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きみは何になりたかったんだい

作者: 沙猫対流

 老舗のライブサロン「カメレオン」のカウンターは、ムードだけで人を酔わせる名人だった。クリーム色の下地に焦げ茶の曲線模様の壁紙で包まれた、酒と煙草とケチャップのにおいが、半世紀前の個人喫茶店を思わせた。

「いいなぁこういうの。懐かしくて」

 鈍い金色の振り子を誇らしげに揺らす掛け時計に、俺は視線を投げかける。でも、懐かしいって。半世紀前に生きてたわけじゃないのに。黙々と時を刻む時計が、呆れて鼻で笑ったように見えた。

「君さぁ、懐かしいって……」

親友が時計の代わりにふっふっふっと笑う。ちょうど、俺達の前にカウンターのマダムが、できたての特製ナポリタン・スパゲティを一つずつ置いたところだった。

「第一オレ達、今年ようやく三十路だぜ」

 そういって彼はスパゲティを絡みつかせたフォークを、俺と自分の間で前後させ、パクリとやる。なるほど言われてみればそうだ。昔の写真でしか見た事の無い風景の癖に、何を見てきたような物言いをしているんだ俺は。

「五十年前は、こういう風景がどこでだって見られたんだろう。今の安っぽい飲食チェーン店とは違うよ。憧れなんだ。こういう店も、そこで吹ける君達もさ」

 俺達の後ろには、良き友と同じ赤いジャケットにチノパンの楽団員や、贔屓の客達が、酒を酌み交わし灰皿を囲んで語らっている。彼らの腰掛けた籐の丸椅子や一人掛けのソファが弧を緩く描いて、その中心にはマイクスタンドとスピーカー――こいつも、さっきまでバンドマン達とここでサキソフォンを吹いていた。旅愁漂うバーの嘗ての栄光を物語るような、華やかなスカバンド・アレンジばかりだった。

「へへ、有難う……そうかぁ? オレ、これでも結構下っ端の方だぜ?」

 奴は上機嫌で、氷の溶けかけたウイスキーを口に入れる。余程嬉しかったのか、奴の顔には終始ニヘラッとした笑いがこぼれんばかりだ。

 ……こいつは昔から何かと正直な奴だ。やりたい事、自分の気持ち、何でもすぐに表に出してしまう。

「そうだよ。ほんと、羨ましい限りだ。言ってたもんな。楽器で一旗揚げるのが夢だって。それを実現したんだからさ」

 本当はこんなありきたりな言葉じゃ足りなかったが、軽く首を振って口をつぐむ。まだ手つかずの俺のスパゲティは、立ち上る湯気の勢いが大分衰えて見えた。

 ……ふと、流れを切るかのように、親友が声をあげる。

「おー、先輩! 一緒に呑みましょうよ! 昔っからの友達も来てるんすよ……」

 ふと見ると、そこには赤いジャケットの中年男性が二人。友はぴかぴかの笑顔で、グラスを乾杯でもするように持ち上げた。今日は土曜日、小さな夜会の終わりはまだ来ない。


◆◆◆


 ――次は、七篠駅、七篠駅。お出口は右側です……

 耳慣れた駅の名前が聞こえる。オレは……僕は抱えていた楽器ケースにあごを乗せたまま、深く長く息をついた。もう列車を下りて乗り換える時だ。

 向かい側の座席や車窓に映る夜の町を前にぼうっとするのは、僕にとって最適な酔い覚ましで、濾過装置だったりする。楽器を力一杯吹いて熱くなった喉が、打ち上げの酒に酔ってぐらつく頭が、静けさと暗さのフィルターで濾過されていくみたいだ。最も、濾して濾した先にあるものは、何の格好もつけてない平凡な「僕」であって、決してイカしたバンドでサキソフォンを吹く「オレ」ではないのだけど。

 ちょうどやってきた各停列車に乗った時、ポケットの携帯が、二度、震える。画面を見ると先輩からのメッセージだった。列車のドア横の角に収まって、携帯を見る。

 さっき撮った写真だった。写真の中で肩組んでVサインをしているのは、先輩二人と、僕……いや、オレ。その横に、観に来てくれた親友。写真の中のオレとあいつは、能天気にニヘラッと笑っていた。

(あのさ、聞いてる?)

 僕は頭の中で遠くの親友に語りかける。相づちを打つように、がたん、がたんと列車が短く揺れた。

 このジャケット凄い綺麗だろ。真っ赤な布地に、入れ墨みたいな金や白の糸の刺繍。ぎらぎらしたバンドマンの「オレ」になる為の服だ。

 一度僕、ソロでサキソフォンを吹いた事があるんだ。小さな飲み屋でさ。そしたらどうよ。店長と客がちょびっと、それから同じ日に予約したギター弾きのおっさんしか来なかったぜ。

 赤いジャケットを着ていけば良かったんだ。それが無い「僕」自身は全然かっこよくないんだから。腕前だけを過信した、バンドの看板もカリスマ性も持たない、下っ端の僕。

 そういや君の今の仕事――広告代理店の営業だよな。きついけどやり甲斐があるんだって? 意外だ。温和な君が。ぎらぎらした服に頼らなくたって、君自身を見てもらえるんだ。

「何になりたかったんだろうな、僕は」

 がたたん。列車が大きく揺れる。そこで僕はハッと我に返った。いけねぇいけねぇ、折角嬉しい日だったんだぜ。

 列車が止まる。外は真っ暗で、もうとっくに、最寄り駅まで着いていた。


◆◆◆


 瞼の裏に白い明かりが差し込んで、目が覚めた。体を起こして見るとカーテンは全開。眩しいわけだ。俺は目を擦り擦り布団から抜け出て、洗面所に行く。通り過ぎざまにラジオもつけた。

 顔と服をきちんとしてから、殻付きのゆで卵ときゅうり、食パンを出して……休み明けの営業まわりに備え、腕に縒りをかけ朝ご飯を作る。仕事は忙しくよく叱られるが、不満は持たない。元々望んで入った会社だし、仕事をうまく取れて褒めてもらう日もある。

 暖かな曇りの日で、ラジオではいつも通り渋い声のDJがゲストのサックス奏者と歓談している。煌びやかなライブの翌日とは思えない日曜だ。

「あいつ、今日は何してるのかなぁ」

 お高いバターの銀紙を剥きながら思い出す。綺麗だったなぁ、昨日のぎらぎらのジャケット。大物の笑顔だった。俺の人生三十年で一度も作れなくて、できなかった顔。

(高校の部活とはえらい違いだったな)

 俺から親友を吹奏楽部に誘った。二人とも音楽好きだったから。朝練の日は音楽室前で「よぅ」と挨拶した。リハーサルで揃って合奏して、うまくやったなとこっそり目配せした。楽団に入る夢を見ながら楽器を手入れした。

 今思えば、そうやってニヘラッと笑えるような日々が、俺に相応しい、音楽の国の片隅だった。二人揃ってサックスを吹き鳴らしたのは楽しかったが、あいつの方がずっと素晴らしく聞こえて、俺はどうしたって鈍才の域を出ないようだった。

 ――決めた。オレさ、卒業しても絶対サキソフォンで一旗揚げるよ。マジ楽しいもん。

 寒い冬のある帰り道、あいつはあっけらかんと言い放ったのである。俺は何も言わず立ち去った。第一志望大の過去問を買いに古本屋まで急ぐ必要があった。もうサックスを吹いてもそんなに楽しくなかった。

「俺も、君みたいになれたのかな」

 食パンにバターを隙間無く塗りながら、俺は遠くの親友に語りかける。頭の中だけにはとてもとどめておけなかった。

 あの時、俺は君をつい羨んでしまった。君は良い先輩に恵まれて、ファンも大勢で、何より大好きなサックスといつも一緒。

「俺は、何になりたかったんだろうな」

 足るを知らない奴だと言ってくれよ。でも、あの時返事の一つもしてたら、俺も行けたのかい? 人当たりが良くて器用な君が、一番気に入った音楽の国に。

 外は明るい。朝食の卵サンドももうすぐできあがる。ラジオからは陽気なサックスの音が聞こえる……


〈おしまい〉

 沙猫です。まずは読んでくれたこと、御礼申し上げます。

実はこれ、春ごろ書いた「サキソフォン」と同じ世界線なんです。ミュージシャンの青年の話、また書いちゃいました。結構お気に入りなんです。

ライブの話とか広告代理店の仕事とかは半分想像、半分見聞きした噂話を参考にしていますので、かなり極端な例だと思います。ご了承ください。


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