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青い毒  作者: 鳥丸唯史
3/3

後編

 ◇◇◇


 アメジスがマゼンタと出会ってから七年が経過しようとしていた。

 パンペロは夜の城内を見回る途中で図書室に寄った。彼は奥でちらちらと揺れている明かりに呼びかける。

「聞いたぞ。衛士の隊長になったそうじゃないか。なぜマゼンタ様に報告しない?」

「頂点に立った訳ではありませんので」

 謙虚な奴め、とパンペロは独り言ちる。アメジスは顔を上げることなくしきりにペンを走らせていた。その金色のペンには国の紋章が彫られている。隊長の昇格祝いにとバーガンディから贈られたものに違いなかった。あのお方は誰に対しても分け隔てなく優しいが、このペイルスキンには特別期待を寄せていることをパンペロはわかっていた。青い肌に対する差別に同情しているのだろうと言う者もいるが、単純に努力を評価していることを理解していた。

 それだというのにこの青い彼は目立った喜びを見せることなく、慎んでいる。けして思い上がることはない。もっと年相応に感情を表現すればいいものを。

「何だ、この字は? さっぱり読めん」

 覗き込んでみるが、彼が書いた字は読めそうで読めない。頭がこんがらがる変な字だった。

「上下左右に反転させた文字です。これなら見られてもすぐにはわからないでしょう」

「器用だなぁ。また魔女のことでも調べているのか?」

「因縁を感じましたから」

「紅の魔女と、青肌の剣士。こりゃ傑作だな」

 パンペロは笑みを浮かべるもすぐに溜め息をつく。

「やっつけようと思っているならやめておけ。魔女を怒らせるのはまずい。満足してくれるまで延々と呪われるぞ」


 いつの日だったか、バーガンディはアメジスに教えてくれていた。


 ――あの魔女の名はガーネット・リザード。代々サラマンの考古学者の間で語り継がれた伝説のトカゲだ。

 ――トカゲ?

 ――そう! あの女の正体はトカゲなのだ!

 ――なるほど、そうでしたか。


 古代、バハマッハは銀色に輝く竜に乗ってこの世に降臨したとされ、レッドスプライトにとって竜は神の使いと崇められている。よってトカゲはいずれ竜となって神を天から連れてくるのだと聖なる動物として扱われているのである。


 ――そして彼女こそトゥバン三世に邪術をかけ、ルビーリージュに罪をなすりつけた張本人だ。

 ――それはどの歴史書にも載っていない話ですね。

 ――そうだな。これは公にされていない、トゥバン三世の妃の回顧録だからな。世に出ては少々、この国の歴史にとってまずい話も載っていてね。

 ――私に話すことは許されるのですか。

 ――きみには話しておいた方がいい。そんな気がしてね。僕の気まぐれというか、少しだけ分けたかったんだよ。この……もやもやとした胸の内をね。海を越えて遠い島からはるばるここまでやってきてくれたきみに。

 ――……なぜ魔女はレックスをはめるような真似を?

 ――かの幻の一族はバハマッハの力を持て余し壊滅状態に陥った。それはきみも知っているだろう。強大な力を持つと試さずにはいられないんだろうね。力関係が原因で内乱が起きたとされている。そんな中、瀕死の状態で若きトゥバン三世に助けられたのが、同じく若かったレックスさ。

 ――若かったということは?

 ――ウーン、どうだろうね。力を開放する条件が条件なだけに。


 絶滅した部族たちの伝承をまとめた書物によれば、力を使えるのは男だけであり、それを発揮できるようになるためには女を抱き貞操を捨てなければならない。女が男に力を授ける……。バハマッハが女神であることからきている儀式らしい。


 ――どちらにしろ、レックスは力を恐れていた。二度と仲間の全滅などという過ちを犯してはならないと固く誓っていた。恐ろしい力がなくたって守るべきものは守れることを証明したかったと回顧録には記してある。彼はね、助けてくれたトゥバンに恩義を感じて仕えるようになって、やがて親友になった。……わかるだろう? あの魔女はそれが気に食わなかったのさ。

 ――彼女からすればサラマンから独立したシュトルーフィアに、神の力を与えられしサラマンの部族がうつつを抜かしたということでしょうから。

 ――例えばの話だけど、もしレックスがまだ貞操を守っていたとするなら、きっと最後まで貫いたと思うんだ。二度目の過ちが確実に起こらないようにね。それは一族が完全に滅ぶということだから、あの女は言い寄ったろうね。レックスがそれを拒否したとすれば、それこそ十分な動機になる。……ふふふ、アメジス。何か言いたいんじゃないの? わかっているから言っても構わないよ。

 ――スカーレット様がレックスの生まれ変わりだというのは、ある意味当たっているのですね。

 ――トゥバン三世は病気で子作りのできない状態だったとされている。毒を盛られていた説もあってね。当時も身内で争っていたんだなあ。

 ――それもガーネットの仕業?

 ――どこまでがそうなのか……。トゥバンは痩せぎすになるまで世継ぎ問題に頭を抱えていたみたいだ。

 ――二人はよく了承しましたね。

 ――仕方ないよ。そういうもんさ。王家の歴史っていうのは。彼が信頼していたのは二人だけだったってこと。同じように、レックスも彼を信用していた。王として、親友としてね。それをあの魔女が握り潰したんだよ。身も心も弱っていた小さな国の王を駄目にして、国を駄目にして、友情を駄目にした。レックスは裏切られたと思ってさぞかし怒り狂ったろう。結果、恐れていたはずの力を使って、二度目の過ちが起きてしまった。魔女の仕業だと気づいてももう遅い。彼は自害し、シュトルーフィアはサラマンの手に戻ってしまった。チャン、チャン。

 ――……すっきりしましたか。

 ――全然。……怖いんだ。今もどこかであの女に見られているかと思うと。しっかりしなきゃって思うほど、妻と子を壊れ物のように扱ってしまいそうで。そうじゃない。守りたいんだ、しっかりと。じゃないと何のためにごつく生まれたかわかったもんじゃない。……アメジス。どうか僕の良き友になってほしい。トゥバンとレックスのようにとは言わないけど。縁起が悪いから。


 偉丈夫の彼がみるみる痩せ細っていく時は、この国が衰退する時なのだろう。アメジスはそう思った。


「対抗して魔法を覚えようとするのも論外だ。魔に蝕まれるだけだからな。とはいえ、ここに魔法の書があるとは思えんが」

「蝕まれる……ですか」

 アメジスは目を伏せた。

「お前、まさか」

 アメジスはおもむろに剣を抜いた。

「おい、何を」

 パンペロはとっさに両腕を構える。アメジスは黙って自身の親指の腹を刃に押しつけ、親指をランプの火の上にかざした。

 切れ目から血が一滴……。火は紫に変色し、ぶわりと音を立て花が散るように消えた。図書室は闇に飲まれた。アメジスはランプに火をつけ直し、初対面の時よりも老け、角がそげ落ちたパンペロの唖然とした表情が照らし出される。

「化学ではありません。美しかったでしょう? ライラックのようで」

 切なげで艶めかしい表情をしていた。息もできず、二の句を継げないでいたパンペロはようやく声を出す。

「お前は一体、何を目指しているんだ?」

「総司令官になること以外に何も。思いのほか早くマゼンタ様が王妃となり焦っています。安心してください。魔法は今のしか扱えませんから。あの方の喜ぶ顔が見たかっただけの、馬鹿の一つ覚えというものです。……そんなことよりも、近頃のマゼンタ様が心配でなりません」

「子作りに難航してますますヒステリーを起こしておられるからな……。ここはひとつ、精が出るものを王に食べさせるしかないか……」

 翌日、パンペロは朝から山へ狩猟に行く予定のクラレットに同行した。昼頃になって天候が悪化し、酷い雷雨に見舞われた。

 剣の鍛練で外にいたアメジスは城内へと雨宿りしようとしたところ、幼子の泣き声が聞こえた。庭にある二度目の独立記念日を祝って先代の女王が植えた木の下でスカーレットが座り込んでいた。

「スカーレット様! お一人で何を!」

 抱き寄せるがスカーレットはわんわんと泣くだけ。雷が鳴るとさらにギャーッと大声で喚きだした。

「雷が怖いのですか? 殿下」

「スカーレット!」

 カーマインが回廊で叫んだ。

「只今そちらへ!」

 アメジスは王子が濡れないようコートの中へ入れて駆けた。

「ああごめんなさい! 目を離してしまって!」

 王子を母親の腕の中へ帰すと、先ほどまでいた記念樹に雷が直撃した。幹が裂け燃え上がるのをカーマインは呆然と見つめた。

「なんてこと……! あなたは命の恩人です!」

「さあ早く、乾かしましょう。風邪をひいては大変です」

「ああスカーレット泣かないで、彼のおかげで大丈夫だから。大変だわ、木が燃えてる・・・!」

 この出来事を不吉としなければ何だというのだろう。城内は騒然とした。やがて火は自然と消え、空は晴れ、見事な虹が城の上にできた。それすらもよからぬ前兆のようだった。

 五時間後に凶報が届いた。クラレットが土砂崩れに巻き込まれて死んだ。彼を運んできたのは軽傷を負ったパンペロ。泥だらけのまま手当てを受けている間は唇を噛み締め天井を仰いでいた。

「どうしてあなたの方が生きているの!?」

 マゼンタは飛んでくるなり怒りをぶちまけ、引っ叩いた。さらに老け込んだパンペロは「申し訳ございません」と力なく繰り返した。

「パンペロ。あなたに責任はない」

 彼女がいなくなってからアメジスは優しく言葉をかけるも、パンペロは「言うな」ときつく目を閉じた。その時の夕空は赤と青が交わって紫が覆いかぶさっているのがやけに印象的で、アメジスの目に焼き付いた。

 王の死は紅の魔女の呪いのせいではないかと、どこから魔女の件が漏れたのか国中が大騒ぎになったが、これは自然災害による不幸な事故だとバーガンディが率先して鎮めた。


 王座に就いている者の長男が優先される。それがシュトルーフィアの王位継承法。しかしクラレットとマゼンタには子がいないため、バーガンディが新たな王となった。

 王妃の座から引きずり落とされたマゼンタは怒り狂い、酒に溺れ、アメジスが毎日慰めた。彼女は自信を失い、食欲を失い、食べても吐くようになった。が、妊娠していたと知るや否やころっと顔色を変え、奇声をあげて喜び、王の座は我が子にあると主張し始めた。しかし既に戴冠式は済まされた後であり、バーガンディが正式なる国王として変わりなかった。それでもマゼンタは無効にせよと新聞社に自ら売り込んで民衆から訴え続け、がめつい女だと批判を受けた。

 そんな彼女に味方がいなかった訳ではない。バーガンディが王ということは、次の王はスカーレットなのである。ルビーリージュの生まれ変わりだと、紅の魔女の言葉を信じた臣下はマゼンタを後押しした。

 ルビーリージュがシュトルーフィアを滅ぼしたとされる歴史に対して懐疑的なバーガンディは、

「魔女は人を惑わせる。中からじわじわと破滅に追いやる、まるで毒のような存在。たとえスカーレットの根源が悪だったとしても、誠意と愛情をもって接すれば善良な人間に変わってくれるだろう。どうかみんな、待ってくれ。彼が一人前に志を持つまで。その頃には兄さんの子も人格が出てくる。その子の方が王として人望があったのなら、事情をきっちり話して納得させた上でスカーレットの王位継承権をなくし、私は王座を退いて兄の子を王として支えるつもりだ。カーマインも承知している」

 と、スカーレットの九歳の誕生日までの猶予を認めるよう、冷静な判断を求めた。王家の肩書すら賭ける王に臣下たちも黙り込み、マゼンタもさすがに空気を呼んだのか大人しくしていた。

 彼女も無事に男子を出産し、バミリオンと命名した。眠る我が子を抱き、ベッドに横たわるマゼンタは執念深く言う。

「わたくしは諦めなくてよ。国母(こくぼ)として返り咲いてみせる」

 その心は曽祖父から受け継がれたものなのだろう。彼女は傍のアメジスに目を向ける。部屋にいるのはいつも彼だけである。

「お願いがあるわ。アメジス」

「何なりと」

「誰にも悟られないよう、スカーレットを殺して」

 彼女なら言うだろう。予想通りの展開に、アメジスは目を澄まし続ける。

「九歳になるまで待つなんてまっぴら。あんな男が父親で、まともに育たない訳がないわ。事故死に見せようが毒殺しようが何でもいい。今のうちに不安な要素を摘んでちょうだい」

「わかりました。……その代わり、私からのお願いを聞いていただけますか?」

「ただでは人殺しをしない……。まあ当然よね。いいわ、言ってみて」

 アメジスは屈み、顔を近づける。ブルーベリーの香水が香った。

「私は総司令官ではなく、あなたの夫になりたいのです」

「……何を言っているの?」

 マゼンタは目を見開く。相手は口を閉ざし、しげしげと見つめている。マゼンタは鼻を鳴らした。

「冗談言わないで。お前はペイルスキンよ。自分の年もわからない奴と結婚だなんて、わたくしの自尊心が許さなくてよ。そんなに王子を殺すのに抵抗があるのなら、パンペロに頼むまでだわ」

「彼が断ったらどうするおつもりですか」

「わたくしがやるまでだわ。この恩知らずめ」

 アメジスは微笑み、(いと)わしがる彼女から顔を離して一歩退いた。

「スカーレット様を殺すなんて不可能でしょう。おやめください。手を出さずとも、バミリオン様が王座に就くでしょう」

「その前にこの国は滅びるのよ!」

 マゼンタが声を荒げると、バミリオンは驚いて目を覚まし泣きだした。アメジスは気にすることはなく淡々と発言する。

「私は魔女の予言ではなく国王の言葉を信じます。あの方を信用することがシュトルーフィア崩壊を免れるすべ。どうか落ち着いてください。母親がそのような態度を取っては、バミリオン様にも悪い影響が出ます」

「随分とわたくしに口出しできるようになったのね。対等になったつもりでいるのなら勘違いも甚だしくてよ! さあ部屋から出ていくがいいわ。ええいっそのこと故郷であるゾンビの島へと帰っても良くて!」

「何かございましたらいつでもお呼びください」

 アメジスは深々と頭を下げ、退室した。面白いくらいに予想通りの反応を彼女は示してくれたので、笑いが止まらなかった。


 ◇◇◇


 バミリオンが一歳を迎え、スカーレットもすくすくと成長していた。スカーレットの性格には問題なく、よく笑い、式典の時は静かにし、父親をまねて城内をふらふらと歩き回ってはすれ違った人に元気よく挨拶をした。図書室に来た時はアメジスのまねをして本を眺め、でたらめな字を書いた。アメジスのブルーベリーの香水が気に入っていて、彼が傍にいて眠くなった時は駄々をこねて抱っこを要求した。

 二人が仲良くしているのを、マゼンタは気に入らなかった。彼女はアメジスを呼び出した。

「二度とあの子と接触しないで。構うならバミリオンを構って」

 そう言ってマゼンタはふてぶてしくキセルを深く吸い、鼻から煙を吹く。バミリオンはいない。パンペロが散歩してあやしているのだろう。彼はさらに痩せ、髪もすっかり白く細くなっていた。

 マゼンタは子育てに飽きていた。いつもバミリオンをパンペロに預け、以前のように競馬場やカジノに通っては酒を飲み、煙草を吸った。彼女は変装がうまく、世間の話題に上がらないでいた。いや、彼女が王室に居座っていること自体なかったことにしていると言うべきなのかもしれない。バーガンディは身分をわきまえるよう注意したが無視し続けていた。アメジスは本当にマゼンタという女は面白いと思った。

「マゼンタ様。私と賭けをしてみませんか?」

「賭けですって?」

「お好きでしょう? あなたが勝ったなら、私はスカーレット様を殺しましょう」

「負けた時は妻になれと言うのなら断るわ」

「いいえ。私はシュトルーフィアから出ていきます。私は自由の身となり、二度とあなたの前に姿を現さないことを約束しましょう」

「そう。……なら、よろしくてよ」

 アメジスは細めのグラスとワインを棚から二本用意し、彼女の前でワインを注いだ。

「グラスの内側には毒が塗ってあります」

「何ですって?」

 マゼンタはぎょっとする。

「ご安心ください。次第に具合が悪くなるでしょうが、解毒剤を服用する余裕は十分あります。すぐに治まりますよ」

「随分と悪趣味な賭けを思いついたものね。誰かの入れ知恵?」

「ドキドキしますでしょう? 一か八かですから。お気に召されなければ、あなたが思いついた方法でやりましょう」

 彼女は無言でにらみ続け、

「……あるのね? 解毒剤」

 念を押した。

「あなたに嘘はつきません。本当によろしいですか? 自分で考えておきながらなんですが、馬鹿馬鹿しいやり方だとは思いませんか?」

 彼もまた念を押す。

「くどいのは嫌いよ」

「では、どうぞ」

 マゼンタは二つのグラスと彼の目を交互ににらみ、先に片方を選んだ。

「同時に飲むのよ?」

「平等ですから」

 二人は同時にワインに口をつけた。マゼンタは一口だけ、アメジスは全て飲み干した。

「……物語でありますね。毒によって永遠の眠りについた姫が王子の口づけで目を覚ます」

「それが何だというの?」

 マゼンタは彼の顔色をうかがう。青いのでよくわからない。食道からが胃にかけて熱く、ピリピリしてきた。毒が当たったのだ。アメジスは真顔でこちらを見つめているだけで、薬を用意しようとしない。

「早く、解毒剤をちょうだい!」

「私にキスをしてくだされば一瞬で助かりますよ」

「冗談を言っている場合じゃない!」

「私は本気だ。あなたはご存じないのですか?」

 彼も毒をもらっていた。両方のグラスに塗ってあったのだ。しかし彼は青肌人。全身が青く変色した見返りとして最高の免疫を手に入れた人間。毒を以て毒を制すとは、彼らにふさわしい言葉だろう。ほんのわずかな血、唾液ですら、どんな猛毒もまたたく間に消すことができる薬となる。青い生き物の血は不治の病を治癒するという伝承は真なのだ。

 大勢の人を救えると、かつてマルーンは言ってくれた。その言葉がどれほどの励みになったことか。しかし、そのことをマゼンタに伝えることはなかった。機会なら何度もあっただろう。自分が今までどのような人生を歩んできたか。島での暮らし。地獄の奴隷時代。アメジスという人間について全て。彼女の暇潰しにでも語れただろう。

 しかし、そんな時間は訪れることも、作ることもなかった。彼女が何も聞いてこないからだ。彼女が尋ねてきたことは初対面の時の名前と年齢だけ。冗談も含めるなら血の色。彼女が近づいてきたのはペイルスキンの子どもが賭博場で戦っていたことが面白かったからであり、内面には何の興味もなかったのである。何年経っても。どれだけ長い時間、傍らにいても。

 マゼンタはテーブルクロスを掴み、崩れるように膝をつく。アメジスは素早く自分のグラスを取り、彼女のだけがあっけなく落下し割れた。

「信じていただけないのですね? 私の言葉を」

「よくも……騙したわね……! この、悪魔……!」

 上半身が痙攣(けいれん)し、胃の中身が口から漏れる。打ち上げられた魚のような彼女を、アメジスは見下ろし続け、甘い声で語りかける。

「あなたはまったく本を読まないというのに、私を傍に置いてくださいましたね。てっきり馬鹿馬鹿しい流説を信じずに、目の前にいる私を素直に信じているものだと……。真意は別にあったのでしょう? 私は単なる慰み者で、道化で……。犬や猫と同じだったのでしょうね? それとも、軍の頂点にさえ手が届いたならあなたの曽祖父のようになれたのでしょうか? 奴隷だった哀れなペイルスキンから、アメジスという名前の一人の剣士になれたのでしょうか? あの日、出過ぎたまねをしたと今でも反省してやみません。少々あなたを試してみたかっただけなのに。……しかし、あなたも言い方が悪かったのですよ? 私にはプライドがありますから」

 アメジスは薄らと口角を上げ、自分のグラスを上着の袖の中に隠し、何食わぬ顔で退室した。

 図書室で本とにらめっこしていたスカーレットに文字を教えていたところで、カーマインが髪を乱してやってくる。「マゼンタが亡くなったわ!」と叫ばれるや、顔色を紫にして部屋へと急いだ。洗浄しておいたグラスをかばうように冷たくなった彼女を抱き締め、名を呼んだ。あとは騒ぎの中でさりげなくグラスを戻した。


 マゼンタの死因は急性アルコール中毒だと医師が見解した。そう誤診してもらうよう選んだ毒だったのだが、この医師の遠慮のない死体の扱いを見て、つくづく哀れだとアメジスは思った。

 葬式も埋葬も済むと、彼は隊員たちに惜しまれながらも正式に軍を抜けた。

「せっかくスカーレットが懐いていたのに。いや僕の子よりもバミリオンをどうするつもりだ? 親が二人とも亡くなって、ひとりぼっちになってしまった」

 夜になってバーガンディは彼が城から去ることを拒んだ。

「軍の一隊員が要求するのもおこがましいと承知でお願いがございます。どうかバミリオン様をスカーレット様の弟として、国王様と王妃様の子として面倒を見ていただけないでしょうか? 利用する訳なので罪悪感が残りますが」

「罪悪感だなんてやめてくれ。頼まれずとも愛情を目一杯そそぐよ。ただマゼンタの気持ちを思えば……」

「私のことはどなたにも話さなくて結構です。スカーレット様もやがて私のことを忘れるでしょう。それでいいんです。万が一、再会するとしても知らぬ顔をしましょう」

「何もそこまで」

「私も所詮、毒のような存在だったということです。これ以上に関わりを持つと、この国は紫どころか青くなってしまいます」

「まさかきみが迷信めいたことを言うなんて思わなかった。青肌人はあの島特有の細菌によって青くなっているだけであって、きみたちは無害だ。それどころかこの世界にどれだけの恩恵を与えてくれる存在なことか」

 意外だという顔をされ、アメジスはくすりと笑う。

「私と巡り合わなければ、マゼンタ様もお亡くなりになることはなかったでしょう」

「きみのせいなもんか。彼女は自分で自分をいじめていたんだ。家族一人すらどうにもしてあげられなくて、自分の無力さを感じるよ」

「あなたの方こそ。自分のせいになさらないでください」

「これからどうするつもりなんだい? 帰郷するのか?」

「それも無理です。あの頃の暮らしに戻れそうもないですから」

「国王の命令だと言っても、ここに残るつもりはないか? きみなら側近として誰よりも信頼できるんだけど」

 食い下がる国王にアメジスは苦笑する。

「あなたのことを深く尊敬しております。できることならお仕えしたいのですが、ルビーリージュの二の舞になりたくありませんから。どうかお許しください」

「ああ……」

 ついにバーガンディは折れ、懸念を漏らす。

「正直なところ、すごく不安なんだ。スカーレットが無事に十歳の誕生日を迎えてくれるかどうか」

「運命は魔女の予言から免れられます。スカーレット様は無事に立派な大人になられ、シュトルーフィアも未来永劫平和です」

「未来を担う若者にそうはっきり断言されると、信じるしかないな。きみはずっとたくましいよ」

 バーガンディは眉尻を下げて笑いをこぼした。

「このような、忸怩(じくじ)たる者ですが……。もう二つ、聞き入れてほしいことがございます」

「何だ? 何でも言ってくれ」

「私たち青肌人は未だに世界の奴隷なのです。私は私で行動を起こすつもりですが、どうかサラマンに、隣国の王であるあなたが彼らを商品とするのをやめるよう呼びかけてほしいのです」

「わかった。どうにかしてみせよう」

「ありがとうございます」

「もう一つは何だい?」

「たとえ法律では許されることであっても、青肌であることで咎められることもあるでしょう。そのような時のために保険がほしいのです。シュトルーフィア王国とその同盟国の領地にいる間だけでも」

「わかった」

 この者がどんな行いをしようと罰することはできない。もし罰せられたなら、シュトルーフィアとその同盟国を敵に回すことになる――と、国王は書簡に刻印を押した。

「あまり危険なまねはよしてくれ」

「けしてあなたに迷惑はかけません」

 アメジスは国王の署名入りの免罪符を懐に仕舞い込む。

「できれば心配もかけさせるな。お前は年の離れた弟のようなものだからな。人種が違っても我々は同じ人間。家族だ。それを忘れないでくれ」

 カーマインもスカーレットも眠っているのに、何も今出ていかなくても。そう国王に止められるもアメジスは朝日を待たず旅立った。

 すると、誰かが後をつけているようではないか。振り返らずとも相手が誰かわかる。あえて人気のある道を避け、町並みを外れた石橋の真ん中で立ち止まった。

「パンペロ。私に言いたいことがあるのでしょう?」

「もうそんなかしこまった口調はやめないか」

 パンペロは橋のたもとで足を止める。

「どうしてもお前に確かめておきたいことがある。クラレット様の死についてだ」

 表情は暗くてはっきりしないが、声は張り詰めている。

「悪天候によって、私とクラレット様は土砂崩れに巻き込まれ、私だけがたまたま生き延びた。ずっとそう思い込んでいたが、実際あの時何が起こったのか、未だわからん。どうしても鮮明には思い出せないのだ。ただ、よく私はクラレット様のご遺体をあの土砂の中から見つけ出せたものだと……。しかし、それにしてはあの方のご遺体はきれいだった」

「そうだな」

 温度を感じさせないその一言に、パンペロは手を胸に当て爪を立てた。

「私が殺したのか? 私が、突き落としてしまったのか?」

「あなたに責任はない」

 息を吐くように言われ、パンペロの顔が小刻みに震える。

「私に一体何をした……? あの時! 馬鹿の一つ覚えと言ったあの魔法で! お前は私に何をした!? それだけではない! マゼンタ様に何をしたかお前の口から言ってみろ! よくも悲しむふりを大勢の前でしてみせたな! 恥を知れい!」

「ふりではない。私は誰よりも彼女の死に悲嘆した」

「黙れい! 国を欺いた悪魔の手先め! 剣を抜けぇい!」

 パンペロは激越して突進した。アメジスも構えた。橋の上で刃が交わる音が鳴る。()しく二人は剣を振るった。火花が散った。パンペロは老いても手足れており、見事な間合いを作ってアメジスを追い詰める。

「お前さえいなければ、城内は混乱を招くことはなかった!」

「どうだろうか。それはないな。そろって紅の魔女に恐れ(おのの)いていただろう? 私は紡がれていく歴史に一役買ったまでだ」

「ああ! 暗黒の歴史だ!」

「今に始まったことではないだろう?」

 アメジスは悠々とした表情を崩さず、パンペロの脳内で警鐘が鳴り響く。

「お前は一体何になろうとしている!? 魔道を歩み、本物の悪魔にでもなるか!」

「私は私でしかない」

 アメジスが目を伏せた瞬間。パンペロの左横腹に激痛が走った。次に右肩、左腕、右脚と鮮やかに裂かれ、血が噴き出した。

 パンペロは膝が崩れ落ちそうなのをこらえ悶えた。何が起こったのか頭が追いつかない。体が斬れた(、、、)ことは間違いない。しかし剣は己の剣で全て、間違いなく受け止めていた。

 足元に血痕がないことに気づいた。痛みだけを残し傷口が消えている。

 本当は、斬られてはいない(、、、、、、、、)のだ!

 斬れたように見えたのは、ただの幻覚か。これも魔法なのか!

 アメジスは動きを止め、老剣士の戸惑う様子を眺めながら、なだらかな語調で続きを連ねる。

「だけれど、それもいい。悪魔にでもなれば紅の魔女をねじ伏せられるかもしれない。私の望みは、サラマンを超えることだから」

「なに……?」

「かつて兄弟が一冊の本に希望を持ち、そのような理想を掲げた。あまりにも抽象的で、私は故郷に帰ればそれでいいと思っていた。ところがどうだ、今では希望に満ちあふれ可能性を見出せている。あの魔女はサラマンの魔女。彼女が裏で支配しているようなものだ。彼女を打ち倒し、サラマンの統治者一人一人を崩せば、今度はバミリオン様が王となったシュトルーフィアがサラマンを飲み込む番だ」

 顔に生気はない。まるでゾンビであった。対して紫水晶のような二つの瞳は遠くに潜む獲物を狙っている狩人の如く炯々(けいけい)としていた。不穏な生温かい風にパンペロの背筋が凍りつく。

「島を荒らし、ペイルスキンを虐げたサラマン人への復讐か……!」

「復讐?」

 アメジスは大笑いした。

「私はそこまで小さい男だと? だとしたら無差別にサラマン人を殺していけばいい話じゃないか! まあもっとも、シュトルーフィア軍の総司令官になってから戦争が始まるよう仕向ける手も考えていた。シュトルーフィアは小国だが、複数の国と同盟を結んでいることによって援兵の面では問題ないからな。国王は皆に愛されているよ」

「お前は、そこまで……!」

「国王の側近という地位も捨て(がた)かったが、後に面倒なことになりかねないからな。私を突き動かしているものは幼心さ。サラマンに虐げられないようにするにはどうするべきか? 答えは簡単だ。サラマンを過去へ葬り去り、国を失った民を啓蒙することだ。やがて歴史はどれだけサラマンが愚かな国だったか非難し、シュトルーフィアは賛美されるだろう。我らを下級と見なし、汚らわしいと扱き下ろすものは神の毒酒によって死ぬ! 我らの島は純潔を取り戻し、蒼茫は尊厳を手に入れるのだ!」

 いつからそんな考えを持っていたのか、パンペロはもうわからなかった。

「しかしながら……」

 アメジスはおもむろに星空を仰ぐ。

「今の私では到底あの女に太刀打ちできない。魔女にも社会があるからな。攻略は容易ではないだろう。下手に手出ししては複数に返り討ちにあってしまう。独学と途方もない実験で魔法を得るより、権力と実力を備えた真っ当な魔術師を見つけ、その者の影で動いた方が得策だ。私は心から神に感謝している。マゼンタ様に出会えたことを」

 彼は微笑んだ。どことなく悲しげに。

「パンペロ。バミリオン様を頼む。お願いだ」

「勝手なことをほざくな青肌……! 犯した罪はやがて自分に返ってくるぞ!」

「悪魔になる男が地獄に落ちることを恐れてどうする? ……さらばだ」

 アメジスは背中を向け歩き始めた。

「待てアメジス!」

 逃がしてなるものか。パンペロは無我夢中で追いかけ、剣を振りかざした。が、向こう岸へと渡りきったアメジスの背中は揺らめき、左右に分裂しながら紫色の炎と化し咲くと、熱さを感じる間もなく夜の幻となり、花弁のように舞い上がり消えた。そしてブルーベリーのほのかな甘酸っぱい残り香が鼻をかすめたのだった。パンペロは愕然と膝をつく。

「何てことだ……」

 思えば。ああ、全てはマゼンタ様。あの方が奴に目をつけなければ。

 いくら嘆いたところで、何もかも取り返しがつかないこと。神はきっかけを与えた。奴隷から一国の守護者となり名声を得る好機……。それが叶い世界に知らしめた時、きっと世界は動き、故郷を守ることに繋がっただろうに。そう、健全に。それなのに奴は誤った方向に、与えられた使命とばかりに。

 何て、恐ろしいことだろう。青に愛された奇跡の島で生まれた少年は蛇心(じゃしん)を持った大人になり、欲に渦巻く黒き世界へと巣立っていってしまった。

 国王に真実を告げるべきなのだろう。奴の罪を全て告げて……どうなるというのだろう。奴はどこまで考えているのだろう。

 わからない。何もかもわからない……。

「バミリオン様……」

 あの子がぐずる声が聞こえたような気がして、パンペラは失意のまま剣を鞘に収め、まだ痛む細い脚を気力振り絞って動かした。


〈了〉

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