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完結

結局 4 kg 祝いの方が、40 kg 祝いよりも先だった。


先輩の家で大食いした日曜の午後、体重計が4 kg増えた値(35.39 → 39.39)を指すと、肩で浅い息をしている千春を置いて、先輩は梅雨入りしたばかりの小雨の中を飛び出していった。


しばらくして戻ってきた先輩が手に持っていたのはショートケーキ。甘いものは別腹だというけれど、もう胃の隙間にケーキは入らなかった――というより、当時の千春の胴体に、もはや隙間はなかった。


だからケーキは結局、先輩が食べた。


「なんでケーキなんか買ってきたんですか!」


と先輩を小突いた千春に


「だって、お祝い事はやっぱりケーキかと思ったからさ・・・」


と、心なし、しょんぼりしていた先輩は、どこか可愛かった――今となっては懐かしい思い出だ。


「当時の」千春の胴体に、もはや隙間はなかった――と書いたのは、今ならその3倍程度は容易に納まってしまう、という意味で――つくづく人体というのは不思議なものだと思う。初めて12kgを超えたのは大学1年の時だったから、もう何年も昔のことだ。


毎日トレーニングしていると、だんだん限界を超えられるようになるらしい。あの頃「もうこれ以上は本当に無理だ」と思っていた胴の皮膚は毎日の訓練で少しずつ伸びて、そのスペースを着実に胃袋が占拠していった。内臓が全て背中側に押しやられ、胴体全部――肋骨のすぐ下から骨盤直上まで――を胃が占拠するような感覚が初めて生じたのは食量5キロを超えたあたりだったけれど、その後も胃は少しずつ前方に突き出し続け、千春の大食い記録も少しずつ伸びていった。


大きな転機は、やはり大食い道場に通い出したことだと思う。中1の7月末、伊東先輩が大食い道場の夏期強化合宿へ千春を熱心に誘い、それまで道場通いの誘いを断り続けていた千春も渋々参加した。本腰を入れて練習する気になった、という訳ではなく、当時はちょっとしたバイト感覚だったのだ。大人たちはお金を払って参加する道場だが、道場を主催するohguiトレーナーの哲学により、中高生は参加費完全無料――それどころか、10日間耐え抜けば20万ほどの賞金が出た。


賞金目当てで参加したはいいものの、合宿は想像以上に苦しかった。大人のohguiプロたちにとって、夏場は減量期や調整期なので、彼女等は夏合宿でそれほど無茶はしない。そんな彼女等の凹んだお腹を横目に見ながら、千春たち中学生は休む間もなくひたすら食事――食事に次ぐ食事の連続なのである。トレーナー(みんなに「くまさん」と慕われていた)は千春たち一人一人の限界を的確に把握しているらしく、ほんの少しでもお腹がラクになったかな、と思うと、すぐにその分の食事が強要された。


「くまさん」という名からはゴツい骨格を想像するかもしれないが、見た目は熊より猫に近い。しなやかな細身の体躯に大きな目、垂れ目がちな目尻、白い肌に映える泣きぼくろが印象的な元ohguiプロで、「久万麻美子」という本名だっただけだ。もっとも、しゃべり方や性格は確かにどことなく親父臭く、「女の子はな、中学生が育ち盛りだ。食べられるだけ食べときゃいいんだよ。一年中、拡張期だと思いな。人生唯一かつ最大の拡張期だ。減量なんざぁ、後でいくらでもできる」というのが口癖だった。


合宿はしんどかったが、先輩の応援もあり、二人は励まし合って10日間を耐え抜いた。伊東先輩にお腹を優しく撫でたり舐めたりしてもらうと、苦しさの和らぐ気がするのだった。夜食(夜トレ)の後、更衣室のカーテンの影で、伸びきった臍を舐められた時には(ここだけの話)ゾクゾクと昇天しそうなくらいだった。


合宿から帰ってきて、まる一日は、さすがに何も食べたくなかったので千春は何も食べなかった。トイレへ行くたび自分のお腹が少しずつ凹み、久しぶりに千春は、自分の足の爪を切った。


翌日先輩から電話が来て、合宿でどれくらい成長できたか量ってみようと言う。どうせそんなに変わっていないだろうと思ったら、あっさりと容量 5 kgを超えてしまっていたので、さすがに千春も驚いた(先輩も驚いていた)。


その後、時おり先輩について道場へ遊びに行くようになり、「くまさん」にも気に入られた。3月 の新人戦公式記録会で 6.04 kg (公式記録: 144.2 cm 38.5 kg + 6.04 kg )を記録してからは、その道場5人目の奨学生となり、道場通いも欠かさず、生活が完全にohgui一色になった。


あの頃が一番、充実していたかもしれない。少なくとも、辛い練習に耐えれば耐えただけ記録が伸びていくという確信があった。


高校生になり、食後のBMIが25を超えるようになってからは、階級を気にしながら、拡張期や減量期、調整期を分けるようになった。「くまさん」は「高校生だって、一日中拡張期でいいじゃないか」と主張したが、千春は太るのが怖く、道場の奨学生をやめてしまった。


今にして思えば、当時は「BMIで25以上は肥満」ということにこだわっていたけれど、食前と食後で10 kgも体重が変動するのだから、本来肥満かどうかは食前の体重で考えるべきだったはずで(151 cmの女子が食前48 kgなら、BMIは標準的な21程度)食後の58 kgがBMI 25を超えるからといって、それほど気にすべきではなかったのかもしれない。


もしあのとき、「くまさん」の言うとおりにトレーニングを続けていたら、自分はどうなっていたのだろうか――時間は戻せないけれど、そんなパラレルワールドの自分に会ってみたいと思うことはある。おそらく「くまさん」の言っていたことは正しかったのだ。最近のオリンピック選手も、拡張期は数十キロの増量すら厭わない、徹底的な詰め込みを行うと聞く。カロリーの低いohgui米でそれほど増量するというのだから、よほどの量を食しているのだろう。


--


そんなことを考えているうちに、1本目のペットボトルは空になった。


「けふっ・・・」


小さくげっぷをして、最後わずかな隙間に残った空気を抜く。


調整していない胃に、やはり2本目は少し厳しそうだ。おそらく11kg台前半だろう。油が強く、味の濃いものが多かったので、少し胃もたれがする。思えば今日は、ずいぶんいろんな種類のものを食べた。牛丼屋のテラ牛丼2杯と白米のおかわり、パックのいなり寿司と中華丼、海鮮丼、のり弁、幕の内弁当と、15品目のチキン照り焼き弁当――だったかな。特大スタミナ弁当2つと、ばくだんおにぎり2つ、普通のおにぎりが――たしか17個。それで――そうだ、さっき釜を空にして、そのあとこの2リットルペットボトルを空けようと思ったんだ。


着ていたスリップを完全に脱いで、三面鏡の前でポーズをとってみた。存在感のある不自然な膨らみは、宇宙人のようだ。そっとお腹を揉めば、薄い皮膚と筋層の下に、重量感のあるしっかりとした袋――はりつめた胃袋の存在を感じる。そのままお腹を抱くようにして、千春は毛布にくるまると、幸せな眠りについた。


--


翌年の県ohgui記録会。63 kg級に佐野千春という選手がエントリーした記録がある。152.0 cm 62.95 kg + 15.01 kg。ソフィアに認められた千春が、イリーナの訓練に付き合う過程でイリーナのohgui態度に刺激を受け、ルジャイン姉妹等と同様、大幅な増量を果たしたのかもしれないが――それらはみな、別の話。いつか機会があれば、語ることとしよう。

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