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青い毒  作者: 鳥丸唯史
1/3

前編

〈青い毒〉


 カン キン――


 日の出間近の早朝。白霧に混じる土煙の中。サラマンの鉱山。

 葉を食う芋虫の這い跡のように入り組んだ坑道の奥から金属音が響く。簡素に設置された松明(たいまつ)によって照らされる青い人影。すっかり切っ先の鋭さが鈍ったつるはしを、振りかぶっては地を削る。振りかぶっては石を砕く。


 カン キン――


 老人がちぎれんばかりの喉で息絶え絶えに首筋を痙攣(けいれん)させ、つるはしが滑り落ちる。手のひらは潰れた血豆だらけで、めくれた皮が絡む木製の柄にその色をにじませていた。

「おいジジイ!」

 サラマン人の怒号と鞭が飛ぶ。錆びた臭いが鮮烈にかすめる。老人の隣で働いていたアメジスは慄然とした。力任せに背中を打たれた老人は生まれての鹿のように震えながらも、命を削ってでも与えられている仕事を再開させる他ない。一際に動きが遅い彼のボロ衣はずたずたに裂かれ、露わになっている今まで受けた傷が生々しく、そして上書きされていく。

「ヴィオレ」

 アメジスは最大限に声を落として寄り添った。ヴィオレはしわくちゃの顔により深い溝を作り微笑んだ。いつもそうやって、大丈夫だ、平気だと、偽ってくる。本音を言ったところで現状は改善されることはなく、むしろ仲間を巻き込むややこしい事態になることを理解しているからである。アメジスは胸が痛み、下唇を噛みしめる。額の大粒の汗が耐えがたい苦痛を物語っているというのに。老人は敬うべき存在だ。それなのにあのサラマン人は平然と乱暴を働く。

 野蛮で凶暴なサラマン人。ヤニで汚らしい歯をむき出して下品に笑い悪臭を吐き散らすサラマン人。猿の方が知能は高く温厚だ。島の外の人間は皆こんな醜悪な生き物だとでもいうのか。アメジスの震える拳にヴィオレの優しい手が包まれた。大丈夫だ、大丈夫だ、と。

「さあペイルスキン共! どんどん働け! お前たちの王のためにな!」

 火を噴く武器を上に向けて引き金を引く。耳をつんざく音に彼らの表情は苦々しく歪む。そう言い脅せばいつまでも奴隷扱いできると信じている、思考が浅い愚かなサラマン人には誰しもがうんざりしていた。

逃げることは容易だ。しかし、それでは島の歴代の王の名誉に傷がついてしまう。結局、この言葉によって支配されているのだった。


 青肌人(ペイルスキン)が住む島は青い。言葉の通り、青色に染まっている。植物も動物も、人間も例外ではない。この島を発見した探検家は自分の目がおかしくなったのではないかと疑った。これほどまでに毒々しく青々とした島は見たことがない!

 調査は難航した。長期間この島に滞在すると爪の裏から青く変色する奇病にかかり、一刻も早く立ち去らなければ死に至るのだ。

 ゾンビの楽園、デッドブルーアイランド……。そう命名されて以来、この蒼茫(そうぼう)たる島は好奇の目で見られてきた。生き物は短い周期で乱獲され、ペイルスキンと命名された人間も初めは見せ物として誘拐された。ペイルスキンは体が丈夫で、長期間の航海で乗組員が病死しても、彼らは溜まっていく汚物の臭いに顔をしかめるだけにとどまった。

 その丈夫さに目をつけたサラマン人は、我が物であるかのようにデッドブルーアイランドを支配しようとした。これを先住民であるペイルスキンは黙ってはいない。彼らは剣、弓、槍を取り戦った。しかし、見たこともない小型の武器が火を噴き、鉛の塊が戦士たちに食らいつき、女子供は(おのの)いた。

 そして、黒衣をまとった赤髪の女が手をかざし、天に向かって唱えたかと思えば、島中の蛇を呼び寄せた。ペイルスキンにとって蛇は神の使い。島の祭司はたちまち平伏し、彼女こそ神であると叫んだ。

 青ざめし王はこれ以上島を荒らさないよう約束してもらうため、動物を各十頭ずつ、鉱石を大きな麻袋に入るだけ、そして祭司によって選ばれた蒼茫(そうぼう)を百人、奴隷として引き渡した。上陸したサラマン人たちも、島に長居はできないことを理由とし、まずはそれを承諾した。

 神聖なる蛇を意のままに操った神の存在は大きかった。彼女の下で働くのであればと、奴隷に出されたペイルスキンも納得した。しかし、その奇跡の女を二度と目にすることはなく、あらゆる国で競売にかけられ、焼印を押され、労働を強いられた。

 日の出前から正午。僅かな休憩を取って日の入り、時には深夜まで。与えられる食事だけでは足りず、幾度も懇願してどうにか許可をもらった自給用の栽培を時間の合間に縫う。逆らえば鞭で打たれ罰を受ける。最悪、火を噴く武器の試し撃ちで処刑された。死体はどこかへと運ばれ、祈ることもできなかった。

 それがおよそ三百年前のこと。減少の道をたどるペイルスキンたちはずっと奴隷を捧げる代わりに彩色豊かな衣類や装飾品、食物を受け取り続けていた。しかし衣類と装飾品に至っては長い年月によって青に染まってしまう。一時の彩りのために彼らは苦痛を強いられているとでもいうのだろうか。


 ようやくアメジスたちに休息と食事が与えられた。テントの下で、茹でた芋やトウモロコシ、豆を頬張った。

「父上、怪我を見せてください」

 ヴィオレスは父ヴィオレの背中の具合を見る。左右非対称の筋肉量、肩から腰にかけて歪んだ背中。傷口にはゼリー状になった血がこびりついている。

「大丈夫だ。これぐらい問題ない」

 ヴィオレスは歯を食いしばる。

「私は我慢ならない。これ以上、奴らの言いなりになるのはやめましょう」

「いいや、駄目だ。私たちは島の身代りなのだ。光栄だと思わねばならん」

「ええ光栄です。光栄ですとも……。しかし父上。島は神によって守られていると信じていますが、なぜ使いである蛇が奴らの味方になったのでしょう? 私はどうしてもサラマンが神に代わる存在だと思い込むことができないのです」

 ヴィオレスが静かに父を説得している間、弟ヴィオレストは背を向けたまま隅で丸くなっている。アメジスはそっと彼の隣に座った。ヴィオレストは芋を皮ごとかじりつきながら何かを眺めていた。

「それは?」

「本だ。サラマンがよこしてくれた。どうせ読めないだろうって馬鹿にされたが」

 泥にまみれた一冊の小さな本。僅かな明かりでヴィオレストは食い入るように、かじりつくようにページを見ていた。

「読めているのか?」

「さっぱりだ。でも見てごらんよ。こことここ。同じ形が並んでいるだろう? あと、こことここ。ほらここも、だ。たぶんこの本は〝これ〟のことを話しているんだ」

 アメジスも字を読むことができなかったが、ヴィオレストの静かなる興奮が移って関心を示した。

「解読できそうか?」

「まだ無理だ。だけど読み解いてみせる。そうすればサラマンを超えられるぞ。虐げられずに済むんだ」

 生き生きとした目でアメジスを見下ろした。明かりが消され、ペイルスキンたちは丈の短い布にくるまってゴザを敷いただけの硬い床につく。ヴィオレストは本を枕にして眠った。

 アメジスは薄らと自分の手のひらを見た。潰れた豆。めくれた分厚い皮。そして感情を押し殺すたびに握り拳を作るせいでできた爪がきつく食い込んだ痕。四つの小さな三日月が手のひらに、また一回り大きく開かれていた。


 ◇◇◇


 四年ほど経った。アメジスは鉱物の採掘の他、建築で扱き使われていた。

 ある時、具合の悪さを訴えたサラマン人たちが次々と死んでいった。中毒だ、流行り病だといって騒ぐのを、アメジスは意味もわからず働き続けた。

 ヴィオレストが顔を紫にしてテントの中に飛び込んできたのは、それから二週間も間もない夜だった。

「私の父とヴィオレスが死んだ」

「なんだって」

 農牧を担当していたヴィオレたちこそ謎の集団死の原因であるとサラマン人は決めつけたらしい。ヴィオレたちは一斉に殺され、それを聞きつけたヴィオレスと他数名が立ち向かい戦闘となったが、最後は例の武器により、ヴィオレスも頭を撃ち抜かれて絶命したという。

「そんな、私たちも同じものを食べているだろう!」

「みんな!」

 ヴィオレストは切羽詰まった面持ちで、その場にいた仲間一人一人に目を合わせてから言った。

「今すぐ逃げよう。時期に奴らは私たちも殺すだろう」

 まごつく者もいたので、彼は本を掲げた。

「私たちは文字を読むことはできない。それがサラマンと私たちの差だ。しかし読めはしないが見て同じものを書くことはできるのだ。私は書く! 文字の意味はやがて身につく! 私たちはサラマンを超えることができる! もう奴隷であり続ける理由はない!」

 ペイルスキンたちは布で顔を隠して外へ飛び出した。

「共謀者は皆殺しだ!」

 九つの光が近づいてくる。サラマン人があの武器を手にしている。

「私が引きつける!」

 ヴィオレストは松明を一本手にした。

「バラバラに逃げよう!」

「島で会おう!」

「無事を祈る、兄弟よ!」

 島での再会を信じて複数に分かれて逃亡した。


 バァン! バァン!


 恐ろしい音が何度も空気を裂く。

「噛みつかれるな!」

 仲間の声がした。火薬庫のある方角が爆発した。ヴィオレストだ。赤い炎が鮮烈に噴き上がり、粉塵が降り注ぐ。

「このゾンビ共がぁ!」

 サラマン人は怒り狂った。ヴィオレストの雄叫びを背に、アメジスはひたすらに山中を逃げた。

 仲間の姿は見えない。騒がしさは次第に小さくなって、どこもかしこも真っ暗になった。暗いのは慣れている。自分の息遣いを耳にしながら高い木を上り、太い幹と葉で身を隠し、テントに隠していた薄く尖らせた石のナイフで丈夫そうな枝の先を鋭く、鋭く削る。息を殺す。


 ほー……


 フクロウだ。何て縁起が悪い。鼓動が太鼓の音に似て胸を叩く、アメジスは心の中で何度も飛び跳ね、大地を踏みつける。島の退魔の儀式を行う。


 見えざる右の爪! 邪を捕らえよ!

 見えざる左の爪! 我を守りたまえ!


 太鼓の音は静まった。腹から大きく息を吐いた。長さの違う即席の木の槍を二本作り、抱き締めて夜を過ごした。


 日がまぶたに差し込むや目覚め、山道を駆け上った。

 がさりと草がこすれる音に立ち止まり、息を止める。

 雄の鹿だ。考える間もなく体は動いた。素早く木に上ると、鹿の背中へと飛び乗った。暴れる鹿にしがみつき、目を木の槍で突き刺し脳まで到達させる。さらにもう一本を首に突き刺して押さえ込めば、やがて鹿は力尽きる。石のナイフで毛皮を剥ぎ、青い肌を隠す衣にした。骨は研いで小刀にし、肉は脚の部分だけもらい、残りは野生の動物のために返した。

 久しぶりの肉にありつく。島のものより渋く硬い。しかし噛み締めるほど唾液に混じった味が自身の血となり精になるのを感じる。活力がみなぎってきた。

 アメジスは太陽の向きを確認し、海を目指した。


 追手に見つかることはなかった。何日も移動してようやく山脈を抜け、港町が下に広がっているのを見つけた。すぐ動けるように疲れ果てながらも浅く眠る毎日で霞んでいた潮の匂いや友と駆けた浜辺の感触が昨日のことのように蘇ってきた。

 素性を隠したまま故郷の島に行ける船を探したが見つからず、交渉するにも船を手に入れるにも金が不可欠だった。次の日には働き口を探したが、肌の色を見せた途端に爪弾きされた。サラマン人にとってペイルスキンは奴隷なのだから簡単に仕事にありつけるだろうとアメジスは思っていたが、考えてみれば奴隷ごときに払える金はないし、拘束されてしまうかもしれないのだ。自分でいかだでも作るしかないのだろうと、いらない材木を譲ってもらおうと製材所に足を運ぶことにした。

「悪いね。余った材木は全て薪炭(しんたん)になるんだ」

「どうしても駄目か?」

「金を払ってくれるなら構わないよ」

 一旦山に戻って材木を集めるところから始めるしか手立てはないのか。布の間から覗かせる彼の失意の目に、製材所の男は冗談交じりに言った。

「金がないなら、あれに参加したらどうだ?」

「あれ、というのは?」

「元はといえば借金を返せない奴らがやりあって、勝敗を裏の連中が賭けるっていうものだったんだが……」

「勝てば金がもらえるのか?」

「勝てば勝つほど借金は帳消しになるし、金も手に入る」

「どこでそれはやっているんだ?」

 がはは、と男は肩を震わせて笑った。

「おいおい、マジでやる気か? まだ子どもじゃないか。顔をそうやって隠すとか、よっぽど金に困ってるんだな」

 そう言って頭を撫でてきた。まるで人が良さそうな振る舞いをするくせに、結局何も援助するつもりはないようだ。アメジスは鼻を鳴らした。

 あくまでも噂だと男はうそぶいたが、借金まみれの知り合いが忽然と行方をくらましたという話を聞く限り、あながち嘘ではないのだ。アメジスは聞き込みをして、夜更けに町役場の裏口へと消えていく男たちを発見した。

 こっそりついていくと地下には賭博場があった。賭博をしている場面なら奴隷の頃にちらっと見かけたことがあった。ただそれは札を手にテーブルを囲んでにやにやとしながら煙草をふかし、酒をだらしなく飲み、やれ女だの、やれ薬だの卑しい言葉を連ね、くたびれた紙幣の塊を子どもがおやつを独り占めするようにかき寄せる――そんな程度のものだった。ここでは嫌な熱気が渦巻いている。聞いたことのない額の金が移動し、歓喜と悲愴を目まぐるしく繰り返されている。

 アメジスは気が詰まり立ちすくんだ。密集された欲望というものをひしと感じ、息苦しさを覚えた。こんなところに居続ければ頭がおかしくなりそうだ。だがこれも一時の我慢。製材所の男が言っていた賭け事の受付を探した。

 参加登録はすんなりと済み、ガラス張りの控え室に案内された。一層に張り詰めた冷たい空気。そこには追い込まれてもう後がないであろう男たちが集い、虚ろな目の中には殺伐とした決意と迷いがそれぞれ見え隠れしていた。

 新たに追加された出場者に、彼らは睥睨(へいげい)した。見たところ、全員が刃物を所有しているようだが、刀剣らしい刀剣はなく、戦闘用というよりも家庭用、サバイバル用の刃物ばかり。火を噴く武器を持つ者はいなかった。

 ガラスの向こうでは、きらびやかに着飾った女や恰幅(かっぷく)のいい強面の男といった見物人が舐め回すようにこちらを見定めている。アメジスがにらみ返してやると、奴らは面白げに何かをしゃべり始める。

 会場が湧くごとにガラスが震え、未だ迷いのある者の膝は慄然と跳ね上がる。時間が経つにつれて出場者は一人ずつ消えていった。アメジスも呼ばれ、異様な場に戸惑いつつ試合の場へ姿を出すと、向こう側からも一人、細身の男が現れた。元々出場者は分けられていたらしい。フロアはまるで檻の中で、四方で見物人が口々に騒いで見下ろしている。

「ありゃ子どもか?」

「おい! 顔見せろ!」

 誰かが命令したようだが聞く耳など持つまい。冷静なアメジスに比べ、細身の貧相な男は切羽詰まった様子で、歯はガチガチと鳴らし、両手で握り締めているナイフは震えている。あれでは勝てないだろう。

 カン! と鉄格子の外で金属音が鳴るなり、相手は奇声を上げながら大胆一直線に突っ込んできた。アメジスは小刀でナイフを払いのけ、がら空きになった前を自由な左手で叩き込み、蹴りを顎に決めた。男は簡単に引っくり返り、伸びた。ベルが三回なり、関係者らしき大男に引きずられ、奥へと引っ込んだ。

 アメジスは登録し直して控え室へと戻り、呼ばれてまた試合に出た。次の対戦相手も貧相な顔をしていたが、目をがんがんと見開かせていた。ベルが鳴り勢いよく襲いかかってきたのを、アメジスは先ほどと同様に受け流し、打撃を食らわせ倒す。男はすぐに起き上がる。アメジスは彼の持つ刃物を宙に弾き飛ばし、もう一度胸に打撃を食らわせてダウンさせ、床に落ちたナイフを手にした。

 武器を失った男はまた起き上がり、雄叫びを上げて突進した。何度も何度も腕を振るうがパンチは空振りする。動体視力が優れているアメジスにとって、相手の大雑把な攻撃は遅い。アメジスはさらにもう一度、今度は股間を蹴り上げた。どよめき、笑いが起こる会場。なぜ笑いが起きたのか彼は理解できない。もう一つ理解できなかったのは、強烈なダメージにうずくまっていた対戦相手の男がまたしても立ち上がり、顔を歪ませながらも闘志を消すことなくにらみつけてきたことだ。

「もう負けを認めてくれないか?」

「うるせぇ! お前も負けを認めてくれよ!」

 額に脂汗を濃く浮かせながら、男は吐き捨てるように言った。

「私は早く故郷に帰りたいんだ」

「知るかそんなもん! こっちはもう後がないんだよ! 負けたら殺されちまう!」

「何?」

「頼む! 俺はまだ死にたくない! 頼む!」

 突然に男は平伏した。「ガキに土下座するな!」と一斉に見物人はブーイングを浴びせた。

「殺される? 誰に?」

「魔女だよ! 負けたら魔女に買い取ってもらうって言われてるんだよ!」

「マジョ?」

「そういう契約なんだ! 内臓えぐられちまう!」

 必死に頭を下げ続ける男。

「おい、兄ちゃん! とっととそいつを倒せ! 俺の賭け金を無駄にするな!」

 また誰かが命令したが、アメジスは無視した。

「わかった。お前の勝ちでいい」

 さらなるブーイング。先ほどの大男が出てきた。

「おい。つまらない試合をするな」

「へへっ。もう決まったことだからいいんだ!」

 対戦相手の男は打って変わって怒張を緩ませ、歓喜の表情でぴょんぴょんと試合場を去り、大男はアメジスを見下ろした。

「倒せば後味が悪かった」

「都合のいいことを言うな。お前がさっき負かした男もこれから死ぬ。ここに来ても金を返せない奴は皆、人間が必要な奴らに売られる。ここはそういう所だ」

「……」

「どうだ? ビビったか? ガキ」

 大男は顔の布をはぎ取った。またも場がどよめいた。「見て、顔が青いわ」「ペイルスキン」「ペイルスキンだ」「なんて恐ろしい、なんていやらしい肌」と口々に言う。赤の他人の声を耳にしながらアメジスは大男に真っ直ぐな眼差しを送っていた。

「私に死の責任を背負わせるな。あのような弱者は私でなくとも誰かによって敗北させられ、殺される運命をたどるだろう。それに比べて今の男は頭を下げている時でさえも闘いの意思があった。あわよくば同情を得て勝利を獲得し、隙あらば武器を取り戻すつもりでいたに違いない。仮にマジョとやらに殺されるという話が偽物だったとしてもそれが生存の(すべ)だ。立派だと思う」

 大男は大きく鼻を鳴らす。

「ガキのくせに、いいや、サラマンの奴隷が大口叩くな!」

 久々に聞いたその単語。アメジスは跳躍すると大男の両肩を押してさらに上に飛び、脚を折り曲げ膝で大男の頭を勢いつけて挟み込むと、前のめりになって体重をかけた。大男は重心を崩し床に背中を打ちつけた。一瞬の出来事に混乱していると、銀色の尖端が目と目の間にあった。

「私は二度と奴隷にはならない! 誰も私に命令するな! 私に命令していいのは尊敬に値する者のみだ! お前も腹心以外の人間に命令するな! これは要求だ!」

 そう迫ると、大男は寄り目になったまま頷いた。試合ではなかったのになぜかベルが三回鳴った。

 うんざりしたアメジスは勝利一回分の賞金を受け取った。斧ぐらいは変えるだろう。とっととこの異様な空気から出ることにした。

 寸前のところで大男に呼び止められた。お前と会って話がしたい人がいるそうだと、VIPルームという場に案内された。そこは甘ったるい臭いがした。

 男女二人組がいた。親子ではなさそうである。男は白髪交じりのひげを生やしている。頬は平たく角張り、目鼻口は中央に寄り気味で顔面の大きさを強調している。さっきの大男よりはずんぐりと小柄ではあるががたいがよく、コートの上からでも胸板の厚さがわかる。コートの裏から剣の柄が覗いている。サラマン人とは少し傾向が違う顔つきをしている気がする。女の方は、まだ娘と呼んでも通用しえるだろう。胸元の開いた赤紫のパーティードレス。小豆色の巻き髪とかかとの高い靴で大柄に錯覚してしまうが、何かを布の下で固く巻いているのか腰は花瓶のように細く、華奢だ。細面の唇を赤紫に塗り、華を感じる身なりをしていた。

 男は気に食わなさそうな面をしている。自分を呼んだのは女だと瞬時にアメジスは悟る。女はグラスの中を空にして黒いテーブルに置く。床を鳴らしながら近づく。青く透き通った大きい目だ。

「臭いわ」

 女は扇で顔の下半分と赤紫の三日月を隠す。

「見下すために呼んだのなら帰らせてもらう」

「マゼンタ様に何たる態――」

「お黙りパンペロ」

 マゼンタという女はぴしゃりと男の口を閉じさせる。

「これは失礼。もう一度素顔を見せていただけるかしら?」

 目を細めて微笑む彼女に、アメジスは渋々と布を取る。

「ブルーベリー色をした髪が素敵なこと」

 周りを歩かれ、アメジスは顔をしかめる。相手が女であれ品定めするようにじろじろ観察されるのは気持ちのいいものではない。どうやら甘い臭いは彼女から発せられているもののようで、鼻がむずがゆい。

「わたくし、嫌いじゃなくてよ、青い人間」

 怪訝に見つめ返せば、彼女は声を細めて笑う。小鳥のさえずりのように笑う女だとアメジスは思った。

「誰しもが必死で、野蛮に戦っているというのに。あなた、おいくつ?」

「何を言っているんだ?」

「ふ、まあいいわ。お名前は?」

「アメジス」

「アメジストではなくて?」

「それは弟の名前だ」

「では、強くて真っ直ぐなアメジス。わたしに仕える気ないかしら。ちょうど一人若い子が欲しいと思っていたところなの」

「私は言った。二度と奴隷に」

「奴隷なんかにならない、ええ聞いたわ、この耳で、ちゃんと。わたしのところで働いてほしいそれだけよ。命令だってもちろんしないわ、やってほしいことをお願いするだけよ」

「私は」

「故郷に帰りたいんでしょう? だったらなおのことだわ。こんなくだらない所でお金を稼ぐより、真っ当な仕事をして報酬受け取った方が体裁良くってよ? わたくしこう見えても身分がよろしいの。故郷に戻った時に誇れるくらいにね。こんなくだらない所であなたみたいな子に会えるなんて運命だわ、奇跡だわ」

 ぺらぺらと彼女は口説いた。

「神が導いたと?」

「そう、神よ! さあ、わたしのものになりなさい。お願いしますわ」

 手を組み、愛嬌たっぷりに猫なで声を出す。鎖骨のくぼみが深くなりラメが瞬く。今日は特別に変な日だと、アメジスは諦めた。この女が言うことにマイナスの部分はないように感じられたのだ。

「わかった」

「よろしい。ホテルに戻ったらすぐ風呂に入ってちょうだい。服も用意させるわ。行くわよ」

 マゼンタは早口で言うなりさっさとVIPルームから退室し、アメジスもそれに続く。パンペロが鼻を鳴らすのを聞き逃さなかった。

 待機してあったピカピカの黒い車は今までに押し込まれたトラックよりも柔らかい乗り心地であった。尻が沈み、かえって落ち着かない。いい具合の体勢を模索していると、またもやパンペロが不満げである。

「そのまま乗せてよろしかったのですか?」

「帰ったら生地を取り換えてもらうわ」

 車は静かに彼女が利用している宿泊施設へと走らせた。

「とっとと風呂に入ってちょうだい。食事も用意させるわ」

 マゼンタはシングルの部屋にアメジスを閉じ込めた。あのテントよりも広々としている。あそこでは寝返りが打てないほどだったのに、ここでは一人で使っていいという。何て柔らかくふかふかな寝床だろう。手がどんどん沈んでいく。それに、外が見える。先ほど乗った勝手に上に行く(誰が押し上げていたのだろう?)床のお陰で遠くの海がかろうじて見える。

 今日は特別に困る日だとアメジスは悩む。フロに入れと言われたが、フロって何のことなのか。とにかくこの場所に何があるのか調べて回り、色々いじってみる。

「ワッ!?」

 上から冷たい水が降ってきた。慌ててもう一つの方をひねればお湯が出て、常に誰かが火を焚いているのかと感心させられた。これも今は自由に使っていいのだ。

 服が濡れてしまい、裸で部屋の中をうろつき干す場所を探していると、着替えの服を持ってきた女が驚いた。その後ろにも女がいて、匂いからして食事を持ってきたのだ。これも全部食べていいのだ。明日どうなるかわからないので、味もよくわからないまま胃に詰め込めるだけ詰め込んだ。

 今日はいろんな出来事がありすぎた。寝台に寝そべるも寝つけない。体はまだ追手の存在に神経を張り巡らせているのだ。大の字になってみても広く、誰の背中にもぶつからない。独りなのだ。

(ヴィオレスト……)

 彼は無事なのだろうか。無事にサラマン人から逃げおおせたのだろうか。ぼうっと天井を眺めていると。


 ほー……


 思わずびくりと筋肉が凍りつく。ここにもフクロウがいるのか? ぐるりと部屋を見回してみる。いる気配はない。幻聴だったのだ。

 心にフクロウが棲みついてしまったのだろうか。

 フクロウの目玉の何て青いこと。島の外は色にあふれている。しかしこんなにも青いものはない。全てを見通す島の宝玉だ。邪を見透かし糾弾する禍玉(まがたま)だ。フクロウが見つめる先には災いがあり、鳴けばそれは間近に迫っている知らせ……。


 ほー……


 今度は幻聴ではない。勝手に脳が再現しているだけだ。もう寝てしまわなければ。

 フクロウの目……。まぶたの裏に張りつく青くて大きな目玉……。

 青い……青い……。


 ほー……

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