インディゴが宿したもの
赤田がまた水をぶっかけられて、ロッカールームで体操服に着替えているのを俺はロッカーを背もたれにして座り込みぼんやりと眺めていた。細いけれど無駄な肉がそぎ落とされ締まった体。こんなに体格が良かっただろうか。もしかすると、奴らに太刀打ちできるよう、週末になるとジムなんかで筋トレにいそしんでいるのかもしれない。
床に赤田の脱ぎ散らかしたズボンがまるで空気の抜けた浮き輪みたいに横たわっている。ポケットから何かが頭を覗かせていた。俺は手元に手繰り寄せてポケットに手を突っ込んだ。
出てきたのは美術の授業で使うインディゴ・ブルーのアクリル絵の具だった。ラベルが剥がれて所々黒く薄汚れている。赤田の絵の具は、奴らにすべて搾り出されて消えたはずだ。
俺は美術部員で、ちょうどインディゴ・ブルーを基調とした絵を展示会に向けて描いていた。まるで赤田のどす黒い青春を象徴するような、黒に近くどこまでも深い青色をしている。
よく使う色だからそういえばもうなかったな、と思い出して、無意識に赤田の絵の具を自分のポケットに滑り込ませていた。
「何してんの」
「いや、ズボンがシワになるかと思って」
赤田は俺のささやかな犯行に気づかなかったようだった。白を切って畳んだズボンを差し出すと、赤田は何でそんな無駄なことをするんだというように鼻で笑った。それから「ちくしょう」とロッカーを蹴りながら泣いた。
授業中、頬杖をつきながら赤田の絵の具をなんとはなしに指先でいじくった。赤田はそんなに絵が得意だったわけでもないと思う。俺は今朝にやりとりした会話を思い出していた。
「昨日さ、ロッカーに何か落ちてなかった?」
「知らないけど」
「そっか」
「大切なもんなの?」
「ああ。まあな」
赤田はじゃあなと言って裸足のまま教室に歩いて行った。赤田は同情を誘うようなことはしない。あっけらかんとしている――ふりを、している。それが俺にはわかる。だからといって、俺は赤田と2人の時に会話を交わすだけで、普段のいじめには一切かかわらない。違うクラスなのも功を奏している。
赤田の絵の具を指の腹に塗りつけて、教科書の下にこっそり隠したキャンバスを汚してみた。絵の具からは、なぜか甘いにおいがした。においに誘われるまま鼻に近づけると、更に濃厚な甘い匂いがした。好奇心から少しなめてみる。なぜか、ハチミツのように甘い味がした。なんだこの絵の具。俺は不信に思ったが、あまりにもいい匂いで甘かったため、指の腹の絵の具をなめた。
それにしても、赤田、結構まいってたな。
よく出るくいは打たれるというが、赤田は何かが突出しているわけでもなく、平均的な男子高校生だった。ただ妙に負けず嫌いだから、腹を殴られ吐かされても立ち向かっていく。それが面白いのだろう。しかし精神面が強いと本人がいくら豪語しようとも、赤田は目に見えて弱っていた。
中学一年のときから俺は赤田のことを知っていたが、彼女にふられたときも落ち込むそぶりはなかったし、第一志望の高校に落ちたときだってそうだった。昨日の昨日まで俺はついぞ赤田の涙を見たことがなかったのだ。
だから俺は、なんだか気持ちがたかぶっていた。あと少しで、赤田は壊れる。あいつは、目では確認できないほど細い糸でかろうじて自己を保っているだけだ。赤田自身で感情をコントロールできる時期は過ぎているだろう。
一年以上にわたる執拗ないじめで赤田はボロボロになっていた。電車でのうたた寝でさえいやな夢を見るようで、いつ壊れてもおかしくないように見えた。そして、その糸は俺の手の内にある、と思った。
休み時間に赤田が俺のクラスにやってきた。そんなことはめったになかったのでやはり絵の具の一件だろうかと思った。後ろめたさと、隠し事をするときの昂揚にも似た緊張が表裏一体となって押し寄せる。
「なあ、ちょっと聞いてくれるか。まずいんだよ」
いつになく赤田はうろたえている様子だった。
「どうした」
「今朝言った失くしたものなんだけどさ、まずいもんなんだよな、相当」
「何なくしたんだよ」
「絵の具」
「そんなもん購買に行けば売ってるじゃねえか」
いや、と赤田は言いよどんだ。俺はそのとき初めて変な引っ掛かりを感じた。
「あれ、毒が入ってるんだ」
「――毒?」
「俺は絵の具の中に毒を混ぜて持ち歩いていたんだよ。しかも、数グラムで人間を簡単に致死量に追い込めるほど強力な」
「数グラムで?」
俺はおうむのように反芻した。
「数グラムを満たさなくても、相当苦しいよ。俺はあいつらに使おうと思って持ち歩いてたけど、なかなか隙がなくって、そのうち自分が死んだほうが早いと思ってほんの少し舐めてみた。効果は本物だ、頭痛と下痢と嘔吐で一週間はくたばった」
渋い顔で語る赤田を前にして俺はなんだかおかしさがこみ上げてきて「そりゃ上出来だな」と破顔した。してやられた。赤田は冗談を言わない。とくにいじめを受けるようになってからは。奴は自分を見失わないよう真剣に生きることに専念していたからだ。
「でも毒なら小瓶にでも入れて持ち歩いたらいいのに、なんで絵の具なんだ?」
「なんでだろうな。綺麗だったからじゃないか。そういえば昔観た映画で、毒を口紅につけて男を待つ女っていうのがいたな。あれに影響を受けたのかな」
絵の具に毒。それはまるでできそこないの推理小説が解き明かす殺人トリックのようで現実味がない。あいつらに、どうやって口に含ませるっていうんだ?
美術部員の俺が狙いの対象ならまだしも。
赤田は半年前だったか、化学部に入部したと言っていた、おまえ化学なんか好きだったっけと尋ねた俺にいやちょっと試したい実験があるんだと言った。
――いやいや。よそう。くだらない仮説にすぎない。
俺が頭痛と下痢と嘔吐に悩まされるのは望ましいことではないが、いつだったか、「おまえがいてくれて本当によかった」と呟いた赤田が、俺を油断させるためにそんな発言をしていたなんて悲劇的な結末よりははるかにましだ。
赤田は俺の様子がおかしいことに気づいてどうしたんだよ汗かいてるぜ、と目を細めた。
その表情は心底俺を心配しているようにも、涎を垂らしながら様子を窺っている肉食獣のようにも見えた。はたまたどちらでもなく、実は俺が絵の具を盗んだことを知っていて、返すように暗にけしかけているのかもしれない。
額に脂汗がじわりと浮かぶのがわかる。
俺は今すぐにでも謝って赤田に泣きつきたいような気持ちもしたが、赤田が理不尽な攻撃を受けて高校生活をぶち壊されたように、右手のただれるような熱を放ち始めている人差し指も、ひりつく舌も、跳ねるような痛を訴え始めている腹痛も、しかるべき運命の下で動いていることだからしょうがないのだろう、と諦めた。
(終)
後味が悪い短編が好きなので、こういうのをたまに書きます。
①読みやすいか
②オチはわかりやすいか
③オチは途中で読めるか
④文章(情報)が少なすぎないか
のコメントを頂きたいです。
中長編を書いてみたいのですが、いつも挫折します。。(´;ω;`)