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 東京の大学へ進学したのは、とにかく地元から離れたかったからだ。



 現在いまも、地元に戻った時にショッピングセンターや大きな店舗に行くのは抵抗がある。

 いつ、知り合いに会うか‥‥‥

 いつ、同級生に会うか‥‥‥

 そう思うのが自意識過剰だとわかっていても、自分の過去を知らない人ばかりの現状は気が楽で、親には悪いと思っても帰省をなんだかんだと理由をつけて減らしていた。

 そんなふうにそっけない息子のまま、俺、奥山航おくやま こうはもう二十六歳になってしまった。




 ――― 兄が結婚する。

 いや、正確には数日後には結婚する、という連絡が来たのはバレンタインデーの少し前だった。

 兄のじゅんは小さな頃から明るく、快活で、周囲にはいつもいろいろな人が集まっていた。

 面倒見がいい兄は、嫌な顔もせずに俺や近所の子供の面倒も見てくれた。

 兄が『背が高いから』という理由だけで始めたバスケを見様見真似で覚え、中学に入る頃にはバスケに関してだけは兄よりも強くなることができた。

 成績も人望も、他のなにもかもが優秀な兄には及ばなかったが、バスケと身長だけは別だった。

 高校には、スポーツ特待生として進学できた。

 県大会は常連で、俺が全国大会へこの高校を導くんだという、ある種の驕りがあったのだと今ならわかる。

 そんな、驕った俺は、案の定‥‥‥膝を痛め、ある人の言葉をきっかけに進路を変えた。兄や周囲の助けで勉学に励んだ結果、スポーツ特待生の特権は受けられなくなったが、一般生徒として残り半年通うことを許された。





 気にするな。

 バスケ以外あるだろう。

 元気出せ。

 バスケだけが人生じゃない。

 足を切られたわけじゃない。

 バスケは趣味にすればいい。

 こんなことで自棄を起こすな。

 バスケは別の形で関わればいい。






 たかが十八歳の男子高校生にとって、言葉通り半生を捧げていたバスケというものが無くなってしまったのは耐え難い苦痛で、何も考えられないまま‥‥‥

 逃げるように、追いやられるかのように、この、今いる場所以外に行きたくて、履歴書をお粗末にしないために志望校を決めた。

 なにかに必死に縋るように夢中になっていたくて、理工学部に進み、一番厳しいと言われるゼミを取って、バイトにも明け暮れ、忙しいと評判の会社に就職した。


 大きくて、大切なものを無くしてしまった自分を肯定できなくて‥‥‥流されるように、生きてきた。いや、抗って一番激しい濁流に自ら飛び込んで、流されてきたのかもしれない。

 けれど、あの人が言ったように‥‥‥みすぼらしい履歴書になっていないのは誇っても許されるだろう。







 就職して四年。

 ようやく仕事的にはひと段落した。

 仕事を覚え、後輩にも教えることができるようになり、休みには長身を放置すると老後が大変だからと、スポーツジムで膝に負担がかからないカリキュラムを組んでもらい、こなしている。

 なにか『スポーツ』をしようと思えるようになっただけ、落ち着いて前向きになれたのかもしれない。







「奥山さんは、ゴールデンウィークはどうされるんですか?」

 今日の昼食は、一ヶ月に一回ある全体昼食会で、俺は隣の席の女性に声をかけられた。

「帰省する予定です」

 俺は、バスケを失ってから極端に人と話すのが億劫になり、せっかく話題を振ってくれたとわかっていても長く返すことができない。

「地元は確か、うちの東海支社があるところだったな」

 女性を不憫に思ったのか、上司の高橋が話を繋いでくれる。

「奥山さん、お土産に赤みそキャラメルだけはやめてね!」

 正面のお局さまが笑って言う。

 ‥‥‥お局とは自称だ。

 俺よりも一つ年上の二十七歳の彼女、林は決してお局さまというタイプではない。

 自然と新人が入ると彼女が担当することが多いので、いつのまにかそういうふうに言われている。

 俺も、最初入社した時には彼女からある程度の設定やフォルダの説明などをされた。たった一年しか違わなかったのだが。社会人二年目から他人の面倒を見られるなんて凄いと思ったものだ。

「林さん、食べたことあるんですか?」

 隣の女性、赤井が林に問い掛ける。

「赤みそキャラメルとジンギスカンキャラメルと中国のエメラルドグリーンのパンダミントチョコが、私のお土産履歴ワーストスリーよ」

「エメラルドグリーンのパンダチョコって‥‥‥」

 先輩の山上が横を向いて口に手を当てていた。

「山上さん、食べたことあるんですかぁ?」

「赤井さんはまだあの時にはいなかったんだよね‥‥‥いや、ね、もう‥‥‥ミントチョコが凶器になるとは‥‥‥」

 山上は口を押えて「ううううう」と唸っている。

 それを見て、上司の高橋課長や林は苦笑いを浮かべていた。

 ミントチョコ?

 つい小首を傾げてしまうと、「あ、奥山さんも知らないのか。ちょうど奥山さんが入る前かな‥‥‥新婚旅行のお土産って、持ってきた人がいるんだけど、あまりのまずさに吐き出す人が続出してね、三十分ぐらい業務が滞ったのよ‥‥‥凄かったわ。ミントチョコとジンギスカンキャラメルは‥‥‥あれは武器になる」と林がうんうん頷きながら教えてくれる。

「確かに‥‥‥それと比較すると、赤みそキャラメルは食べられるだけマシかもしれないけど」

「高橋課長。キャラメルはキャラメル、赤みそは味噌汁と、それぞれ美味しく食べられる方法で食べた方が健全ですよ」

 そんな同じ課の人たちのやりとりを、黙ったまま微笑ましく見つめる。

 俺があまり話さないのはこの課ではすでに黙認されていた。それが社会人としてはちょっとどうかと思っても、なんというか‥‥‥なかなか直すことはできなく、ついつい周囲の理解に甘えてしまっている。

 フロアの中で一番広い会議室には他にも人がいるが、やはり同じ課や部署の者同士が近くに座ることが多い。時折、統括部署の提案でわざとシャッフルされることもあるが。


 少し甘い口調の、ふわふわした髪型が印象的な赤井。

 ばさばさの髪の毛をなんとか整えて、色とりどりのシュシュとかいう髪飾りでまとめている林。

 温和で、少し頭の淋しくなっている上司の高橋課長。

 三期先輩で、明るくて場を盛り上げるのがうまい山上。

 俺が仕事上で関わるのはこのメンバー。

 他にもフロアにはたくさんいるし、この会議室にもたくさん人はいるが、俺が仕事として携わる必要不可欠な人たちはこの四名だけだ。






**


 ゴールデンウィークの直前は、仕事は暇になる。他の職種では忙しくなるのかもしれないが、俺の仕事はいわゆる世間で言われる繁忙期は関係がなく、ランダムに忙しくなる。

 なので、まったりとスポーツクラブのジャグジーで体を温めた後、ガラス越しに保護者などがプールを見ることができる観覧席でジュースタイムだ。

 スポーツ直後に炭酸飲料を飲む。

 なんだか、とても悪いことをしている気分だ。

 ――― 高校生の頃、バスケ部の監督がカルシウムやビタミンCを壊すとか、糖分の取り過ぎはよくないとかいろいろと理由を述べていた気がするが、右から左だった。

 ただ、炭酸飲料はダメだというインプットだけはされていて、高校生の自分はそれを鵜呑みにしていた。

 スポーツジムに通うにあたって、その疑問をトレーナーにぶつけてみたところ、『糖分さえ気をつけていれば、気にしなくて大丈夫ですよ。プロのサッカー選手でも大好きな人がいますから』とにっこりと微笑まれた。

 思い込み、恐ろしい。何も考えない、素直過ぎる高校生、怖い。





「‥‥‥確かに、怖いよな」




 俺は、ふと自分の現状を顧みる。

 有名な私立高校を卒業して、ある程度名の通っている大学に進学し、テレビでCMを見るような大手とまでは言えないかもしれないが、専門分野の中では名が知れている企業に就職することができた。

 給与面でも、友人たちの中では恵まれている方だ。

 恐ろしい程に、他人には順調に見えるだろう。

 だが、それは『ある人』の言葉を聞いたからだ。

 その‥‥‥ある人。ある女性。たぶん、俺の一つ上の女性‥‥‥顔も名前も知らない『ある人』が友達に語っていたことがなければ、俺はこんなふうに『他人から見れば、怪我で大好きなスポーツができなくても乗り越えて、懸命に夢に向かって頑張っている人』にはならなかった。

 ――― 今の業務内容は、夢でもなんでもないのだが‥‥‥







***


「ねえ。先週のステップ読んだ?」

 膝を壊したためバスケができなくなった俺は、現実を直視したくないのと、腫物のように触ってくる周囲が嫌で、ファミリーレストランでできる限り時間を潰してから家に帰るようになっていた。

 今日もぼんやりと、アイスクリームとドリンクバーで粘っている。

 迷惑な客だ。

 そんな迷惑な客の俺の耳に、背後の女性二人連れの会話が聞こえてくる。

「読んだよ‥‥‥先輩‥‥‥ついに膝に限界が来ちゃったね」

「せっかく決勝で優勝が決まったのに、ブザービーターと共に膝も壊れちゃうなんて‥‥‥」

 手がびくりと震えたのが自分でもわかる。

 ブザービーターということは、それはバスケが絡んだ話だ。

 ステップというのは毎週発売される少年マンガだから、きっとバスケマンガの登場人物のことなのだろう。

「‥‥‥本当に」

 その後、しばらく彼女たちはそのマンガの中の先輩のことを心の底から思いやっていた。

 ‥‥‥現実で、俺がさんざん聞いてきた言葉たちの羅列だった。

「でもさ、先輩‥‥‥進学どうするんだろう‥‥‥」

 俺の真後ろの女性が、急に真剣みの増した声で呟いた。

 正面の女性はむせていた。

 そりゃ、咽るだろう。

 俺は、架空の人物の将来を真剣に考える、顔も名前も知らない女性に侮蔑の笑みを浮かべた。

「最近ね、アパートの傍のコンビニでもバイト始めたんだけど、履歴書を書くのって大変なんだよね‥‥‥このまま先輩、バスケできないからってやさぐれて、高校中退して、中卒になっちゃって、ろくな就職先がなくて、貧しい未来になっちゃうのっていたたまれなくない?」

「いや‥‥‥ちょっと‥‥‥」

「売れないお笑い芸人さんって、バイトとかしてるんだろうけど、履歴書ってどうしてるんだろうね。三十歳過ぎても売れなかったら、普通のサラリーマンになるっていうけど、長年フリーター続けていた人が三十歳過ぎて一般企業に中途で採用されるのって難しそうじゃない? あ、でも一応芸能事務所で売れない芸人していましたって職務経歴書に書けばいいのか」

「‥‥‥華やかな女子大生生活を送っているはずのあんたが、なんでそんな世知辛い心配しているのよ?」

「よく同じシフトになるおばさんの息子さんがね、ミュージシャン目指しているんだけど一向に売れる気配がないんだって」

「はあ」

「夢は期限をつけて見るべきだって。三十路みそじのミュージシャン希望は情けないから、息子にもそう言ってあるんだって‥‥‥今年でその息子さん三十路なんだけど」

「あんた、そっちのバイト先でどんな話してるのよ‥‥‥」

 同席の友達は呆れ声だ。

「だって、先輩ってばギリギリ赤点が回避できるくらいの頭で、今から勉強しても受験には間に合わないよ。膝を痛めたならバスケでの進学もできないもん。それよりも、受験に頭を切り替えられるかな? できるかな、先輩!?」

「その心配は、余計なお世話という」

 確かに。その通りだ。

「バイト先のおばさんにも、絶対大学は出なさい。高卒と大卒では仕事の幅も給料も全く違う。とりあえず新卒で絶対一度は就職して、夢があるなら働きながら目指せって言われてるの。先輩、無事に高校卒業できると思う? 大丈夫かな!?」

「知るか!」

 同意見です!

 知るか!!

「バスケができなくなって、辛い気持ちなんて理解できないけど、よく辛いことを忘れたい時に忙しいのはありがたいって言うじゃない? 先輩もそんな感じで、現実を忘れるために勉強に励んでいい大学目指してくれるといいんだけど‥‥‥できるかなぁ?」

 はあ~~、と、深い溜息が背後から零れた。

 ‥‥‥俺が溜息を零したい。

 泣いてもいいですか?

 心臓、抉られています。

「すごく大事なこと諦めるのって、めちゃくちゃ難しいと思うんだけど、幸せになって欲しいんだよね‥‥‥とりあえず、お金があれば、現時点では治らなくても、将来的には医学が進歩して膝が治るかもしれないじゃない。ブランクがあるだろうけれど、バスケがもう一度、できるかもしれないのよ」

「‥‥‥まあ、医学の進歩は凄いからね」

 同席の友達は諦めて、話に同調することにしたようだ。

「膝が治らなかったとしても、その後に好きになった人ができた時、やっぱりいい大学でいい就職先だと違うと思うんだよね~」

「しょっぱいな、あんたの心配は!!」

 うん、しょっぱい。

「膝が治らないんだったら、前向きに、現実逃避してくれるといいんだけど‥‥‥」

 紙の中の『先輩』を気遣う言葉は、主語がない分‥‥‥俺に突き刺さった。

 ――― 前向きに現実逃避って、なんだよ。

 そう思いつつも、俺は唇を噛みしめた。

 膝は、治らない。

 親に連れられて、いろいろな医者を巡ったが、どんな医者も同じことしか言わなかった。


「バスケは、楽しむ程度にでしたらできますよ」と。

「プロは諦めてください」と。


 俺は、遊びでバスケをしていたわけじゃない。

 真剣だった。

 懸命だった。

 言葉通り、命を懸けていると断言できる程に本気だった。




「バスケマンガっていっぱいあるけど、どれも人外ぐらいに強いキャラばっかりだよね。でもさ、その少年マンガの中でも、プロになったりアメリカに行ったりする人って各作品多くても二、三人くらいじゃない? 先輩も現実を見つめて、受験勉強してくれるといいんだけど‥‥‥」

 涙が引っ込んだ。

 人外ぐらいに強い。

 確かに。

 俺も、いろいろバスケマンガは読んだ。

 あまりにも身長が高過ぎる設定に、部活の連中と笑ったヤツもあった。

 けれど、言われてみればそういう規格外ばかりの登場人物が出ていても、ラストでプロになっていたのはわずかだ。

「やってみて諦めるのと、強制終了されるのとじゃ違うからな‥‥‥」

 同席の友達の声に、俺は反射的に耳を澄ませる。

「え、でも、いつでも後悔しないくらい一所懸命だったじゃない」

 きょとんとした『その人』の声に、俺は再び唇を噛んだ。

 ‥‥‥その言葉、俺宛だと思っていいですか?

 前向きに、現実逃避するから‥‥‥

「お待たせしました。青じそハンバーグとセットのライスになります」

「あ、はい! 私です!!」

 背後から元気な声が聞こえてきた。

 俺は、溶けたアイスクリームと飲みかけのメロンソーダをそのままに、レシートを持って席を立った。





 ファミリーレストランを出て、自転車を押して進む。

 ゴールデンウィーク直前の夜風はまだまだ冷たい。

 俺は、三年の夏を迎えられなかった。三年の大会に、ほとんど参加できない。

 歩けるけれど、全力で走れない。

 軽く飛べるけれど、ダンクはできない。

 バスケ雑誌に取り上げられて、有頂天になっていた時期があったのは否定できない。

 でも、俺は、バスケに対してだけはずっと真摯だった。

 兄よりも俺を認めてくれたバスケに、俺は夢中だった。

 なあ、どうすればいいんだよ。

 いるんだったら教えてくれよ、バスケの神様。

 大好きなバスケを、俺はもうプレイできない。

 嫌だよ。

 助けてくれよ。

 時間を戻してくれよ。

 誰でもいい、なんでもいい。俺をバスケができる世界に連れて行ってくれ。

 そう、何度願っただろう。




 でもさ、俺は現実見て受験勉強をするべきなんだ。

 いつかの未来に、俺の膝の治療法があるかもしれない。その、未来の手術を受けるため。もしくはいつかできる彼女を手に入れるために。

 膝が治らないんだから、前向きに、現実逃避して‥‥‥いいかな?






*****



 そうして俺は、当時の担任に「高収入の職に就くためにはどうしたらいいんだ?」と質問をして、殴られた後、泣かれた。

 体育会系のごっついジャージゴリラの涙は不気味なだけだった。




 紙コップのレモン果汁入りの炭酸飲料を飲んで、俺は遠い目をする。

 ないわー、昔の俺。




 悪乗りした(だろう)担任とまずは株価を見て、何社かあたりをつけ、その会社に就職した人の多い学部と大学を割り出して、目指す学部を決め、そして勉強した。

「うんうん。お前も女にもてたいんだな!!」

 というジャージゴリラの生温かい声援を受けて、ある程度は得意だった理数系を必死に伸ばしたのはいい思い出だ。

 とりあえず一所懸命過ごしながら、『前向きに現実逃避する』を合言葉に、俺はバスケ部のマネージャーを務めながら勉強して、勉強して、勉強して、その学部では有名らしい大学に入り、大学のあまりに高いレベルにさらに必死に勉強して、勉強して、勉強した。

 卒業して就職した後は、大学の勉強はほとんど役に立たなかったので、さらに勉強して、勉強して、勉強した。

 忙しいと辛いことを忘れるというけれど、それは本当だと今ならしみじみ思う。

 たぶん、もう一生分勉強をしたと思うけど‥‥‥まあ、働いても毎日が勉強の日々だ。



 ちなみに、今現在、悲しいことに『夢のような未来の膝治療法』も『夢中になる女性』も現れていない。

 とりあえず、夢のような治療法は本気で発明されて欲しい。

 俺は、本気でバスケがしたい。

 何回かこっそりとやろうとしてみたが、大抵が失敗して、次の日に行きつけの整体師にこっぴどく叱られたもんだ。




 東京だと、スリーオンのできるコートが点在していて、俺はなるべくそこを避けていた。

 不思議に思われるかもしれないが、俺はとっても心の狭い男なので、プロや実業団の試合を見るどころか、小学生の授業のちんたらバスケすら嫉妬で見ることが未だにできない。




「あの‥‥‥もしかして、奥山さん?」

 自分の心の狭さに絶句していると、背後から女性の声で呼ばれた。




 振り返ると、ボサボサの頭の女性がいた。

 誰だ?

 見たことがあるような気がするが‥‥‥

「あ、えっと‥‥‥化粧していないからわかりにくいですよね。林です。林弓加です」

 ボサボサ頭の女性は、黒縁眼鏡をかけていてすっぴんだ。

 体のラインがある程度分かる薄い水色のTシャツに、すっとした黒いズボン姿だ。

 会社では化粧も服装もビシっと決めているのでわからなかった。

 あ、でもボサボサの頭はそのままか。

「偶然ですね」

 観覧席にはプールから上がった人たちがちらほらしている。

 プール後のアイスやジュースは、大概の人にはご褒美なのだろう。

 林は湯気の出ている紙コップを手にして近づいてきた。

「隣、座ってもいいですか?」

「ああ」

 こくりと頷けば、彼女は一人分よりはちょっと近いくらいの位置に座った。

 香りから、彼女が手にしているのはコーヒーだとわかる。

「林さんも、ここのジム?」

「はい。先月から通い始めたんです。意外と水泳の後ってお腹が減りますね」

 苦笑いを彼女は浮かべる。

「そうだな」

 俺は、どう続けていいかわからなくて、肯定だけする。

 高校生の時はもうちょっと社交性もあったはずなのだが、男だらけの空間で四年間も勉強して、勉強して、勉強して、という生活をしていたら、女性だけではなく、人種とどう話せばいいのかがわからなくなっていた。同期にやたらめったら喋る男がいたのも悪因だろう。喋らなくて済んでしまったのだ。

 林は俺の返答が短いことなど気にすることもなく、両手で紙コップを持ってふーふーしながらコーヒーを飲み、そして俺にどうしてここに通い始めたかなどを話してくれた。

 要約すると、腹筋を割りたいということだった。

 女性が腹筋を割るのはどうかと思う。

 じっと見てみるが、彼女の腹は曰くたぷんたぷんしているらしいが、そのようには見えない。

「ちょっ、お腹見ないでください!!」

 というので仕方なく、他の場所を見るために目線を上げていく。

 すみません。男なのでどうしても胸を真っ先に見てしまいます。

 やわらかそうな小振りの胸に、ほっそりとした真っ白な二の腕、細い手首には薄い水色? もうちょっと緑色っぽい? うん、わからん。淡い水色みたいな緑色の、シュシュとかいうやつが巻き付いている。シュシュというのは同期の女性に教えてもらった。面白い響きなので覚えている。

 しばらくの沈黙の後、彼女は俺を見上げてきた。

 確かに俺と彼女の身長差では見上げないと無理だ。

 俺は一八九センチで、彼女は頭のてっぺんが俺の胸のあたりだ。

 ちっこい。

 こんなに細くてちっこいのに、俺の先輩なのだ。

 DNAって不思議だ。

「あの‥‥‥ですね」

 彼女を見やれば、林は空の紙コップを両手で包んでいた。

「その‥‥‥ですね」

「うん?」

 ちょっと語尾を上げて話を促してみる。

「これを言うと、引かれるかな~とか、偶然って怖え~ってなると思うんですけど‥‥‥」

「ん?」

 もじょもじょした言い方に首を傾げる。

 彼女は、なにが言いたいんだろう?

「奥山さんって、膝はもう大丈夫なんですか?」

 真剣な瞳で、眼鏡の少女のような女性が見上げてきた。

 え、膝?

 どうして、林が知っている?

 俺は吃驚して、動きを止めた。

「わっ、私、偶然なんですがあなたの一つ上の学年で、卒業した後に後輩から、バスケ部の奥山くんが膝を怪我してバスケができなくなったって聞いていたんです」

 久し振りの真正面からの精神的外傷トラウマ攻撃に俺は息を呑むが、不思議なことに、思った以上の衝撃はなかった。

 むしろ、無傷に近い。

「ちょっと、ある事情がありまして、あなたが怪我をしたことを個人的に凄く心配していたんです」

 林はオレを見ずにそのまま続けた。

「だから、あなたが気持ちを切り替えて難関の大学に合格して、有名な企業に就職したと聞いて、ほっとしていたんです」

 その有名企業にあなたも務めているんでしょうが、と思った。

 これ、聞く人によってはすっごい自慢に思われるだろう。

「膝は、激しい運動は止められているけれど、動かさないよりいいって言われている」

「そ、そうなんですか!? よかった!! ご、ごめんなさいね。親しくもないのにプライベートなこと聞いてしまって。ちょっと、知り合いの状況に似ていたから、つい気になって‥‥‥奥山さん、会社ではプライベートなことは一切話さないから、慣れ合うのが嫌いなんだと思って‥‥‥あ、あの確認したかっただけで、他意はないから、会社では今まで通りの扱いでいいですから!! スポーツジムここでも無視でいいですからね!」

 彼女はぺらぺらと、自分がなぜそんな踏み込んだことを聞いてきたかを解説してくれた。

 ある事情。

 知り合い。

 状況の似ている、存在。

「その‥‥‥知り合いは、現実の、人?」




 俺の質問に、彼女は勝手に顔色を青くさせて、そして「ひっ!」と言った。

 黒縁眼鏡の奥の大きな瞳は「なぜ、それを知っている!?」と言っているようだ。

「先輩?」

 短く問えば、彼女は口を両手で押さえた。

「エスパー!!」

 誰がだ。




 実は、その先輩とやらが気になって、ステップに連載されているバスケマンガを読んでみた。

 美形だった。

 でかかった。

 にょきにょき伸びてる登場人物ばかりの中でも、でかかった。

 そして、なんだか間抜けな人だった。

 でも、確かに、この人がやさぐれて中卒になってろくな就職先にしか就けなかったら、そりゃあ心配するだろう。

 その心配は、きっと俺の両親や兄や、周囲の人も俺に対して抱いているのだろうと、当時の俺は思った。

「『ブザービーターダンク』だっけ?」

 確か、略して『ブビダ』にするか『ブザダ』にするかで揉めているというのを全巻貸してくれた後輩が言っていた。

「‥‥‥そ、そう、です」

 隣のボサボサ頭の同僚は、小さく同意してしょぼーんとしていた。

 彼女が、あの人なのかはわからない。

 世の中には、同じマンガを読んで、俺に同情をした人は彼女以外にもいるだろう。きっと。

「ご、ごめんなさい。知らない人に、根掘り葉掘り聞かれても迷惑だよね」

「知らない人じゃ、ないけど。同僚」

 彼女があの人だったら、いいなと思った。

 そんな偶然、あったらすごいけど。

「林さんは、ゴールデンウィーク、帰省しないの?」

「へ? あ、うちは二年前に父が仕事の都合でこっちに引っ越してきたから、帰るけれど‥‥‥」

 そうなのか。一緒に帰省できるわけではないのか。

 そう残念に思った自分にちょっと吃驚する。

「これで、俺も林さんのプライべートを聞いたでしょ?」

 おあいこだよ、という気持ちを込めて微笑む。

「うわ。先輩スマイル」

 小さく、彼女が呻いた。

 あれ? 俺の笑顔って呻く程に酷い? 首を傾げる。

「え、えっと、わ、私、帰りますね。なんか、昔のこと、思い出させちゃって、ごめんなさい」

 彼女は、慌てて立ち上がるとスポーツバッグを手にして微苦笑を浮かべる。

 ボサボサで、少し茶色寄りの黒髪が束であっちこっちを向いている頭。

 黒縁眼鏡。

 白い肌にうっすらと浮かんでいるそばかす。

 大きな瞳。

 ほっそりとした小さな体。

 今、改めて彼女を見て‥‥‥会社での彼女は別段と興味がないけれど、今の自然体というかすっぴんそのままの彼女は食べてみたいと思った。

 性的な意味で。

 へ?

 そう、思った自分に吃驚した。と、同時に「林さん!」と彼女を呼び止める声が発せられる。

 自分の勢いに吃驚だ。


「よかったら、ご飯、食べに行かない?」


 夢中になりたい女性に、俺は青じそハンバーグを奢りたいと思った。





>>続く



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