湖
彼が姿を消した。――
最後に言葉を交わした日、彼は普段と変わらない、少し恥ずかしげな笑みを私に向けていた。
***
青黒い針葉樹の林を抜けると、一羽の鴎が飛び立つのが見えた。白い霧のなかへと消えていく。
早朝。時刻まではわからないが、突き刺すような冷気のなか、私は車を走らせていた。行き先はわからない。ただ、林の向こうに湖があるということだけは、なぜか知っていた。
朝霧の向こうにうっすらと、揺れる水面が見える。
私は路肩に車を停めると、半ば吸い込まれるように、湖へと歩いていった。
白い霧に包まれた湖。向こう岸がどの辺りにあるのかもわからない。
少し離れた辺りに、青褪めた水鳥の影が微かに感じられるばかりだった。
私にはわからなかった。そこは一体どこだったのか、私はどうして、そこへ辿りついたのか。
私はただ岸に沿って、水面の音を聴くともなしに歩き続け、古びた小さな桟橋を見つけると、誘われるように足を載せていった。
彼が立っていた。
岸を振り返ると、彼が立っていた。
灰色のオーバーコートに身を包んだ彼は、いつになく無表情にも見え、また、古代の彫刻のような、古典的な微笑みを湛えているようにも感じられた。
私は彼の名を呼んだ。三度呼んだが、三度とも何かに掻き消されたような気がした。暢気な鴎の鳴き声か、あるいは白鳥の、別れを告げる歌声か。
彼は黙ってこちらを見ていた。
私はもう一度声をかけた。今度は率直に、私が知りたかった事実を訊いた。「どうしていなくなったの」と。
明らかに、彼が微笑んだのがわかった。冷たい眼をしている。人を見下すような、嘲笑するような瞳。そうして顎を、ゆっくりと上へ向ける。藍に光る二つの瞳が、じわりじわりとふてぶてしさを増していく。
私は思わず、彼の身体を突き飛ばした。彼の身体は、湖のなかへとよろめいていった。
彼の指が、桟橋の板の端に掛かる。私は慌てて、彼の濡れた黒髪の頭部を踏みつけ、湖のなかへと押し込んだ。
冷たい水が、私の脚を濃く染めた。
辺りは静寂に包まれて、鳥の声すら聴こえなかった。
ただ、岸に打ち寄せる穏やかな波の音が、心に響くばかりだった。
***
―― その後、私が彼の姿を見ることはなかった。
彼が見つかったという報せも、況してや帰ってきたという報せもなかった。彼に関する一切の情報は、私の耳には入らなかった。
ただ、時々 ―― 例えば、舗道の水溜まりにビルの揺らめくのを見たときに ――、あのときの光景、音も光も、すべての感覚が、私の目の前に甦るばかりだった。




