ノルマ
数回の咀嚼で、3個パックのいなり寿司は喉を通り抜けていった。商品開発部の努力の賜物だろう、まる一日コンビニに置かれていたはずなのに、とても美味しく食べることができる。ただ、お弁当は温めた方がよさそうだ。
何となく手にした箱には「特大ハンバーグ弁当」と書かれていた。表示を見ると、500 W で 3分30秒。意外と時間がかかってしまうものだ。食べることより、温めることの方が律速かもしれない。他の弁当の温め時間もおおむね2分から3分程度。弁当を電子レンジに入れてスイッチを入れ、手持ち無沙汰に携帯の画面を確認する――大丈夫、私の姿はちゃんとうつっている。気は逸るのに、することがないのも考えものだ。味が濃すぎるときのことも考えて、お米でも少し炊いておこうか。
三合釜に無洗米を入れて、急速炊飯のスイッチを入れたところで、電子レンジがパッヘルベルのカノンを奏でる。温めがちょうど終わったらしい。扉を開けると、おいしそうなデミグラスソースの匂いが漂ってきた。うん、良い感じ。次の容器(「20品目の中華丼」)を放り込んで温めはじめ、私はテーブルについていそいそと食事を再開する。箸で簡単に切れるハンバーグは分厚く、中に一層チーズが入っているみたい。しっかりとタマネギの味もする、本格的なハンバーグだ。ソースは添えられた温野菜にもマッチする、素朴かつ飽きのこないもので、思わず「美味しい!」と言ってしまった――いかんいかん、これは採用試験なのだった。ロシア人に日本人の儀礼が通じるのかどうかは分からないが、粛々と食事に専念しよう。
そんなこんなで電子レンジとテーブルを往復し、容器を4つほど空にしたところで、腰のリボンが限界になってきた。胴体がリボンの上下で軽く二つに分けられ、雪だるまのような形に見えていて面白い。カメラの前に立って結び目をほどくと、開放された膨らみが下方へゆっくりと降りていく。
「あたためるのに時間がかかってしまっていて、すみません。もっと速くも食べられますし、まだまだたくさん食べられます!」
言い訳がましくなってしまったかもしれないが、そもそも無茶な時間に突然の要求をしているのは向こうだ。時計は深夜の1時半。何の因果で一人、深夜のマンションでコンビニ弁当をドカ食いしなくてはならないのか・・・まあ美味しいから、あながち悪い気もしないのだけれど。
食事再開。リボンの締め付けがなくなった分、同じペースでも前よりラクだ。そのまま弁当の類いは難なく完食した。弁当のカラは規格が違うのか全然重ねることができず、テーブルの上で随分かさばっている。いなりずしパックと中華丼に、普通サイズの弁当4つと特大弁当2つ・・・牛丼屋での食事と合わせれば、ここまでで6キロは増やせたはずだ。そっとワンピースを見ると、もはや手をあてがわずとも、食べたものたちの片鱗がうかがえる。グレーのストライプがおへそのあたりを頂点に、お腹の部分だけ広がって、皮膚に張りついているからだ。代謝も活発になってきて、汗がうっすらにじんでいるのも分かる。まだワンピースを着替えるには及ばないだろう。もう一度カメラに寄っていき、自分の目から見えるアングルも共有する。
「おそらくいま、六キロくらいです。まだ全然余裕です。でも、ちょっとのぞきこまないと、つま先が見えなくなってきました。あとはおにぎりだけです。ペース上げていきます」
こんな感じで大丈夫だろうか。ばくだんおにぎりが2つと、普通サイズのおにぎりが17個。あのバイト青年なら、この図だけでも思い切り驚愕してくれそうだなと思うと、図らずも笑みがこぼれる。そうだ、この際、どうせならトップスピードも見せておいた方がいいかもしれない。営業はアイディアと創意工夫だって、そういえばどこかの偉い人が言っていたはずだ。
携帯を(撮影状態のまま)棚に戻し、全てのおにぎりのパッケージを外して皿の上に置いてみる。一つ失敗して、フィルムをはがすとき割ってしまったから(昆布のおにぎりだった)その場で食べてしまった。したがって皿の上には、大きく握られたおにぎりが2つと、普通のコンビニおにぎりが16個並んでいることになる。よし、いこう。
あ、その前に、水も準備しておかねば。万一のどに詰まらせたとき、飲めるものを置いておくのは鉄則だ。流しの下から常温のペットボトルを持ってくる。既にお腹がじゃまするので、流しの下のものは取り出しにくい。かがむとお腹の部分が圧迫されてしまうからだ。2リットルのウーロン茶を取り出し、キャップを開けていつでも飲めるような位置にセッティングした。
「ソフィアさま、それでは最後に、これらのおにぎりを急ぎ目で食べてみます。10、9、8、7……」
置き時計の秒針に合わせ、思いつきでおもむろなカウントダウンもやってみた。ばくだんおにぎり二つを食べて、それから小さなおにぎりに向かう方がいいだろう。おにぎりは飲み物ともいうけれど、それでも同じ味は続かない方がいい。カウントダウンする十秒のうちに、食べる順番はイメージできた。とは無心で頬張り、咀嚼し、飲み下すだけだ。「ゼロ」と言うのと同時に、私は息をするのも惜しむかのように、トップスピードの詰め込みを開始した。
小気味よいリズムで、食べ物が食道を通っていくのを感じる。喉を鳴らすたび胃が少しずつ引きのばされ、膨らみもゆっくり前に、横に、後ろに迫り出していく。おにぎり6つを食べたところで、一瞬軽い痛みを覚え、慌てて少しお茶を飲みつつ気分を落ち着けようとする。「リラックス、リラックス……リラックスせよ、楽しめ、千春。」自分に言い聞かせながら、食事を続ける。大食いは精神的な要素に大きく影響を受ける。胃が急な刺激にびっくりするのは、リラックスできていないときだ。7つめはなんとか食べきったけれど、ペースが少し落ちてしまった。ソフィアさんにばれなければいいけれど……どうしよう。何かリラックスできるものを想像しなくては……千春は8つめのおにぎりに手を伸ばしつつ、さっき見たバイト青年の顔を脳裏に思い描いた。彼ならこの様子を見て、どんな表情をするだろう? 途端、痛みはスッと引いていく。これだ! 千春は少し微笑むと、青年の表情をテーブルの反対側に思い浮かべながら、のりを巻いた米の塊を身体の中へと収納していった。
平均1つ15秒弱。上々だ。5分ほどで千春の収納作業は完了した。全ての食物が、胃袋の中へ収まったのだ。余裕のあるところを見せるため、間髪入れずに体重計へ移動する。
「ごちそうさまでした! 美味しかったです! さっそくですがこれより計量にうつります……えー、56.76なので……8.24 kgの増加ですね。10 kgまでペースメイク依頼が多いので、まだまだ私は余裕です。それでは、よい返事をお待ちしています!」
軽くお腹をつきだしてポーズをとり、携帯の撮影を終えた。時刻は午前2時10分、撮影時間は1時間59分32秒、食材調達には手間取ったが、最後に特技のスピードも見せることができたし、抜き打ちテストにしては良い出来ではないだろうか。
上がった呼吸と心拍数を整えながら、早速動画を送信する。数十秒ほどで送信が完了。あとは返事を待つだけだ。突然の大役にも動じなかった、自分(と自分の消化器)を、今日は誇ってもいいような気がする。
いつもならもう寝ている時間なのだが、なぜか青年の残像がちらついてしまい、眠れる気もしない。そっとお腹を押してみると、確かな胃の感触はあるけれど、まだまだへこむし、柔らかい。脇腹のところが少し張り出し始めているが、10 kg依頼のときはいつもここまではっきり胃の形が分かる。調整はしていなかったけれど、案外今日は行けるかもしれない。
「まだ、いけるなあ……」
感覚が間違っていないかどうか、メジャーも使って確かめる。お腹がいつのまにかぴったり張りついていたので、ワンピースを脱ぐのには少し苦戦したが、どうにかこうにかファスナーを下ろし、スリップをめくってウエストを測る。89.8 cm。うん、まだ少し余裕がある。15 kgに本気で挑戦していた頃は軽く3桁に到達していたけれど、最近は90cm前半までのことが多い。ほんの少し縦長に引き延ばされたおへそをチョンと触ると、ゾクッとする感覚が脳髄に走る。そう、これこれ。大食いの後には、こういう楽しみもある。中から伸ばされないと、この感覚は味わえないのだ。
「何か、ないかなあ・・・」
中途半端に食べ物を受け入れた胃袋を、今日は久々にパツパツまで膨らませてみたい。もう大食いする必要はないことは百も承知しているのだけれど、私は部屋の中を探し始めた。