優しい宵闇の子守歌
全身で感じていた全ての感覚が消えた。
これで、やっと終われる。そう安堵した。
何がいけなかったんだろうか。
何が悪かったんだろうか。
どうすれば、良かったんだろうか。
いや、違う。きっと、何をしても結果は同じだった。
ここに存在すること自体許されない事だったのだろう。
ごめんなさい。生まれてきてごめんなさい。
僅かに残っていた意識が、闇に溶ける。
『っぶねー!やっと見つけたぁぁぁ!!!』
場違いなほど力強い、誰かの叫び声が聞こえたような気がしたのは、きっと気のせいだろう。
暖かい。訳もなく胸が締め付けられて、苦しい。
頭を撫でる手の感触。体を包む優しい匂い。
欲しかった。一度でいいから、欲しかったもの。
やめないで。もっと。もっと。
「泣くな。」
頬を暖かな手が包む。
もうとっくの昔に涙なんて出し尽くしたと思っていた。
離れて欲しくなくて、力の入らない手を必死に伸ばす。
「大丈夫だ。ここにいる。」
暖かい。夢なら醒めないで欲しい。
もう、痛いのは嫌だ。辛いのは嫌だ。苦しいのは嫌だ。寂しいのも哀しいのも嫌だ。
「怖い事はもう何も起こらないから安心しろ。」
ぼんやりと開いた目に映ったのは、宵闇のような深い紺。
一番嫌いで、一番好きな色。
「おやすみ。」
低く柔らかな声音が、子守歌の様で。
ゆるりと閉じた目尻から、涙がポロリと零れた。
水底から浮き上がるような感覚がした。
ひとつ、息を吐き出してから、ゆっくりと目を開く。
長い時間寝ていたような気がする。
何気なく腕を持ち上げ、顔の前に手を持っていくと、視界に映ったのはふくふくとした小さな手。
ぐーぱーぐーぱー。
なるほど。自分の意志で動く。己の手らしい。
やたら重く感じる頭を上げ、よろよろと体を起こし自分を見下ろす。
着ている白いワンピースから覗く足は、手と同じく小さい。
なるほど。体が小さいのか。だが、自分はこれほどまでに小さな子供だっただろうか?
疑問符だらけの頭を傾げた途端、重さに耐えきれずころりと横にひっくり返ってしまった。
むぅ。どうしたものか。
横に転がったまま思案していると、すぐ近くで盛大に吹きだす声が聞こえた。
「ブッフォ!おま、なにしてんの?ぶひゃひゃひゃ!」
声のする方に顔を向けてみると、そこには腹を抱えて爆笑する男がいた。
歳は40代半ばといった所か。薄ら皺の入った目尻に涙が滲んでいる。
腰まである、長い黒に近いような濃紺の髪を揺らしながら、ヒーヒーと笑っている男を暫し観察していると、漸く落ち着いたのか涙を拭いながら此方に近づいてきた。
「いやー久しぶりに笑った笑った。ほれ。いつまでも転がってねえで起きろ。」
脇に手を入れられ、ひょいと持ち上げられたかと思ったら、男の腕に座る形で抱き上げられていた。
おお。視界が高い。
男の服に掴まり、きょろきょろと周囲を見回す。
見渡す限り広がる色とりどりの花。空は明るいのに、太陽はない。
「ここ、どこ?」
今更ながら呟いた声は、耳慣れないソプラノ。
違和感から無意識に眉間に皺が寄った。
「ここは俺の箱庭だ。」
「あなたはだれ?」
見上げると、男もこちらを見ていたらしい。髪と同じ色の目とぶつかった。
優しい、夜の色。
一切警戒する気も起きないのは、この目のせいだろう。
「俺は管理者だ。まぁ下界の連中は神と呼んでるがそんな大層なもんじゃねえ。俺の事はヴァルと呼べ。」
「ばる?かみ?」
首を傾げようとして、腕から落ちかけたが、ヴァルが支えてくれたので問題ない。
それよりも、今神という単語が聞こえたような気がする。聞き間違えか?
更なる説明を待っていると、ヴァルはガリガリ自分の頭を掻いてあ~っと唸った。
「あ~…説明するよりこっちの方が早ぇな。」
頭を一掴みできそうな程大きな手に目を塞がれ、きょとりと瞬きを一つしたところで、バチン!と頭の中でスイッチが入るような音がした。
途端、膨大な量の情報が、乾いた土に水が染み込む様に頭に流れ込んでくる。
ヴァルはとある世界の魂の管理者。
世界の調和を管理する者。
ここは管理者の箱庭。世界の中にあって、世界とは次元の異なる空間。
魂は世界を循環し、世界を形作る。
自分はこの世界を循環する魂の一つ。
極稀に起こる“ずれ”の影響で、世界から弾き出され、別の世界に組み込まれてしまった魂。
魂は世界に属する。
異世界の魂は不純物として、世界から徹底的に排除される。
排除された魂は、消滅するしかない。
それが、世界の理。
「ずっとお前を探していた。やっと見つけた時には消滅寸前で危ない所だった。」
よく覚えていない。
与えられた知識以外に、自分に記憶はない。
が、目覚めてからずっと、違和感はある。
「何も覚えていないのは当然だ。ボロボロに擦り切れた魂を、真っ新にして修復したんだからな。だが、修復しただけだ。何もなかったことにはならねえ。お前が感じている違和感は、修復しきれん部分があるせいだ。こればっかりは、俺でももうどうにもできねえ。」
そうなのか。
トントンと自分の胸を叩いて、見つめる。
うん。痛くないし、苦しくもない。
ひとつ頷いて、納得する。
「…すまなかった。俺の管理が甘かったせいで、お前には辛い思いをさせた。」
「だいじょうぶ。なおしてくれてありがと。」
大丈夫だから、そんな顔もうしないで。
本当は頭を撫でたかったけど、この身体じゃ無理そうだから手の届く肩を撫でてやると、その何倍もの力でぐりぐりと頭を撫でられた。
頭もげるかと思った。
立ち話も何だからと、ヴァルがパチンと指を鳴らしただけで、何もなかった花畑にテーブルセットと、ティーセットが現れた。
椅子が一脚しかないことに内心首を傾げたが、ヴァルの膝の上に座らされた時点で、色々納得したし諦めた。
程よい温度の紅茶が入ったティーカップを両手で持ち、ずずーっと啜る。美味しい。
カップをテーブルに置いて、目の前のクッキーに手を伸ばす、よりも先にクッキーがこちらに近づいてきた。
背後を見上げれば、テーブルに肘をついたヴァルが、穏やかな顔でこちらを見ている。
うーんと?
クッキーを見て、ヴァルを見る。
チョコチップのクッキーを一つ摘まんで、ぱきっと二つに折り、半分をヴァルの口元へ。もう半分を自分の口に入れた。
「くれるのか?」
「ん。」
ひとつ頷けば、嬉しそうに口を開けるヴァル。
ほんのちょっぴりほろ苦いチョコと、甘いクッキーが口の中でホロホロと溶けて崩れていくと、自然に頬が緩む。
「お前、可愛いなぁ。下界に還さずに俺の下に置いておきてえなぁ。」
ちょ、ぐりぐりやめて。飲み込んだクッキーが背中にいっちゃう。
べしべし手を叩いて抗議するも、ヴァルはお構いなしだ。
そのうちなにやら一人でぶつぶつ言い始めたから、放置でアーモンドクッキーに手を伸ばした。
アーモンドの香ばしさと触感を堪能。
「よし。決めた!俺も久々に下界に降りるわ。」
「は?」
一口かじったマーブルクッキーを、ポロリと落としかけたが、ヴァルが拾い上げてポイっと自分の口に入れてしまった。
管理者なのに?下界に?ここの管理は?
「さっき与えた知識の中にもあっただろう?直接様子を見るために、分身を下界に下すって。」
数百年に一度くらいのペースで、下界に分身を下ろすっていうのがあった。
前回が800年ちょっと前。その時は吟遊詩人になって、方々を旅してたらしい。
「よし、そうと決まれば、どこにするか決めようぜ。お前希望あるか?特別に聞いてやるぞ?」
もう決定事項らしい。
希望の種族…。
新しいマーブルクッキーを手に取り、サクサクと齧りながら考える。
「前回エルフだったから、今回は違うのがいいな。それと人族は今時期が悪い。」
ああ。確か今国同士で戦争してるんだっけ。
たしかに、人族は避けたい。
貰った知識から、下界にいる種族を思い浮かべる。
うーん。…決められない。
「なんでもいい。でも、ずっといっしょがいい。」
ヴァルが一緒なら、どんな種族でも、花でも虫でも魚類でもなんでもいい。
クッキーのカスが付いたままの手で、お腹に回されたヴァルの指を握りながら、希望を告げる。
「グフッ…!」
咽た様な変な声がした。
困らせた、のだろう。
ヴァルは管理者。本当ならこうして話すこともできない筈だった。
探してもらって、治してもらうだけでも、特別な事だったのに。
ずっと一緒がいいなんて我儘、言うべきではなかった。
「ごめんなさい。わすれて。」
そう言って、おずおずと手を離そうとした時。
上半身全部使って、ヴァルに抱きしめられた。
暖かくて、柔らかな優しい匂いがする。
「俺は今初めて、萌というものを理解した。やべぇ。コレほんとやべえ。語彙が死ぬ。脳血管切れる。血圧上がって鼻血吹きだすんじゃねえか?」
ん?どういう事?
よくわからなくて、ヴァルを見上げると、頬に頬を押し付けられた。
「あー可愛い可愛い可愛い可愛い!」
ぐりぐりとされて、時々なにやら湿った感触と、ちゅっという音が聞こえる。
擽ったくて、ひゃーっと変な悲鳴を上げてしまった。
「任せろ。俺の権限フル活用してでも、お前の希望は叶えてやる。つか、俺が無理だ!」
「むりなら「違うそういう意味の無理じゃねえ。俺がお前を手放すことが無理だって意味だ。」…え?」
大丈夫かな。管理者の仕事が忙しすぎて、少し壊れちゃったのかな?
心配になって、もぞもぞと向きを変えて、正面からヴァルを見上げる。
「よし。そうとなったら、ちゃっちゃと下界に降りて、まずはお前の魂を定着させるか。」
「ていちゃく?」
「ああ。実はお前正真正銘生まれたばかりの魂だったんだ。まだ下界で生まれた事すらねえ、真っ新な魂だったんだよ。だから弾き飛ばされちまったともいうんだが。」
なるほど?
「ここは異世界繋がる場所だ。今のお前じゃまたいつ飛ばされちまうかわかったもんじゃねえ。だから、俺の世界に魂を定着させる。一巡すりゃ大丈夫だろ。その後はー…」
「そのあとは?」
「そりゃお前、決まってるだろ。」
夜色の目を細めたヴァルは、ニヤリと笑った。
以上が、私とヴァルの馴れ初めだ。
この後下界に降りた私が、人狼族として産まれ、同じ人狼族として下界に降りたヴァルと一緒に過ごし、やがて番になって子を成し、天寿を全うして箱庭に帰ってくることになるのだが、それはまた別の機会に。
お読みいただきありがとうございました。
ノリと勢いだけで書きました。久しぶりなので、見苦しい所があるかと思いますが、少しでも楽しんで頂ければ嬉しいです
なお、主人公は魂の状態なので、性別はありません。