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3杯目の途中で、イリーナのペースが目に見えて遅くなった。すかさず先程の怒号が飛ぶ。
既に4杯目に入っていたルジャインが何やら心配そうに声をかけ、一瞬手を止めようとした。ペースメーカーとしては当然の対応である。なにせここまで、13 kg/h 超のペースで飛ばしているのだ。いつ問題が起きてもおかしくない速度である。
と、今度はルジャインの方に怒号が飛んだ。怒号といってもイリーナに向けたものより遥かに優しい声だが、何やら主張していることに違いはなさそうだ。ルジャインがイリーナから目を逸らし、先程と同じペースで粥を掻き込みはじめる。おそらく「ペースメーカーは黙って指示通りのペースで食べ続けなさい」というようなことでも言われたのだろう。しかし顔面蒼白なイリーナに、これ以上ルジャインのペースについていけと強要するのは無茶というものだ。テーブルを挟んで両側に座しているルジャインとイリーナだが、二人の様子はこれ以上ないほどに対照的である。
褐色の肌のルジャインはイリーナより背は低いが、まるで拡張期をずっと継続してきたかのように肉付きがいい(実際そうなのかもしれない)。60 kgほどもあるだろうか、全身エネルギーに満ちあふれ、弾むように食事のテンポを楽しんでいるようにすら見える。淡い黄色のネグリジェを着ていて、生地にも皮膚にも胃壁にも、まだまだ余裕がありそうだ。
一方、白さを通り越して青白くなっているイリーナは、貧血気味なのか明らかに顔色が悪い。語弊を恐れずに言うなら、痩せているというより、やつれているように見える。無茶な減量をしたのだろう。ぴったりした七分袖の黒Tシャツから推し量られる二の腕も首回りも折れそうに細く、胸だって肋骨の一本一本が触れるのではないかと思われた。ゆっくりと右手を動かし続けながら、左手で脇腹のあたりを痛そうにつまみ、背中を伸ばしたり丸めたりしている。おそらく胃が「上に戻ってきてしまっている」のだろう。
千春も時折経験するが、久々の詰め込みは胃を「降ろす」のが辛い。少し人より多く食べれる、というアマチュアの大食い人とは違い、大食いプロは上腹部のスペースだけでは戦えないから、胃を下垂させ、骨盤近くまで使う必要がある。寝るときも常に数kgは胃に入っている集中的拡張期ならいざ知らず(それでも普通は3日に1回ほどオフにするから、翌日は少し辛い)、久々に詰め込む際は、胃を大きく緩め、「くびれ」を下に降ろさなくてはならないのだ。そのまま休まず詰め込むと上腹部だけがパンパンに張っていき、吐き気は襲うわ呼吸は苦しいわで全然良いことがないのである。大会前に十分な調整期が必要な理由の一つがこれで、千春はいつの頃からか、こうなった日は(たとえ大会でも棄権して)腹を休めることにしている。
しかしイリーナの母は、まだまだイリーナを追い込むらしい。久々の刺激に胃が降ろせぬイリーナに向かって、時折ルジャンヌの方を指さしながら、何やらまくし立てている。「どうしてルジャンヌのように、あのペースで食べられないのか」とでも言っているようだ。それは無理というものだろう。オリンピックの時のイリーナや小山の膨らみと比べれば、まだまだ序盤であるかのように錯覚してしまうが、既にイリーナは2.6 kgほどの粥を胃に流し込んでいるのだ。2.6 kgという数字、挑戦したことのない者には分からないかもしれないが、ohgui競技経験のない普通の18歳なら、既に十分、裸足で逃げ出したくなるような量である。
なんでビデオを見ただけでこんなことが分かるのかって? 証拠なら、服の上からでも、二人の様子を比べれば分かるではないか。ルジャンヌの胃は既に下降し、ゆったりと下腹部のスペースを活用している(淡黄色のネグリジェが臍の下あたりを頂点に緩い膨らみを描いている)のに対し、イリーナの左手が苦しそうにさすっている黒Tシャツは、左側肋骨のすぐ下だけが局所的に膨れていて、大根か何かをTシャツの下に隠し持っているかのようだ。拡張させていないとき、健常人の胃はその位置にある。大食い選手も胃の弛緩率が低いときは、このような膨らみ方で苦しくなる。
これは今や大食い選手の常識だが、胃の容量は胃壁の厚さ(拡張ポテンシャル)と弛緩率で決まる。
胃壁の厚さ(拡張ポテンシャル)は文字通り、地道なトレーニングの賜物、選手としての格を決定する重要なファクターだ。限界ギリギリの苦しい詰め込みを繰り返すことで、かつて限界だった量も、いつの間にか平らげることができるようになる。一朝一夕に増加させることはできない分、数ヶ月程度休んだところで大きく値が低下するものでもない。イリーナの拡張ポテンシャルは、この前のオリンピックから鑑みて20 kg程度。それなら2.6 kg程度簡単に収められるのかというと、ohguiはそう単純ではない。
胃には本来、蠕動運動というのがあって、収縮と弛緩を繰り返し食べ物を混ぜ合わせている。食事をすると、胃の上部が「くびれ」て一時的な「袋」を作り、そこから食物を少しずつ、胃の後方へ押し出しながら消化していくのだ。どれほど大きくなれる胃袋を持っていたとしても、胃の入り口近く(噴門側)に「くびれ」ができてしまっては、せっかくの胃の大きさを活用することができない。
最初の「くびれ」が胃の入口付近(噴門側)にできるか、出口付近(幽門側)にできるかは、直近一週間程度の拡張量に依存すると考えられている。暫く食事を抜くと「胃が小さく」なったり、暫く大食いを続けると「胃が大きく」なったりしたように感じられるのは、単に「くびれ」のできる位置が変わっているにすぎない。直近の食事量が少ないときには、長いスペースをできるだけゆっくり使用して確実に消化を行うが、直近の食事量が多いときには、胃の大きさをフルに使ってできるだけ多くの食物を収めようとする、生体として理に適ったシステムである。
Ohgui選手の調整期は、まさにこのシステムを利用したものだ。本来は、胃壁の収縮が全く起こらないのが理想だが、特に緊張したりした場合、胃壁を完全に弛緩させるのはとても難しい。(一部の超一流ohgui選手は、食べ物がゾーンに入る(詰め込みすぎて胃の圧が高まり、収縮さえも止めてしまう)ことがあるというが、千春にその感覚は分からないし、彼らとて常にゾーンに入れられる訳ではない。)だから直前に調整期を作り、胃の「くびれ」ができる位置をできるだけ出口付近(幽門側)にずらしていくのである。
本来2.6キロほどの粥など朝飯前、いや、おやつにすらならない量のはずのイリーナだが、そういうわけで、今日の練習も、決して容易なものではないのである。
イリーナはそれでもプロらしく、3杯目を虫の息で食べきった。相変わらず胃は下に降りてきておらず、下腹部は平坦なくせに、上腹部だけが凶暴なほどに膨らんでいる。これなら誰が見ても、妊婦と大食い後の判別ができるだろう? と言わんばかりの膨らみだ。相当辛いのだろう、首を後ろに逸らし、天井を仰ぎ見る。
ソフィアが何やら叫び、ルジャインの妹にすかさず次の皿を持ってこさせた。食べ終わった大きな丼が3つ重ねられ、イリーナの手元が完全に隠される。まだ続けるのか、このままどこまで行くのだろう?
そう思った瞬間、カメラが再びブラックアウトして、次の画面に切り替わった。千春の目が、いっそう大きく見開かれる。10分後、千春は短いメッセージを返していた。
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ソフィア さま、
ご れんらく、ありがとう ございました。
かしこまり ました。
こちらこそ、どうぞ よろしく おねがい いたします。
ちはる (Chiharu)
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