサラリと揺れる。
「当たり前だ。貧乏暇なしなんだからな」
俺はまるで典型的なアメリカ人のように両手のひらを天に向けて肩を竦めた。
わかりやすく言うと『オーマイ、ゴーッ』とか言えば似合いそうなポーズだ。いや、余計にわかりにくいかもしれない。
そう。
働けど、働けど我が暮らし楽に成らざりけり。
じっと手を見る‥‥
なんて言葉が思い浮かぶくらいはウチは貧乏な家庭だったりする。
それに、家庭の医学で調べてみても、ググってみても『貧乏』という病は治らない‥‥それなら、泣き言なんて置き去りにして働くしかないのだろう。
「そっか、、、儲かる依頼が来るといいね。」
凛花は笑顔を浮かべる。
大抵のヤツは貧乏話をすると、見下されるか、憐憫の表情を浮かべるのだ。
しかし、凛花は本気で応援しくれているのがわかるから安心してしまうんだよな。
ただ、彼女の普段のリア充ぶりを見ていると少し壁を感じてしまうこともある。
見た目とか、小学校の時のままの親しみやすい感じなら、凛花も俺と同じ非リア充村の住人になっていたはずなんだよな。
それなら彼女にこんなにコンプレックスを感じずに済んだのかもしれない。まぁ、素直に彼女の幸せを祈れないあたり、俺は悪い幼馴染なのだろう。湖に落とされないように気をつけたほうが良いのかもしれない。
「あっ、そうだ。シンシン、明日はバイトに行かないんだよね?覚えてる?」
凛花がパァ〜っと目を輝かせる。
相変わらず表情の豊かなヤツだ。
「もちろん。弥生が楽しみにしてるんだからな。あんまりおもてなしは出来ないけど頼む」
俺は素直に頭を下げた。
俺には弥生という、二つ下の妹がいる。
妹の弥生は天使のように、いや、天使よりかわいいのだが、その天使は凛花が大好きなのだ。
明日は凛花が勉強を教えに来てくれる。
しかも、、、タダで。
ここ重要なとこ。
機会があれば何度でも言いたいくらいだ。
凛花はついでに遊んで行くのが通例になっているが、弥生にとってはいわゆる飴とムチというやつになっているんだろう。
そのお陰か、弥生もなんだかんだで成績上位をキープ出来ている。
ウチの家庭の塾代まで浮かしてくれるなんて、本当に非の打ち所がない幼馴染みで困ってしまうな。
先日も
『凛花ちゃんがお姉ちゃんだったらよかったのに、、、チラッ』
なんて言われてしまった。
あんな可愛くて、性格が良いお姉ちゃんじゃなくて、冴えない兄ちゃんでわるかったな。
でも、凛花画伯はああ見えて、絵の才能は壊滅的なんだぞ‥‥いや、なんだか言ってて悲しくなるからこの話はこれまでにしておこう。
あと、チラッは口で言うものではないんだけどな。まぁ、そうは行ってもかわいい妹の頼みなのだ。
「(立派な兄になれるように)前向きに善処する」とだけ言っておいたが、
「本当?お兄ってば本当に頼りないんだから。しっかりしてよね」
なんて上から目線のコメントを頂いた。
「うーん、シンシンってばこういう所だけは、律儀だよね。」
凛花は俺のおもてなしする発言に感心しているようだ。まぁ、俺は普段はもっと緩い性格だからそんなこと言われるのも仕方がないか。
「ああ、普段はともかく、仕事の時はそういうメリハリのある態度は大事だからな。心がけているぞ」
そう、仕事を始めてからは色んな事を身に付ける羽目になった。
古式泳法。
素知らぬ顔でウソをつくこと。
少ない凹凸の壁でも登れる方法。
天井に張り付く方法。
相手の気をそらす方法。
咄嗟の時にどんな行動をすれば機先を制することが出来るか。
お客様が女性でも如才なく振る舞える方法。
等多岐にわたる。
「あっ、そういえば聞きたかったんだけど。何日か前、仕事帰りにホッペにキスマークつけて家に帰ったことあったでしょ?あれ何?ふざけてるの?」
凛花はダークなオーラを全身に纏っている。
きっと通常攻撃と魔法は、ほとんどきかないのだろうな。
『とうとう、凛花までもが闇に堕ちたか?』
なんて厨二発言をしたい所だけど、昔と違い凛花は結構真面目な性格となってしまった。
俺が仕事中に客とキャッキャ、ウフフな事をしているのだと思って怒っているのかもしれない。
しかし、誤解なんだけどな。
「何って‥‥?お客様がスィーツに感動して、なんだか感極まって思わず‥って感じだと思うぞ。凛花が勘繰っているようなことは何もないからな。」
俺は身振り手振りを駆使して身の潔白を証明するのだが、たぶん必死感が滲み出過ぎていて余計に疑惑が深まってしまいそうだ。
それにあの日、キスマークに気付かずに家に帰ってしまい、弥生に見られて、、、、、、
あまり思い出したい話題でもないんだよな。
「‥どうやら、ホントみたい。ゴメンね疑って。」
しかし、凛花はあっさり信じてくれたようで、ダークなオーラは霧散して、天使な凛花だけが現世に残った。
さすが幼馴染。ちゃんとわかってくれたようだ。
凛花の天使目【エンジェルアイズ】のお陰でなんとか円満解決で彼女と別れることが出来た。
彼女と別れて数10秒後
俺が家の中に入った途端。
ブーッ、ブーッ、ブーッ
唐突ににスマホが震えた。