イリーナ(完結)
女手ひとつでイリーナを育てたソフィアの収入源は、タレント時代に購入した不動産の家賃収入だった。金がなく、働く必要に迫られればソフィアのイリーナに対する態度も少しは違ったものであったかもしれないが、ソフィアは(幼いイリーナにとっては残念なことに)働く必要がなく、したがって常に家に居た。
当初は自分の意思で引き上げてきた芸能界だったが、3年としないうちに彼女は再び芸能界や大食い界、そこでかつて得られた数々の栄光に未練を感じ始めた。(若くして脚光を浴び、ちやほやされたスターにありがちなことだ。)やめるときに一悶着も二悶着もあったらしく、彼女自身が芸能界に戻る道はなかった。腹部に帝王切開の手術痕が残る彼女が、大食い界に戻る道もなかった。
失ったものはより大きく見え、彼女は毎日を鬱々と過ごした。この子さえいなければ……この子さえ産まなければ……鬱憤は捌け口をなくし、感情は屈曲した。
イリーナが物心ついたとき、母はすでに、イリーナを憎んでいるらしかった。バラ色の人生をめちゃくちゃにされた……この子が私の人生をめちゃくちゃにした……そう思い込んでしまった母は、イリーナにしばしばきつく当たった。口の利き方がなってないと言っては殴られ、ぼんやりと突っ立っているんじゃないと言って殴られ、同じ部屋の空気を吸わないで欲しいと言って殴られた。あざだらけになって、泣きながらトイレにこもっていたことも数え切れない。あまり長いことトイレにいると、母が外から鍵をこじ開けてイリーナをつまみだすので、トイレもあまり長い時間の安寧とは言えなかった。
ただ一つ、二人きりでも母がイリーナを罰しないのはイリーナが食事を食べているときで、イリーナが食事をしている間だけは母は優しかったし、沢山食べれば食べるほど母は喜んだ。母の大食い団時代の経験がそうさせていたのか、それとも当時からイリーナを一流のOhgui選手に仕立て上げて一旗あげようと目論んでいたのか、そのあたりは定かではないが、とにかく母は手のひらを返したように、食事の間だけ優しくなった。
だからイリーナはいつも、必死に食べた。母の機嫌が悪くなった頃を見計らって「お腹空いたからご飯食べよう」と言う術を身につけた――たとえそのとき、どれほどお腹がいっぱいであったとしても、食べる方が殴られるよりましというものだ。できるだけゆっくり、できるだけたくさん食べて、食事の時間を引き延ばす。食べている時間だけが、イリーナにとって幸せな時間だった。
食べ過ぎて戻してしまうと、母は烈火のごとく怒り、イリーナを殺さんばかりの勢いだった。
「私の料理が食えないのかい?え?そんなに不味かったかい? 嘘つきは嫌いだよ。お前はまったく、全てを投げ捨ててお前を産んでやった大恩人の恩を仇で返しやがって。あのとき中絶したってよかったんだからね。そんなやつは、死ねばいいんだ。殺してやる! 今すぐにでも殺してやろうか? そうすりゃお前から解放されて、いい気味だ!」
そう言って怒り始めるときの母の目はきまって血走っていて、とても冗談に聞こえなかった。
そんな日々がイリーナにとっての「当たり前」だったから、イリーナにとってOhguiの基本は、日常の中で自然と身に付けた「処世術」だった。5歳のとき、食事前後に乗ってみた体重計が3キロ増えた値を示しても、イリーナはそれを特別なこととは思わなかった。食事をすれば肋骨の下が思い切り飛び出してくるのは当たり前のことだし、お腹が太ももの付け根付近までパンパンに張り詰めるのも当たり前のことだと思っていた。
「イリーナ、あんた、Ohgui選手にならないかい?」
イリーナが7歳のとき、母はそう問いかけた。母の疑問文は、つまりは命令文だ。Ohgui選手になれ。
「はい、お母様」
イリーナは答えた。
「たくさん食べて、人に褒められる仕事だよ。いいだろう? 来月小学生向けの大会が近くであるそうだ。参加してみたくないかい?」
「はい、お母様」
もう一度イリーナは答えた。するとその日から、母はイリーナを殴らなくなった。今思えば、軽量前の清拭で虐待の跡が見咎められるのを恐れたのだろう。実際にはジュニアの大会で服を脱ぐことはなかったが、イリーナは何も言わなかった。殴られないなら、それに超したことはない。
相変わらず、ご飯を残すと母は不機嫌だったが、大会前日はご飯を食べなくてもいいと言われ、母はそれでも終始、上機嫌だった。イリーナは嬉しかった。(これなら毎月のように大食い大会があってもいい、とイリーナは思った。)
その大会で、イリーナは 7.4 kgをマークし、9歳以下の部で優勝した。フラッシュが焚かれ、壇上でメダルが授与された。
「すごく良いお腹ね。羨ましい。触っても良い?」
準優勝の子が試合後興奮した様子で、イリーナに笑いかけてきた。私が!? すごく良い!? 羨ましい!?
どれも初めての言葉ばかりで、イリーナは戸惑った。戸惑ったイリーナの表情を、別の意味に解釈したらしい。少し早口に、自己紹介を始めた。
「あ、私、ナターリアって言うの。ナターリア・フィードロヴナ。あなたは?」
「イ……イリーナです。イリーナ・イワーノヴナ」
ロシア語の名前には、本名の後に父称が入る。イリーナは自分の父の名を母から聞かされていなかったし、会場で何を聞かれても、母との関係性は喋るなと言われていたから、とっさにありふれた父称を捏造した。
「いきなりごめんね。つい『すごいな』って思う人に会うと、話しかけずにはいられなくなっちゃうの。だって私もう9歳10ヶ月なのよ。それでも7歳のあなたに敵わなかったわ。せめて握手だけさせて……わー、柔らかい手! 私、来年は別の階級だけど、もう少し練習頑張るわ。正直ね、今年は絶対優勝だと思ってたの……」
ナターリャは終始、屈託なくイリーナに笑いかけたまま、こんな具合に早口で話し続け、向こうの家族に連れられて帰っていった。イリーナはメダルと賞状を鞄にしまい、誰にも尾行されていないか時折振り返りながら、一人歩いて家へ帰った。
私が、羨ましい、と彼女は言った。帰り道イリーナの脳裏には、そのときの彼女の表情が何度も再生された。私のお腹が、すごく良い、触りたい、と彼女は言った。イリーナはそっとTシャツの下に手から手を入れ、自分のお腹に触れてみた。柔らかく厚い脂肪の層の背後に、固く張り詰めた胃袋が感じられた。イリーナは、嬉しかった。私がひとより食べる限りは、ひとは私を認めてくれる! イリーナはこの日の感慨を、今でもはっきり思い出すことができる。
家へ帰った母はイリーナのメダルと賞状を見、報告を聞いて、大いにご満悦だった。そして母はイリーナに、本格的なOhguiの「練習」を始めさせたのだった。母はイリーナを評価するように見つめ、来年の大会で一万グラムに到達できたら、お前を大食い少女団に預けるつもりだ、と言った。イリーナは結局この目標を達成し、厳しい練習で知られるペテルブルグの大食い少女団へ派遣されたのだが、後から振り返ってみると、ペテルブルグの大食い少女団に着いてからの練習より、ペテルブルグに行くための条件として母が家で課した練習の方が遙かに辛かった。少なくともペテルブルグでは、トイレに縛り付けられてひたすら飲食物を漏斗で流し込まれる、というようなことはなかったからだ。ペテルブルグでは同年代の友達もできたし、みなイリーナに一目置いていた。イリーナは得意だったが、母に見られている恐怖も感じ続けていた。イリーナの一挙手一投足は、コーチから母に毎日メールで報告されていると聞いていた。
夏休みも冬休みも、イリーナは家へ帰らず、夏期講習や冬期講習に勤しんだ。そんな彼女を、クリスマスを祝いに地元へ帰省する同僚たちは「さすが練習熱心ね」と評価したが、どちらかというと彼女は家に帰りたくなかっただけなのである。
当時ロシアには、無差別級という階級があった。幼少期からの不断なき大食いで全身に脂肪を蓄えていた彼女の階級はもちろん無差別級で、したがって減量期を必要とせず、彼女は順調に容量を増やしていった。
9歳で12.09 kg、10歳で14.24 kg、11歳で16.38 kg、わずか12歳で18.04 kgを納めることができた彼女の胃はまさに敵なしで、彼女はこの期間一度も負けていない。もちろんこの頃のベース体重も、150 kgをゆうに超えていた。
そんな折、彼女に大ニュースが訪れる。オリンピックのOhgui種目採用と公式国際ルールの制定、そして無差別級廃止の決定である。肥満や生活習慣病を助長するのはよくないと、主として医療や保険業界から圧力がかかっていたらしい。数年内に全世界の大会はIOCの定める6階級(48 kg, 52 kg, 57 kg, 63 kg, 70 kg, 78 kg)に統合され、ベース体重でのBMIが基準範囲内(18-25)という条件まで追加されるということだった。このままではイリーナの出場できる大会がなくなることは明白だ。
それからイリーナの、別の意味で苦しい戦いが始まった。要するに減量である。まるまる1年で体重は二桁まで落ちたが、そこから先が苦しかった。15歳でようやく78 kg級に出場できたが、身長163 cmの彼女のBMIは29.35で、記録の16.53 kgは「参考記録」という扱いだった。減量の途中で十分な調整ができなかったため記録は大きく落ち込み、参考記録でも入賞にすら届かなかったのがイリーナには屈辱だった。
16歳で63 kg級にエントリーし、19.14 kgという記録を残したが、それも特段、身長の高いこの階級の大人では珍しいものではなかった。このままではロシアの代表選手になれない。母は電卓をはじき、イリーナに48 kgまで減量するよう命令した。163 cm 48 kgはBMI 18、ギリギリ出場可能な数字だったのである。
17歳のシーズン最終戦で、イリーナは48 kg級に間に合わせ、記録19.46 kgで五輪代表枠を手にした。過酷な減量で身体は悲鳴をあげていたが、若さゆえに多少の無理はきいたし、何より母が喜んでくれたのが嬉しかった。
痩せて綺麗になった若き五輪代表を、メディアはこぞって特集した。母譲りの美貌は確かに彼女の中にもあり、全ロシア国民が彼女に熱狂した。母は水を得た魚のようにマネージャーとして奔走し、イリーナは母に言われるがまま、様々な取材へにこやかに応じ、依頼には断じて応じなかった。インタビュー取材の何十倍も「目の前で実際に食べてほしい」という依頼があったのだが、それらはトレーニング計画を狂わせるとして、母が片端から拒絶したのである。(拡張期の練習風景を撮影したビデオは市場に高値で出回り大ヒット商品となったのだが、それはまた別の話、いつか機会があれば語ることとしよう。)事実イリーナは非常に太りやすく、体型の維持は困難を極めた。拡張期の増量幅は5kgにおさえ、多くの期間を水泳などで減量に費やした。母は母で生きがいを再び見出したらしく、生き生きとイリーナの世話をやき、この数ヶ月は他人の目がないところでもイリーナに優しかった。昨日などは、感極まって泣き、イリーナに許しを請うたりもした。
「イリーナ、私はお前を産んで、それほど悪くはなかったの、かもしれないと、最近思ったりもするんだよ……だって自分の若さなんて、そう長くは続かないだろう? きっとそうだったに違いないさ……」
相変わらず表現は屈折していたが、イリーナは母のそんな様子も嬉しかった。そうして迎えた大会で、文句なしの自己ベスト20 kg超え。優勝候補と噂されていたファリハを破っての銀メダルだ。イリーナは異国の大観衆の中で、個人としての幸せに包まれながら、静かに母の白いハンカチを見つめていた。