お引っ越しのご挨拶
運命 コントロール スイッチ というお題で 書きました。
文章に お題が文字として 必ずしも登場するわけではありません。
連日の残業でボロ雑巾のようになった身体を、煎餅布団にうずめて、ようやく辿り着いた休日の安眠に私は漬かっていた。
(ピンポぉーン)
何か玄関に人の気配がする、そう思えて間もなく全てを打ち砕くチャイムがのろりと響いた。
(ピンポぉーン)
布団を頭からかぶる。平日の朝から鳴るチャイムは、どんな卑怯な勧誘かしれたものじゃない。何の接待も無い休日なんだからと、私は布団の中で土下座した。
(ピンポぉーン、ピンポぉーン、ピンポぉーン)
私は、三回連続で鳴らされたチャイムの勢いで飛び上がり、玄関を睨みつけ、ドアノブへと飛びかかった。覗き窓を確認することなく、玄関トビラを開ける。
「あ、朝早くからすみませーん。私、隣に引っ越してきた、浅川です」
二十代中盤、いや前半くらいの、私と年齢の変わらない、とても笑顔のステキな黒髪ロングの女性がそこに立っていた。慌ててドアを一旦閉め、寝癖を撫でながらドアチェーンを外す。玄関に置きっぱなしのビニールサンダルを履いて、日頃家には持ち込まない笑顔を用意し、
「あぁ、どうも平田ですー」
と、ドアを開けた。そこには、薄い桜色の口紅をさした、ナチュラルメイクの、清楚な服を来た浅川さんが、笑顔のまま立っていてくれた。
「お休みのところでしたか。本当に、起こしちゃったみたいで、すいません」
「い、いえ。いいんですよぅ。全然」
「これ、こころばかりのものですが」
両手を添えて、木箱を私に差し出した。
「あ、わざわざすいません。お気遣いありがとうございます」
「これから、どうかよろしくおねがいしますね」
浅川さんの挨拶の最後には、小春日和のような暖かな陽射しに似た笑みが添えられていた。想像とは違った玄関トビラの向こうの景色のせいか、寝間着姿を見られたせいか、わからない。私は、少し記憶が曖昧になってしまっていたのだ。
気がつけば、テレビはついていて、炬燵のテーブルの上に木箱が置かれ、私はワンルームの中央に体育座りをしていた。
隣にこれから住むという妙齢の女性が、生まれはどこか、血液型が何か、どんな来歴の持ち主か、休日がいつなのか、これから何か物語めいたものでもはじまるのではないか、といった想いを巡らせていた。
このような感覚に、自由に溺れるのは何時以来だったか思い出せない自分が居て、部屋にあるはずの箱ティッシュをどこだったかと、目で探した。
部屋に箱ティッシュがなかった事を確認すると、テーブルの上に置かれたご挨拶の品、木箱が気になっている。そこには、私の手掛かりらしきものが入っているような気がした。木箱で贈答品っていうのは、私の祖父時代の慣習であったはずだ。そおっと箱を振ってみると、
(コツ)
と音がした。今度は少し早く箱を振ると、
(コツコる)
と音がした。考えてみれば、木箱に入った何かを貰った経験がないのだし、これが無意味だと悟り、思い切って熨斗のついた木箱を開封する。丁寧に熨斗紙を外し、なんだか、中身を知りたくないような心持ちで箱の中を覗く。
そこには、リモコンが入っていた。
電源、再生、巻き戻し、早送り、消音と、並ぶボタンを睨めるようにしても、やっぱりリモコンだ。テレビとか、録画用ハードディスクデッキだとかに付属品として付いてくるやつだ。おまけに、有名家電メーカーのロゴまで書いてあるじゃないか。
一体この世の中には、引っ越しの挨拶にリモコンを贈呈する人が居るのだろうか?しかも熨斗紙までつけて。思えば、引っ越しの挨拶というものをしたことも、された事もいままで無かった。私が知らないだけで、世の中の引っ越しには、リモコンがつきものなのか。引っ越しリモコン。思わず、鼻から勢いよく息が漏れた。
いやそれとも、私は知らない内に異世界に足を踏み入れてしまって、このボタンを押すと何かが起こるのか。いや、引っ越しなら蕎麦が相場のはずだ。もう一度、勢い良く息が漏れそうになった鼻をこらえる。
ほんの小さな笑いであっても、この笑いが本物の笑いで有ることは間違いない。そんな感覚の錆付きに、リモコン一つで気づいたのだ。浅川さんのこころばかりな、木箱とリモコンの意図はわからずとも、このご挨拶の品には私の手掛かりが有り、その確証を持って、
リモコンのスイッチを押してしまうことにした。
(うわ、ア、きゃあああぁぁっ)
浅川さんの声らしきものが、私の部屋の壁あたりから響いた。
私は、顔を洗い、寝癖を直し、外出着に着替え、ほんの少しのコロンを身体にふりかけ、リモコンを手に取った。お気に入りの二万円のスニーカーを靴箱から出して、右足から履く。精一杯の験担ぎが私の背中を後押しして、浅川と書かれた表札の玄関チャイムに指をぐっと押し付けた。
一度UPした内容が納得いかないので、書き直しました。