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青い毒  作者: 鳥丸唯史
2/3

中編

 ◇◇◇


 朝はパンペロの「青肌め」という軽蔑を含んだ濁声で目が覚めた。思いのほか深く眠っていたらしい。体中がたくさんの手にしがみつかれているかのように重い。緊張が解けてこれまでの負荷が押し寄せたのだろう。

 この男が部屋に入ってくるのに気づかなかったのは不覚だった。その心情を察したのかどうか、生意気だと言わんばかりに角張った顔の頬筋がピクリと突っ張る。

「支度しろ」

「命令か?」

「ぬぬ……! おねがいします、早く!」

 歯を食いしばるパンペロの額に青筋が浮いているのを視界の隅に、この柔らかい寝床を手放すのはもったいないとアメジスはふと思った。しかしいつまでもここにいる訳にもいかない。小刀を仕舞い込み、のろりと上体を起こす。節々が痛む。

 一階の食堂にマゼンタはいた。豊かそうな利用客のわずかなどよめきに現れたとわかったのだろう。彼女は振り向くことなく笑みを浮かべて待っていた。

「あなたはジュースでいいわよね」

 返事をする間もなくグラスが彼女の向かい側の席に用意される。そこに座れという意味だろう。パンペロは既に食事を済ませてあるのか、マゼンタの斜め後ろで待機している。何が起こっても対応できるように、隙はない。

 グラスに注がれた赤みがかった紫色の液体が波打っている。

「うふふ。毒が入っているように見えるかしら?」

「いや……」

 アメジスは(かぶり)を振る。

「血のように見えたのだ」

「あなたたちの血はそんな色をしているの? てっきりもっと青いのかと思った」

「馬鹿にしているのか?」

「いいえ。思い違いをしていただけよ。可愛い子ね。ほら、冷めちゃう前に食べてしまいましょ」

 アメジスはジュースを口に含んだ。島民の血のように見えたそれはとても甘ったるい味がした。

 途切れ途切れのまばらな視線を感じる。気にはなるが凝視するのは遠慮したいということなのか。

「ちょっとキミ、これを違うメニューに取り換えてくれないか」

 背後にいる男が言った。同じものなど食えたものじゃないということなのだ。目の前にいる女も全く同じ食事が用意されているが、彼女はずっと澄まして食べ物を口に運んでいる。

 周りの目などどうでもいいと思っていながら気にしてしまっていたらしい。ここにいることを許しているのはこの建物の主で、自分も他と変わらないサービスを受ける権利のある客の一人に違いないのだ。たとえそいつをつまみ出せと誰かが喚こうと、追い出されるのはそいつのはず。初めての環境であってもこの女のように堂々としているべきなのだ。

 と、アメジスはマゼンタがこちらを見て笑っているのに気づいた。

「ふふふ。手始めにマナーを覚えてもらわなくてはならないようね」

「マナー?」

「わたしのものになるからには立派に育ってもらわなくてはならないわ。誰もが羨むくらいにね」

「羨む? 私をか?」

「そうよ。あなたにはそれができるって期待しているわよ」


 車は海から遠く離れ殺風景な高原を抜けていく。アメジスはずっと外をにらんだ。来た道を覚えておけば困ることはない。

 時として、空から星が降ってきたとでもいうのか、いくつもの巨大な穴を横切る。そこでもサラマン人が何かを掘らせていたに違いないと彼は目を細める。

「国境を抜けたわ。シュトルーフィアよ。二度もサラマンから独立した王国」

「それは、惹かれるな」

 マゼンタはクスリと笑う。パンペロは忌々しいとばかりに絶えず仏頂面である。

「その国にも海はあるか?」

「いいえ。三つの国に囲まれているもの。恋しくなったらいつでも連れてってあげるわ」

「ならいい」

 広大な牧場には馬がいた。馬が好きなのだと彼女は言った。既に敷地内に入っているようだったが、肝心の家はまだ見えない。「あの向こうよ」と小さく指さした先には緑がこんもりと生い茂っていた。

 ようやく屋敷に到着した時は、もう何も驚くまいと決めた。が、敵わなかった。一体ここに何人の人間が住んでいるというのか。さっきまでいた建物よりもでかいのではないか。

 島の外は異世界だ。マゼンタ自身が中を案内してくれるのをただただついていくしかない。そして途中に見せられた大部屋にアメジスは何よりも心を打たれた。

「ここは図書室よ。祖父と兄が大変な読書家だったから、ここに保管してあるの」

 ヴィオレストが持っていたものとは比べ物にならない厚さと大きさの書物が壁一面の棚に並んでいた。独特な香りがする。これは本の匂いなのだ。

「全部、本なのか?」

 思わず声が上擦る。ヴィオレストに見せてやりたい。彼がいたなら喜びの踊りを始めるところだろう。

「あら、好きなら適当に取っても結構よ。わたくしは興味ありませんの」

「いや……。私は字が読めないのだ」

 読めないくせに驚いたの? そんな風にマゼンタは可笑しそうだった。

「へぇ。教育係をつけても良くってよ。授業料は報酬から差し引くわ。そうね、マルーンがいいわ。マナーも彼女に教わりなさい。彼女はどこ?」

「ここにいます」

 本棚の間から羽のはたきを持った召使の女が早々と出てきた。マゼンタより年上だろうか、彼女に対してかなり地味な浅緑のエプロンドレスだ。きつく団子に結った毛糸のような髪。丸く突き出た頬骨に大きな唇。そして黒い肌。島以外の人間は白ともオレンジとも(そもそも色に名前があることすら理解していなかったのだが)言い難い中途半端な色の肌をした者ばかりだとアメジスは思っていた。実際にはあらゆる色の肌の人間がいるらしい。しかしそれらは稀有であり、彼女のように誰かに仕える身となるさだめなのか。彼女もまたどこかから連れ出されたのだろうか……。

 あれこれ考えている間にこの黒い召使は事情を聴かされている。きちんと耳を傾けているようだが、ちらちら視線を向けてくる。彼女にとっても青い自分は物珍しいのだろうか。

 マルーンは静かに腰を落とし、アメジスの両手をすくうように包むと微笑んだ。

「初めまして。マルーンと言います。会えて光栄です」

 と、額を彼の手の甲にぴたりとくっつけた。思わず目を丸くする青い彼に、マゼンタは声を上げて笑った。

「きっと数年は退屈しないわ!」


 当分故郷に返すつもりはないのだ。アメジスはパンペロと同様に護衛と監視の役を務めることになったが、退屈しのぎの遊び相手ないし道楽を共に楽しむ相手に近く、パンペロと扱われ方が違った。

 賭け事が好きなマゼンタは頻繁に競馬場に訪れた。馬主でもあったので、アメジスを自分の馬の騎手にするといった気まぐれも披露した。それでもアメジスは文句を言わず彼女の期待に応え一位を取り続けた。馬と駆けている間だけ島にいた頃を思えた一時だった。

 マゼンタは価値観の違いが理由と言って父親とは微妙な距離を置いている。彼女の好き勝手な外出、振る舞いにも父親は見向きもしない。彼は彼で世界をうろついているらしく、アメジスが顔を合わせたのは数えるほどしかなかった。ペイルスキンを連れ帰ったことを、この男は何も言わなかった。娘に対し何ら興味がないのだろう。ただ青肌の人間を間近にして白い目で見ただけだった。母親に関してマゼンタは一切触れようとせず、何年か前に心を病んで亡くなっているのだとマルーンが本人のいないところで耳打ちした。

「寂しい人なのよ。それを賭け事やらパーティーやら、興奮で紛らわしているだけ。傍にいてあげて頂戴ね」

 彼女も孤独を感じているのだろうか。家族のいない屋敷にいるよりも他人が大勢いる場に身を投じている方が気楽だと思っているのだろうか……。

「マルーンは寂しくないのか?」

 図書室で読み書きを教わっている最中に投げかけた。

「わたし?」

「屋敷にいる黒い肌の人間はお前だけだ」

 浅黒かったり、赤みがかったりしている召使はいる。しかしどれも白とオレンジとも言い難い色の方に寄っている。集団になれば気にも留めないだろう。

「そうね……。いろんなことを思ったりしたけど、今はそれなりに満足してるのよね。前の所に比べたら賃金はいいし。部屋だってじめじめカビ臭くない。嫌なことがあっても本の匂いを嗅ぐとどうでもよくなっちゃう」

 マルーンは図書室を掃除する時が至福だという。神に見守られていると感じることができるのだという。

「神の匂いだから?」

「そう。あれは神様の匂いなのよ。だって神様は何だってご存知でしょう? だから人間の何年何百年という知識の層が一つに集まれば、きっと神様の匂いに似たものになるのよ。どんなにばらばらの、思想だったり、主義だったり、学説だったりしても、一つにまとめればそれが神様の導き出した気まぐれな答えに近いものなの。だから人はばらばらであっていいの。肌の色が黒だろうが青だろうが、ね。だって人は神様に遠く及ばないんだもの。気楽でいいの」

「しかし、ばらばらでも人は対等であるべきだろう?」

「優劣がつくのは仕方ないよ。例えば、わたしの村ではね、青い生き物は神聖なものなの。それが人の姿となればどう? あなたを村に連れて帰ればたちまち神様として崇められることになる」

「マルーンは私を神だと思っていないだろう」

「そうね。でも青肌人は世界にとってかけがえのない宝よ。それだけは間違いない。自信を持って」

 手を優しく握ってくる。マルーンの手は水仕事で荒れ、豆だらけ。ごつごつとした指をして、大きな手のひらだ。

(……母さん!)

 肌の色は違うのに。アメジスは腹を抱えた母を鮮烈に思い出し、そっと頬を濡らした。儀式によれば弟なのだ。無事に生まれたのだろうか……。


 アメジスはあらゆる社交の場に付き添い、マルーンに聞かずとも作法は見様見真似で吸収していった。見合った服も与えられた。微妙な重さも動きにくさも次第に慣れた。

 マゼンタは幾度とシュトルーフィアとサラマンを行き来するので、青い肌に対して蔑む度合いが両国で微妙に違うことに気づいた。

「ペイルスキンがなぜここに?」

「人さらい民族でしょう? 海を渡って他人の赤子をさらって殺すんですって……!」

「おぞましい。せっかくの煙が不味くなっちゃう」

 アメジスは呆れた。人さらいと誤解されているのには理由がある。生まれたばかりの青肌人は青くはない。デッドブルーアイランド特有のデッドブルー、別称ゾンビカビと名付けられた青カビを体内に取り込み続けることによって青化症(せいかしょう)を発症する。発症前の赤子を見た探検家辺りが早とちりし、誤った記録は回収されずにいるのだ。島外の人間ならばやがて死に至るのに対し、青肌人は母乳を飲むことで免疫を得る。生き物によっては糞や血液で免疫力をつける。マルーン曰く、青い生き物の血はあらゆる不治の病を治癒するという伝承が各地に存在しているらしく、それが乱獲の理由の一つになっているのだろう。人さらい以外にも、触られると青化症が感染すると頑なに誤解し続ける者も少なくない。毎度一から教鞭するのはあまりにも面倒なので、アメジスは支給してもらった馬革の手袋をしていた。

 シュトルーフィア人はまだ寛容的で陰で囁く程度である。サラマン人はかえって清々しいほどにはっきりと嫌悪感を口にしてくれる。他者への思いやりのなさは筋金入りだ。全員が同じ思考をしている訳ではないだろうが、類は友を呼ぶ。たとえ博識であろうと、場の空気を変えてまでペイルスキンを擁護する者はいなかった。

 しかし彼女は違った。アメジスが他人に疎まれ嫌味を叩かれると、その度に言った。

「この世は青が支配していますわ。空も海も山も。この子は青に愛されておりますの」

 その日の上流階級のパーティーに限っては、彼女の知人はアメジスに耳打ちする。

「気をつけたまえ。彼女は目立ちたがり屋だ」

 そうかもしれない。世界は己中心で回っている、回していたいとマゼンタは思っている。それは低俗だと扱き下ろす周りに比べたら可愛いものだった。面白い女性だし、隣にいて飽きない。勝手に敷地から出ることを禁じているが、自由に図書室に入れたので苦でなかった。故郷の島について記されていた書物も余すところなく目を通し、未だ迷信を口にする奴らを心中で嘲笑うことができた。

 豪華な食事、高価な服、優雅な音楽……。けしてそれらを幸福とは呼べなかった。時間はあっという間、もったいないくらいに過ぎていく。島にいた頃はもっとのんびりできた。しかし島にはなかった充実感を得ているのも事実で。

「失敬。どういった経緯でこの青い少年を傍に置いているんだい?」

 一人の男がマゼンタに近づいた。

「このブルーベリー色の髪と瞳が気に入りましたの」

「じゃあこの香りは、ブルーベリーか」

「わたくしがプレゼントしましたの」

 彼女のお願いで香水をつけることが日課となっている。自分から甘い匂いがする違和感さえ慣れてしまっていた。もう堂々と故郷の土地に足を踏み入れられるのか疑問に思えてくるほどに。

「あなたは、クラレット王子のそっくりさんであらせられるのかしらね」

「マゼンタ様っ」

 パンペロが眉尻を上げて注意するが、男は口を押さえて失笑する。

「そうさ。いつも間違えられて困っているんだ」

 二人がくすくすと笑い合うのを見て、アメジスとパンペロはそろって訝しんだ。


 ◇◇◇


 マゼンタと出会ってから二年ほど経つ。クラレットは何度もお忍びで屋敷に訪れ、乗馬や茶会を楽しんだ。

 シュトルーフィア王国の第一王子というのは本当らしい。シュトルーフィアには整った顔の人間が多いようにアメジスは感じていたが、彼はずば抜けて美形であることはわかった。人当たりは良く、歯も白いし、笑い方も下品ではない。マゼンタが夢中になるのも無理はない。したがってマゼンタが人払いをする頻度が増えていくのも納得できる。そんな快晴の午後には図書室に隣接しているバルコニーで読書をする。庭やプールで愛を囁き合っているのを何度もアメジスは見た。まるで鳥の求愛を見ているかのようだった。

 とんとん拍子で二人の結婚が決まり、マゼンタは王家の仲間入りを果たした。アメジスもクラレットの口添えでパンペロと共に敷居をまたぐことを許された。

 屋敷にはもう戻らないと聞かされ、一番に思い浮かべたのはマルーンのことだった。彼女は城には行けなかった。マゼンタにお願いして一緒に行くことを許してもらおうとアメジスは言った。しかしマルーンは困ったように首を振った。

「たとえ許されてもあたしはここに残るわ。この図書室を放置させる訳にはいかないもの」

「使用人ならまだいるだろう」

「そうね。代わりならいくらでもいる。だからこそあたしは残りたいの」

「神の傍に居たいのか?」

「あたしを優しく迎え入れてくれるから。きっとシュトルーフィア城は素敵なところね。あなたについていけさえすれば心から光栄だって思える。でもあそこはあたしのいるべき場所ではない」

「肌が黒いからか?」

「それもあるかもしれない。きっとあたしは、光栄のあまり心が震えて死んでしまうわ」

 初めて会った時のようにアメジスの手を取り額に当てた。

「忘れないで。あなたたちは世界の宝。どんな高価な宝石よりも価値がある」

 まるで最後の別れに聞こえた。住む場所は変わっても、ここには何度だって訪れようとアメジスは思った。しかし、屋敷を出る五日前には気が変わった。マルーンが急死したからである。時期が時期だっただけに、使用人たちは彼女を悪く言い、葬式も簡素なものだった。心臓が悪かったと執事長から聞かされたが、なぜ彼女は言ってくれなかったのか呆然とした。青肌人の伝承を信じていなかったとでもいうのか。いいや、それはない。

 まさか彼女は、血を受け取る資格がないと思っていたのか。わからない。アメジスは図書室を仰いだ。


 まだ読んでいない本を抜き取っていると、パンペロが現れた。

「マゼンタ様がお前を探しているぞ」

 彼の背後からひょっこりとマゼンタが顔を出す。

「ここにいたのね。まさか全部持っていく気? 向こうにも本は飽きるほどあるわ」

「ここの本は全て読もうと決めていましたので」

「はたしてそんな暇はあるのかしら。アメジス。お前は軍に入隊するのよ」

「私は国ではなくマゼンタ様に仕えている身です」

「クラレットはやがて王座に就き、わたくしは王妃となる。ならお前は軍の司令官となるのが当たり前ですわ」

「また無茶なことを。入隊するには試験を通過しなければならないのに」

「可能なことを無茶とは言わなくてよ。来て」

 マゼンタは曽祖父が使用していた書斎に入った。そこには丹念に磨かれた金色の剣が飾られている。彼女は壁から外し、丁寧な手つきでアメジスへと差し出した。

「わたくしの曽祖父は無一文の乞食から上流階級へ、将軍へと昇りつめたわ。彼にはプライドはなかったけれど馬鹿にされることだけは我慢できなくて、何でも一番にこだわったの。これは先代の国王から贈られた物。お前が使うといいわ」

「マゼンタ様! さすがにそれだけはなりませんぞ。よりによってペイルスキンに! お父上が知ったら何とおっしゃるか」

 パンペロが諌めるが、マゼンタは聞かない。

「ただ財産を(むさぼ)っているだけの愚かな男にすれば、これは骨董品の一つとしか捉えていない。いいじゃない。上流階級と無縁だったペイルスキンが兵を従えるところ。想像するだけで笑ってしまうわ! アメジス。お前はこの剣を使って名誉を掴むがいいわ。本を置き、受け取ってくださる?」

 アメジスは剣を手にした。刃には天に昇らんとする二頭の竜の文様が彫られていて、剣を傾かせると竜もうねっているように見えた。心が震えた。

 竜! 島の神だ!

「わたくし、野性的で野蛮な戦いより閑雅な戦いが好みですの。せっかく綺麗な顔をしているのだから、これからはそれを使って頂戴」

「このような長剣を扱った経験はありませんが……。マゼンタ様の願いとあらば。あなたが王妃となったあかつきには、私も軍を統率する男となりましょう」

「よろしい」

 アメジスはシュトルーフィア軍に入隊するため、筆記試験と身体検査を受けた。知力も体力も問題なかったが、気がかりだったことが当然のように起こる。

 集められた合格者の前に現れた、訓練生を受け持つ隊長の一人が列の中央にいたアメジスを指差す。

「どこにいてもよく目立つ色だな。ペイルスキンの小僧」

 訓練生たちは笑った。

「クラレット様からの推薦だとはいえ、これは前代未聞だ。この場に立っているからといって俺はまだお前の入隊を認めた訳ではない」

「規定では人種は問わないとあります」

「異議を唱えるな青肌!」

「やあ、やあ、やあ」

 のんびりとした野太い声。こんな理不尽な男の隣にふらりと顔を出したのは、クラレットの弟バーガンディだった。地味な色のシャツを着た第二王子のさりげない登場に、隊長は驚きながら一歩引いた。

「バ、バーガンディ様? どうされましたか」

「今期はどんな人たちが入隊したのか見に来た」

 両手を腰に、訓練生の顔をしげしげと見ては胸筋を軽く小突き、上腕二頭筋の具合を触って回る。

「うん、いいね。みんな、強そうだ」

 人懐っこい笑みを作って頷いた。第二王子はスマートな兄と比べればずんぐりとして、毛深くて四角い顔。腕は丸太のように太く袖はパンパンに伸びきっていた。熊のような、イノシシのような……。似ても似つかない兄弟に父親が違うという噂もあるほどだ。実のところバーガンディは隔世遺伝で祖父似らしいのだが、噂を気にしてか彼は際立った行動を控え、休日も部屋にこもって勉学に勤しんでいるという話である。アメジスはマゼンタの婚礼の時に一度だけ顔を合わせたことがある。目立つ外見にしては壁の一部であるかのようにひっそりと佇んでいたことを覚えている。

 バーガンディと首を傾げながら見下ろす。

「アメジスだったかな? 名前」

「はい」

「ああよかった、間違って覚えてなくて」

 覚えていてくれていた。兄の方は三度会ってようやく弟の名前と間違わなかったというのに。

「きみの言ったことは間違っていない。人種なんて関係ない。ルビーリージュも人々に恐れられた部族だったけど、トゥバン三世に気に入られて側近となり、軍の総隊長も務めるようになったんだ」

「お言葉ですが、王子様。その名はあまり口になさらない方がよろしいかと」

 隊長が言葉を挟む。アメジスもその歴史のことなら本で知っている。サラマンの幻の部族レッドスプライト。太古昔に天から舞い降りたという戦いの女神バハマッハを信仰し――故にあの穴ぼこだらけの高原はマッハ高原という――そして彼らも破壊の力を得た。その末裔とされるのがレックス・レッドスプライト、通称ルビーリージュ。

「ルビーリージュ」というのは、シュトルーフィアの当時国王だったトゥバン三世に与えられた気高い名前。彼はトゥバン三世を邪術によって操り、腑抜けにし、国を滅ぼしたとされている。彼はシュトルーフィアを元あったサラマンに取り込み直すのが目的でトゥバン三世に近づいたのだと記されていた。

 シュトルーフィアにとってルビーリージュは国の歴史の汚点であるから、隊長の反応も納得できる。しかし、だからといって第二王子の発言は軽はずみだというのか。アメジスにはそうは思えなかった。

「彼と同年齢っぽい子はちらほらいるじゃないか。それなのに彼の入隊は認めない? だったらこうしたらどうだろうか。僕ときみと一試合して」

「私と王子が!」

 指定された隊長は仰天した。

「五分以内に一本奪えたら彼を入隊させておくれよ。僕の剣、用意して!」

 使用人に声をかけるバーガンディ。奇妙な展開に、訓練生たちも沸き立った。困惑する隊長を尻目に、バーガンディは鼻歌交じりに訓練生たちの中へと入っていく。訓練生たちは自然と距離を置いて輪を作り、「ほら」とバーガンディは隊長を中へと手招きする。

「僕のことを王子だなんて思わず、思いっきりやろう。じゃあ始め」

 しっかりと構える隊長に対し、バーガンディはおもちゃをぞんざいに扱う子どものように、ぶらんぶらんと剣を片腕で揺らしながら、ふらふらと隊長の周りを歩きだす。ますます困惑する隊長。

「バーガンディ様。そのような動きをなされては……」

「え? うん。あ、そうそう、そういえば思い出したんだけど――」

 バーガンディも急に困り顔で顎ひげをいじり、隊長の方へ歩み寄る。キャキャキャンと犬が甲高い声で鳴いたかのような音がした。隊長の剣が絡め取られ弾かれたのだ。

「――時間を計ってなかったな。もう終わったけども」

 王子がひょうきんに鞘を治めると拍手が起こった。

「王子! 今のは卑怯です!」

「死人が異議を唱えてどうする」

 そう隊長に言葉を返してから、バーガンディはアメジスの元へ歩み寄る。

「正式に入隊おめでとう。マゼンタさんの顔に泥を塗らないように努めろよ」

「はい」

 バーガンディはにこりと微笑み、またふらりと散歩を始めた。


 アメジスは誰よりもしごかれ、他者に演習の邪魔をされることもあった。それでも彼は()を上げず、甲斐甲斐しく訓練に打ち込んだ。性に合わなかったが銃の扱いも覚えた。敵を知るには敵の手法も学ばなければならない。

 衛兵として城に戻っても剣術の鍛練は怠らず、寝る間も惜しんで本を読んだ。自然とあの隊長も理不尽な言葉をぶつけなくなり、「お前ら奴を見習え」と認めてくれるようになった。代わりに周りに嫉妬され、ますます露骨な嫌がらせを受けた。隣国だから似たような血が流れているということなのだろう。しかしサラマン人から受けた仕打ちに比べれば可愛いものだった。


 ◇◇◇


 一年経って、バーガンディは一般市民のカーマインと結婚した。二人は学生時代からの知り合いで、ずっと思いを寄せいていたバーガンディが勇気を振り絞って告白し、オーケーをもらったのだという。

 盛大に国民に祝福してもらったクラレットに対し、二番煎じは恥ずかしいなど適当な理由をつけ、可能な限り静かに、ささやかに式が上げられた。アメジスもその場にいた。

「彼女もどういうつもりで彼に目をつけたのかしら」

「失礼ですよ、マゼンタ様」

 自分にだけ聞こえるよう言っただろうマゼンタに、アメジスは注意した。

 翌年にはカーマインは懐妊した。性別はまだわからないというのに、早くも名前に悩む第二王子の姿を城内で何度も目撃され、隊の間でも和やかな空気が流れた。隊長に至っては妻子持ちであるため、いかに赤ん坊が天使の如く可愛いか、妻と共に子育てすることの難しさ大変さ、そしてかけがえのない時間であるかを説いた。

 一方で第一王子は趣味の乗馬や狩猟、上流階級の会合続きで見かける頻度が減った。

「アメジス。マゼンタ様の傍に行ってくれんか。お前の方がいい」

 パンペロがいささか困った表情で頼まれ、アメジスは彼女の部屋へ向かった。

 マゼンタはテーブルに顔をうずめていた。

「どうかなされましたか?」

「どうもこうもなくってよ!」

 彼女は珍しく苛立っていた。

「あの女は妊娠したというのに、なぜわたくしはそうじゃないのかしら! 彼が抱いてくれないからよ!」

「お願いすればよろしいでしょう?」

「してるわ、毎晩! 毎晩! まいっばん! でも彼は『今日はつかれた』『また今度にしてくれ』とか何とか言ってはぐらかすのよ! だったらどこにも出かけずここにいたらいいじゃない! どこの馬の骨かも知らない阿婆擦れと浮気をしているに違いないわ!」

「クラレット様もお出かけになる時にお誘いしているでしょう? 戻って来られた時はいつも手土産を用意してくれているではありませんか」

「今すぐ調べてきて!」

 金切り声を上げられ、アメジスは溜め息をつき微笑んだ。

「わかりました。潔白であった時は、もう少し機会をうかがってみてください。よろしいですね?」

 翌日からクラレットが出かける際には同行し、時には濃い化粧をして肌の色を誤魔化し尾行した。浮気をしているような怪しい素振りは見られなかった。もしや男色ではないかとも疑って男同士のやり取りも注意深く観察してみたものの、その空気は微塵も感じられず。それらを報告すると、マゼンタも不服そうな顔をしながらも了承した。


 ◇◇◇


 秋となり、カーマインの出産が間近に控えていた。

 そして女王の誕生日。一日快晴だと思われた雲一つない空だったのが、晩餐会の直前に雲行きが急激に怪しくなった。どっと雨は降り、木々は揺さぶられた。

 そして稲光の中でバルコニーの戸が開かれた。

 嵐と共に彼女はやってきた。

「誰だ、お前は!」

 控えの者の怒鳴り声に対し返された雷鳴。マゼンタ側の壁際に待機していたアメジスは慄然と目を見張った。

 黒い衣をまとった赤髪の女!

「紅の魔女か」

 女王が厳かに言い当てた。

「左様でございます。シュトルーフィアの女王」

 彼女は(しな)を作って頭を下げてから、少しだけ歩みを進めた。

 間違いない! 絶対にそうだ! あの風格。島で言い伝えられてきた奇跡の女。いや、魔女だ! 一体、サラマンに加担して島の民を騙した魔女がなぜここに?

 アメジスは腰に携えた剣の柄に手を添えたまま立ち尽くす。氷漬けにでもされたように動けない。不思議と怒りが湧き上がることはなかったが、彼女が発言する度に鼓動が激しくなった。

「お誕生日だと風の噂で聞きました。アタシからもプレゼントさせていただこうかしら」

「魔女からの施しはいりません。帰りなさい」

「遠慮はいらないわ。女王様というものは図々しくあるべきでなくって?」

「貴様! 何たる侮辱!」

 王室顧問官の一人が青筋を浮かべ怒鳴るも、魔女は心外だと言わんばかり首を傾げた。

「おや、気にさらわれたのなら御免遊ばせ。あまり人間と対等に話す機会がなくて加減というものがわからないの。今夜は良い経験となりましょうね」

 小馬鹿にされた顧問官の顔は見る見るうちに真っ赤に震えた。

「さあ。シュトルーフィアの未来のために一つ、予言を差し上げるわ」

 紅の魔女はカーマインを指差した。

「彼女が身ごもっているのは、何を隠そう、レックス・レッドスプライトの生まれ変わり!」

 どよめきが波打つ中、女王は目を細めた。

「馬鹿な。でたらめを言って混乱を招こうという気?」

「でたらめではないわ。その赤ん坊が九つの誕生日を迎えた時、バハマッハの熱き抱擁によって、シュトルーフィアは二度目の崩壊を遂げるであろう。それを免れたいのであれば、赤ん坊をアタシに捧げなさい」

「だめよ!」

 カーマインは血相を変えて立ち上がる。咄嗟にバーガンディが「急に動くのはよくない」と落ち着かせ、大きな腹を支えた。

「この子はわたしと彼の子なんです! あなたの予言は信じません! たとえ本当でも守ってみせます!」

「僕も同意見だ」

 二人の真っ直ぐな眼差しに、紅の魔女は気だるそうに首を傾げ直して笑った。

「素敵な夫婦愛だこと。赤ん坊の名前はもう決まったのかしら? カーマイン妃」

「スカーレットよ……」

 魔女はマグマのように輝く目をかっと開かせた。

「スカーレット!? ホホホ! ほうらごらんなさい! 何度サラマンから独立しようと紅い宿命から逃れられない! さあ、もう一度考えなさい。愛国心を取るか、親心を取るか」

「愚問だ!」

 バーガンディは憤慨する。

「あらそう。九年後が楽しみだわ!」

 紅の魔女は突然、アメジスの方を向いた。氷漬けから解かれた彼はびくりと肩が跳ねた。紅の魔女の目は赤から闇に変わっていた。真っ暗闇の虹彩に映る白い筋は何だ。蜘蛛の巣状に広がる白い光。人間を嘲笑う、人間ならざる魔の眼……。

「視界に青い物があるから何かと思えば、サラマンの奴隷ペイルスキン。この城に青カビでも生やすつもり?」

「失礼にも程がある! 彼は立派なシュトルーフィアの剣士だ!」

 バーガンディが声を荒げた。王家の者が自分を擁護してくれた。アメジスはこの男に対しますます敬服した。

「まあ第二王子。随分と腕を買ってらっしゃる」

 紅の魔女はせせら笑った。

「けれどそいつはまだ子ども。熟していないうちに果実をもぎ取るのは早とちりというものよ。もっとも既にカビが生えているのだけれど」

「ガーネット!」

 バーガンディがついにその名を怒鳴ると紅の魔女は高笑いし、たてがみのような髪は逆立った。足元から炎が巻き上がったかと思えば雷鳴と共に姿をくらました。顧問官は腰を抜かし、カーマインは泣き崩れた。

 アメジスの額から冷たい汗が一筋流れ、身の毛がよだつ。瞬く間に言葉だけで空気を震撼させてみせた、恐るべき女。この世にあんな奴がいるなんて。

 柄を握る手が震えている。柄から離しても麻痺したかのように感覚がなかった。

 晩餐会は中止になり、アメジスは城の警備に当たることになった。嵐は嘘のように止み、静寂が夜を包んでいる。嵐の前の静けさより後の静けさの方が不気味に感じたのは初めてだった。

 警備を交代しベッドの上でアメジスは考える。あの魔女、ガーネットはシュトルーフィアに執着している。

 かつて、ルビーリージュの時も同じことがあったのでは……?

 この国を取り戻すためにあの女がトゥバン三世を腑抜けにして、ルビーリージュに罪をなすりつけたのでは……?

 真実は亡き本人に尋ねなければ知りようがないことだ……。


 ほー……


(ああ、まただ)

 不吉な鳴き声が耳元でこだまする。こちらを見つめる青い目玉……。


 ほー……


 赤い目玉になった!

        ――何度サラマンから独立しようと……

 圧倒的な赤。魔性の赤。燃えるような赤。

        ――紅い宿命から逃れられない……

 赤は青に戻る。冷たい青。

        ――逃れられない……

 魔女の囁きが……。

        ――サラマンの奴隷ペイルスキン……

(だったらどうすれば)

 目玉はまた赤になり……青になり……。


 数日後、カーマインは一日かけて出産した。はたして紅の魔女の予言は正しかったのか、スカーレットの髪も瞳も恐ろしいほど燃えたぎる赤だった。ただでさえ難産で母子共に危険な状態で気が休まらなかったというのに、女王は見るなり卒倒し、以来ずっと神経衰弱で寝込んでしまった。そしてスカーレットが一歳の誕生日を迎える前に死去し、クラレットは王座に就いた。

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