牛丼
深夜の街、といっても、千春の住むベッドタウンには歓楽街などない。いたって平凡な住宅地である。私鉄の駅前にはコンビニが2件と、牛丼チェーンが1件、開いている店はそれしかない。食物が手に入らない最悪の場合、スポーツ飲料か生理食塩水を8L飲めばいいので気はラクだが、できるだけ固形物を食べたほうが、ペースメーカーとしては印象もいいだろう。できれば競技に一番近いごはん、コンビニおにぎりなどがいいのではないだろうか。とりあえず最寄りのコンビニに入る。在庫管理がしっかりしているらしく、コンビニおにぎりの棚はまばらだ。もとより住宅地だから、おにぎりや弁当の入荷自体が少ないのかもしれない。
昆布が3つ、ツナマヨが2つ、豚キムチと鮭とたらこが1つずつ。3色ばくだんおにぎりが2つと、3個入りのいなり寿司パックが1つ。中華丼が1つと、スタミナ弁当が2つ。これが1つめのコンビニにあった「ごはんもの」食品の全てだった。
普段コンビニのもので大食いなどしない分、こうしてみるとOhgui選手と一般人のサイズ感の違いを改めて実感する。「これ1個で大満足! 3色ばくだんおにぎり!」と派手な字で書かれたおにぎりですら300グラムもなく、大食いに慣れた今の私の胃は、これっぽっちのサイズではたとえ10個食べても全然満足はできない。一つ一つ手で持って、おおよその重さを確かめる。普通サイズのおにぎりが 100 gほど、ばくだんおにぎりといなりずしパックが 300 g、中華丼 400 gにスタミナ弁当 500 gというのが妥当な線だろう。全部合わせても3 kgほどにしかならない。恥ずかしいが背に腹は代えられぬ。全てカゴに入れて、レジへ持って行った。
コンビニで 4000 円も払うなんて初めてだ。もう一つのコンビニにも入り、先程と同様、棚を物色する。こちらの品揃えも似たようなもので、おにぎり10個と弁当4つ、あっただけ全部買い込んだ。レジ係は興味深そうに袋の中身と量を覗いたが、詮索はしてこなかった。ここまででおおよそ6キロ弱。隣の駅まで行かねば次のコンビニはない。両手に抱えたビニール袋は指に食い込みつつあって、往復3キロほどの道のりを深夜に歩きたくはなかった。
明かりのともっている牛丼屋の看板が目に入る。客はなく、中で一人、20歳ほどの青年がカウンターを拭いている。ここで2キロ分食べてしまえば、話は早い。千春は重いコンビニの袋を両手に抱えたまま、牛丼屋へと入っていった。
「いらしゃい・・・ませ?」
深夜に女が、両手にコンビニおにぎりや弁当の詰まった袋を抱えて入ってきたときの対応法、など、マニュアルに書いてはなかっただろう。店員は少し動揺した様子で挨拶をしたが、そのままメニューを持ってきた。
「すみません、2キロくらいのメニューを一つお願いします」
隣のテーブルにコンビニの袋を置きながら、千春は尋ねる。細くなったビニールの取っ手で圧迫されていた部分に赤い線が見える。血が再び指先に通い出して、楽になった気分だ。
「に、きろ・・・!? ですか!?」
店員が狼狽したように聞き返す。そうか、ここは一般人向けの牛丼チェーンなので、メニューの重さ指定などないのだろう。
「あ、すみません。えーと・・・いま、たくさん食べたい気分なんですけど、一番大きなメニューは何になりますか?」
店員側に分かるような表現で言い直す。「たくさん食べたい気分」なんて、言ってしまってからやはり奇妙だったんじゃないかと若干後悔する。
「え、ええ・・・少々お待ちください・・・」
店員が厨房に戻っていった。マニュアルを確認しているのだろう。
「ええとですね……そちら、一般のメニューにはない、ございません、のですが、『テラ牛丼』というのがあります。ご飯が 600 g、牛肉が 600 g、合わせて 1200 gになります」
バイトを始めたばかりなのだろう、まだ板についていない敬語で必死に応対しようとしている姿がなんだかすこし可愛い。髪は軽く茶色に染めているのかな。深夜バイトが終われば、そのあたりにいる普通の大学生だろう。
「じゃあそれを2つで」
「ふたつ!?」
「はい」
「ええ・・・前払い、お願いできますか? 3000円になりますので」
やはり一般人向けのメニューは高いが、そんなことは言っていられない。お札を3枚出して、会計を済ませる。店員がアタフタと戻っていき、何やら大急ぎで盛り付けを始めた。
これでなんとか、ノルマの8キロはクリアできそうだ。(ちゃんと食べれれば、の話だが。)携帯が録画中のままポケットの中だったことを思い出し、テーブルの箸立てにもたれかけさせるような形で、自撮り環境を整えた。5分ほどして、定員が両手に丼を抱え、重そうな足取りで歩いてくる。どうやら2つ、いっぺんに作ってしまったらしい。一つずつ持ってきてくれれば冷めずにすむのだが、まあ贅沢は言うまい。一方が冷める前に、もう一方を食べ切ればいいだけの話である。
「いただきます」
両手を合わせ、自分と丼がちゃんとカメラに収まっていることを確認してから、少し速めのスピードで丼を掻き込み始める。まだ熱い牛肉が、ゆっくり食道を通り、胃の中に落ちていくのが分かる。4つ付属している卵は、割ってかけろ、ということなのだろう。両手で抱えきれないサイズの丼にはそれでも小さく見えるが、2つずつ卵を割り入れた。
かなり味が濃いので、ご飯は予想以上に進む。しかしベタッと濃い味は飽きるのも早く、結局丼1つ終わらないうちに飽きてしまった。やはり白米が一番飽きないし、大食いに向いているとあらためて思う。
5分ほどでご飯はなくなり、具材だけが残った。ごはんのおかわりを頼めないかと思い店員に声をかけようと目を上げると、店員が慌てて千春から目を逸らせたのが見える。おおかた、興味津々、と言った様子で、さきほどまでこちらを眺めていたのだろう。慌てて目を逸らす、はにかんだ表情もぎこちなさも、なんだか可愛い。干支が一回りも違う男子大学生に可愛いと思うなんて、私もおばさんになったものだと思ってふと苦笑する。これ以上おかわりを頼んだら、彼はどんな顔をするだろう?
「すみません、具材が先になくなってしまったのですが、ご飯のおかわり、って、できたりしますか?」
店員に優しく問いかけてみる。
「テラ牛丼の、ご飯の、おかわり・・・ですか!? 少々、お待ちください!」
店員が慌てて厨房に引っ込んでいった。ご飯が来るまで、もう一方の丼を食べ進めていよう。
「すみません、こちら、一般メニューにある大きさですと、ご飯おかわりは平常盛りの半分まで50円、ということになっているのですが、『テラ牛丼』には指示がございませんでした。おそらく、テラ牛丼の分量へさらに追加することは想定されていないものかと・・・…」
「あ、ならいいです。無茶言ってしまってすみません。具材が先になくなったので、ちょっと、しょっぱいかな、と思っただけで」
「あ、すみません。実は自分、今日がワンオペ初日で、ちょっと煮詰めちゃったかもしれないんです」
「あ、そういう意味じゃないの。大丈夫よ。私がいつも、薄味のご飯ばかり食べているから、こういうのに慣れていないだけ」
「あ、やっぱり、Ohgui選手の方なんですね! すごいなぁ!」
目を輝かせて食べているところを見つめられるというのは、なんだか面映ゆい。
「別に珍しいものじゃないでしょ?」
「いえ、自分、男子高なんで……いや、男子校だったんで、大食い選手の方が食べてるとこ、生で見るのって初めてで」
驚いた。高校生か! 最近の高校生は随分ませているものだ。あれ? 高校生って、深夜に働いていいんだっけ?
「高校生!?」
店員の青年は「しまった!」というような顔で周囲を見回す。誤魔化すのが下手にもほどがある。
「大丈夫よ。別に、誰かに言おうとか言うんじゃないから。最近の高校生ってずいぶん大人っぽいんだな、って思って」
「最近の高校生……って、お姉さんだって、数年前までそうでしょう? 見逃してください。浪人生の先輩が今日、熱出しちゃって、誰も他に入れる人いなくて・・・僕、いま先輩の代わりに入ってるんです。だから、すみません、内緒にしてください! 料金は返しますから。」
あらやだ。ずいぶん嬉しいこといってくれるじゃないの。あ、もちろん料金返金ではなく、年齢のことだ。口先三寸で女を転がす男に「若い」と言われて舞い上がるほど経験を積んでいないわけではないが、先程から嘘を付けなさそうな高校生に「数年前まで高校生」と言われれば、多少嬉しい気分にはなる。
「料金はいいわよ」
「いえ、じゃあ、おかわりのごはんだけでもサービスで」
「それもいいわよ」
「いえ。たぶん本来なら把握しとかなくちゃいけないんでしょうけど、僕、大食い選手の方が深夜にテラ牛丼を食べに来てるなんて知らなかったんです」
「いえ、私もここに来るの、今日が初めてよ」
「え? いつもいらしてるんじゃないんですか?」
「そんなことしないわよ。深夜に食べると太っちゃうしね。今日は特別。」
「どうして?」
「ある有名な選手から、ペースメーカーの依頼が来てね。今、その採用試験を受けてるとこなの」
「よくわかんないけど、やっぱりお姉さん、すごい選手なんですね!」
「ううん、ちょっと人より早く食べれるだけ。たいした選手じゃないわ。私より食べれる人なんて、世界にはいくらでもいるのよ」
ここで「ありがとう」と笑えれば、人生をもう少し楽しめたのかもしれないが、つい卑屈になって答えてしまう自分が、千春はあまり好きではない。
「そうかな。まあ、俺は絶対無理っすけどね。テラ牛丼食べきるなんて、それも2杯も、あ、やっぱ俺、ご飯の追加持ってきます」
ちょうど千春がご飯を食べきったタイミングで、青年はご飯をもってきた。500グラムくらいだろうか。
「大丈夫? ごはん足りる?」
「全然大丈夫っす。炊き直せばいいんで」
「本当? 私ここにそういえばおにぎりもあるから、無理にご飯使わなくても大丈夫よ」
「いえ、本当に大丈夫っす。え? てか、これ全部食べ物なんですか? わ! ほんとだ! あ……すみません、人の袋、勝手に覗いたりして」
「ううん、大丈夫。それはこのあと食べる分」
「へ!? まだ食えるんすか!?」
青年が素っ頓狂な声を出す。
「もちろん。今日は8キロ食べないと合格にならないの。このテラ牛丼なんて、前菜みたいなもんよ」
「はあ―、前菜っすか。世界は広いんすね。どうしたらそんなに食えるんすか?」
言いながら青年が二つの丼に、おかわりのご飯を追加する。これ以上断るのも逆に変な感じなので、千春も一瞬手を止め、丼にご飯を入れてもらう。
「練習よ練習。ひたすら練習あるのみ。てか、この前のオリンピック特番とか見てないの?」
「すんません、見てないんすよ。ニュースでよく報道されてたし、けっこう周囲は盛り上がってたんですけど、どうもCGみたいな感じがしちゃって……その、あまりにも膨らみすぎてるじゃないっすか。小山さんのとか、本田さんのとか……だから今日、実際に目の前で見て、初めて現実感が湧いたっていうか……選手たちはみんな本当に食べてるってことなんすよね?」
なるほど、そうか。身近に大食い選手がいないと、この青年のように別世界と感じてしまうのかもしれない。確かに体操にしろ重量挙げにしろ、オリンピック選手の身体はみな、一般市民とかけ離れすぎていて現実感がない。
「もちろん食べてるわ。そうじゃなきゃ手品よ」
「そうっすよね、なんかすんません。本気で頑張ってる人に、なんか嘘なんじゃないか、なんて言ったりして……」
「ううん、そう思われるのも無理はないわ。だからこんど、もしよければ大食いの大会見てあげてね」
「はい! そうします!」
青年は即答し、次の瞬間、チャイムが鳴って、別のお客が入ってきた。
「いらっしゃいませー!」
青年はすぐさまお茶を持って、そちらの方へ向かう。千春の目の前にある大きな二つの丼を見て、入ってきた客も一瞬目を丸くしたようだが、すぐに牛丼の並盛りをオーダーした。
もう少しこの人の来店が遅かったら、もっと喋れたかもしれないな。おにぎりもここで食べて、お腹を服の上からでも、触らせてあげれば驚いただろうな。束の間の楽しい時間だったので、ちょっと残念だったけど、手早く丼の残りを空にして、ビニールを手に外に出た。
「ありがとうございましたー! またお越しくださいませ!!」
弾んだ声が背中に響く。そう、彼は店員で、私は客、それ以上でもそれ以下でもなかったのだ。既に体重計測から1時間以上経過しているので、早く帰って残りを食べきるに超したことはない。少しだけ重くなった胃袋と、相変わらず重いままのコンビニ袋を随え、私はいそいそと家路についた。