帰宅
「ただいまー」
小さいときからのくせで、家に帰ると条件反射的に「ただいま」と言ってしまう。誰もいない深夜のワンルームマンションは、静まりかえって少し寂しい。
玄関先に荷物を置いて、とりあえず体重計に乗ってみる。下腹部に手を当て、すこし腹を突き出すような格好でお腹を強調すると、ワンピースの生地越しに出現するゆるやかな膨らみ。まだまだ余裕のある胃袋の感覚。3キロ程度の増加だろうか。果たして数値は予想通り、51.49 kgを指した。
「ソフィアさま、48.52 から、2.97 食べて、51.49 キロになりました。少しだけお腹が膨らんでるの、分かりますかー?」
上と横から、精一杯自撮りで腕を伸ばし、全身をうつしこんだ。とりあえず途中経過はこの程度でいいだろう。動画撮影中の携帯をそのまま棚に立てかけて、テーブルの上に買ってきたものを並べてみる。
小ぶりな丼が2つに、普通の弁当が3つ、特大のスタミナ弁当が2つ、普通サイズのいなり寿司パックが1つ、ばくだんおにぎりが2つ、そして普通サイズのおにぎりが17個……こうして並べてみると、確かにけっこうな量だ。テーブルの上に広げることはできず、弁当は重ねることになってしまった。
「こちら、これから食べるお弁当です! これからこれは、全部食べちゃおうと思います!」
携帯を手にとり、食材をうつす。なんだかテンションが高くなってきた。大食いを前にしてこんなに楽しくなるなんて、いつ以来だろう? 大食い「で」食べていくようになって、はや9年。いつの間にか「大食いは仕事」と割り切ってしまっていたことに、今さらになって気付く。少なくともこの数年はペースメーカー役ばかりで、大食いで感情が揺れ動くことなどなかった。今日はなんだか特別だ。
なぜだろう?
深夜だから? 違う、パーティー会場などに呼ばれ、深夜に大食いすること自体はそれほど珍しくない。ソフィアとの大きな契約が懸かっているから? それは確かにそうかもしれないが、ただお金だけで、ここまで感情が高ぶるとも思えない。
自問するまでもなく、答えは明らかだった――あの牛丼屋の店員。彼が私に示してくれた、率直な驚きと尊敬の入り交じったまなざし。「そんなに食べられるのか、すごい」という、素朴だが確かな感情の発露。それを追い求めて、自分もこの道に入ってきたのではなかったか。
小学生の頃、クラスの大半が給食週間に風邪を引き、給食を残すまいと奮闘した記憶。「ちはる、すげーな!」当番をしていた佑介は、よほど驚いたのか、翌日から私に敬語で接するようになった――他の誰にも、敬語なんか使わなかったのに――そういえば、ときおり大会も見に来てくれていたらしい――今は何をしているのか分からないけれど。
進学した女子校の部活で、後輩たちにコツを教えてくれとせがまれるのも、目の前で様々な練習法を見せてやることも、そういえば楽しかったなぁ。そして何より、練習で自分の身体が少しずつ変わっていくのは驚きで、そしてそう、私にとっても楽しかったのだ。
毎日の練習もそう。視線の下に現れる、数時間前と全く異なる膨らみ――服を脱いで素肌になってもなお、自分の身体ではないのではないかと思ってしまうほど堂々と張り出した曲線。しかし同時に、それは確かに自分身体の一部なのだと訴えてくる、皮膚や胃壁の緊張した感覚や、脚に感じる重み、微かな痛み、そして言いようのない充実感……そう、私は大食いを、昔は心の底から、楽しんでいたのだ。
時間にして数秒の回想だったと思うが、千春の中で何かがパチンと切り替わったような気がした。
「いただきまーす!」
両手を合わせると、レンジをかける間ももどかしく、千春はいなり寿司のパックに手を伸ばした。