9.権威濫用! 野獣と化した王女(と姫様)!
何故こうなる、と思いつつ海野は抵抗することもかなわない。
咄嗟に押し返すべく手を前に構えたものの、それは若干遅かった――海野のその手は王女の胸の位置で、両者の胴体に挟まれてしまう。……これでは手を引っ込めることも、さりとて彼女の胸を押しやって、王女の身体を押し戻すことも出来ない。
海野はとにかく、押し倒されまいと踏ん張るので必死になった。
「王女殿下ッ、何を――」
「抵抗しないでくださいね」
押し倒すことが出来ない、とみた王女は海野を抱き締めたままに、椅子から腰を動かし、彼の太腿の上に跨る。
対面座位の格好。
だがしかし海野は興奮するどころか、恐怖した。相手は眉ひとつ動かさずに、魔族の殺戮を命じ、築かれた屍山血河を見て笑うような人種だ。その彼女が、なぜ俺に対してこうした行動に出る? ハニートラップ、弱みを握る、脅迫――そんな言葉が、次々と脳裏に浮かんだ。
海野の至近距離にある顔が、いたずらっぽく笑う。
「私がいま大声で助けを呼べば、状況如何にかかわらず立場が悪くなるのは、海野様のほうですから」
「お願いします、勘弁してください――何の冗談ですか、これは」
「戯れではありません、真剣です。海野様によって当座の危機は去りましたが、よく考えれば我々は海野様のお働きに対して、何の対価も差し上げることも出来ないことに気づきました。そこで……」
そこまで言ったところで、王女は顔を俯かせながら、恥じらいの表情を作ってみせた。
だが一方で内心ではこの王女、ほくそ笑んでいる。これだ。これで勇者は堕ちる。一国の王女に迫られて、その誘惑を拒める男などいるものか。王女は本気でそう思っていたし、彼女自身無自覚なところでは、「この人類最後の王族であるヴィルガイナを拒む者など、いるはずがない」という自信を持っていた。
だが海野は、前述の通り最初から王女を信用していない。
彼女の行動原理は、陰謀や憎悪といった負の感情。恋愛や女性的な感情では、絶対ない。全てが政治的ななにかに繋がっているはずだ、と海野は決め付けてかかっていた。彼女は外道――実際にはそう断ずるだけの証拠を持っていないので、これはただの第一印象というか偏見に近い。
だが今回だけこの直感、間違っていなかった。
弱みを握って脅迫するつもりか、それとも子孫に好影響が及ぶのかそのあたりよく分からないが、勇者である俺の遺伝子狙いか。何が狙いなのか分かったものではない、と海野は考える。
「そんなお礼だなんて! 物資が欠乏する篭城戦の最中で、私のために衣食住を確保して頂けるだけで……」
ともかく彼は劣情を理性で制御しつつ、息もかかりそうな距離にある恥じらい顔に対して、説得を試みた。
だが王女は、頑なだ。
ふるふる、と頭を振る。
「いいえ、それだけでは申し訳が立ちませんし、私達の気持ちも収まりません」
「いやそんな、本当に大丈夫です。その代わり、と言っては失礼ですが、もしお願い出来るなら平和が訪れた後、元の世界へ帰還する方法……」
「もしかすると勇者様は、私のことがお嫌いなのですかっ」
王女は半ば叫ぶように、海野の言葉を遮った。
これには海野も、苦笑いである。こいつ、あまりにもタイミングが良すぎやしないか、とも思う。俺が帰る方法を探すのを手伝ってもらえますか、と切り出そうとした瞬間に、強引に話題を変えやがった。
「私とて恥を忍んで、こうお願い申し上げているのに……」
海野の胸に額を押し当て、顔を埋める王女。
もうこの段階で、ふたりの密着度合いは恋人同士のそれになってしまっている。
だが海野はもうこれ以上、ふたりの仲……というか肉体的な距離感を縮めるつもりはなかった。彼女の肉感、体温、香水、すべてが海野の劣情を煽ったが、一方心中で海野は「なんだこの面倒臭い女は……」と思ってしまっている。引き際が分からないのか、それとも望んだ物はすべて手に入るとでも本気で考えているのか。
海野は、やむをえない。
大嘘を、つくことにした。
「申し訳有りませんが、殿下。私には元の世界に残してきた、恋人がいるのです」
え、と顔を上げる王女。
衝撃を受けたか、彼女の拘束が僅かに緩む――それを海野は見逃さない! 椅子と自身の脚を動かして、海野は王女を多少強引に腿の上からずり落とす。王女が、あっと叫んだ時にはもう遅い。立ち上がった海野は、既に王女から数歩分距離をとっていた。
ざまあみろ、どうせ俺のことを、異性に耐性のない童貞野郎だと思ってやがったに違いない。海野は心の中で舌をぺろりと出しながら、毒も食らわば皿までよ、とばかりに「申し訳有りませんが、今後の戦況に関して気になることがありますので失礼します」と言って一礼し、部屋を出て行ってしまう。
「なんなのだ……!」
残された王女は海野が出て行った扉を暫く見つめていたが、やがてぽつりと呪詛の言葉を口にした。
あり得ない。この人類唯一の王族、ヴィルガイナを拒絶するなど。
……いや、この憤怒の根本は、そこにはない。
「その女はッ――貴様の思い人は! このヴィルガイナよりも優るというのかーっ!」
食器が放置されたままの卓目掛けて、王女は力任せに握り拳を振り下ろした。
粉々に砕ける卓。凄まじい勢いで破片が放射状に飛び散るも、【受動技能・正統加護】で保護されているヴィルガイナの身体には、一片たりとも接触しない。それでも怒りが収まらない王女は、海野が先程まで座っていた椅子を持ち上げると、壁に叩きつけて粉砕してしまった。
「何が恋人だ。所詮は王族でも貴族でもない、ただの雑種であろうがッ! その雑種に、このヴィルガイナが……!」
叫び声を聞きつけたか、廊下で待機していた多くの付き人達が、口々に「大丈夫ですか」「何がありました」と王女の身を案じながら室内に乱入してくる。
それを迎える王女の表情に、余裕はない。憤怒に燃える眼――魔族に向けられるべきその憎悪の視線が、付き人達を舐め、彼らは王女の表情とその視線から、尋常ならざる事態がここで起こったのだと知った。
「もしや勇者が、殿下に無礼を――」
「すぐにアーネ情報幕僚を呼べ。それと王立中央魔導院に、現在調達可能な薬物を一覧表に纏めて提出するように命令せよ。期日は、明日までだ!」
「はいッ、殿下。……王立中央魔導院に調査させる薬物の件ですが、特にどの種類のものを、といった指定は」
「精神面、心理面に作用するような薬物を」
「はいッ、殿下」
命令を下し終えてようやく、王女は表情を和らげる。
その顔面には自分以外の存在を、平然と見下すための蔑笑が張り付いていた。
勇者海野は、彼女の逆鱗に触れたのだ。
この私が、市井の女より劣っているはずがない――王女ヴィルガイナは海野を自分、あるいはこの正統王国の私物にすると決めた。彼が許しを請い、彼自身が自らの意思で膝を屈するまで、彼女はあらゆる手段を講じるであろう。
◇◇◇
――旧王都「ユーティリティ」、魔王軍参謀本部。
赤絨毯の敷き詰められた謁見の間に、歳若い将軍の号令が響き渡った。
「とつげきーっ! とつげきーっ! いけーっ、わるいにんげんをやっつけろ」
うおおおおん、と唸り声を上げた獅子王は、背中に乗せた幼女が振り落とされないように注意しながら、「わるいにんげん」役を買って出てもらった猿族長老の白猿に飛び掛かる。老いた白猿は心得たもので、少し取っ組み合ってからすぐに後ろへ倒れ、降参とばかりに手を挙げた。
「参った参った、助けてくれえ」
押さえつけられた白猿をみて、獅子王の背中で幼女が笑う。
たてがみを引っ掴み、堂々と身体を反らして爆笑する彼女は、「ようし、たすけてやろう!」と叫んでから、獅子王に脚を退かしてやるように促した。獣人を率いる一軍の将を操る、大器の為せる業か、それとも幼子故の無邪気さか。
これを見ていた蟻人は、「御味方大勝利、おめでとうございます」とでも言いたいのか、しきりに羽を震動させてから、自身の腕(前脚)をしきりに振り回す。
「ありさんありがと! ようし、がいせんだね!」
「凱旋。難しい。言葉。姫様。すごい」
「まあね!」
獅子王の誉め言葉に、幼女は胸を張って笑う。
「何故この時機にエリーザベト様が――」
謁見の間の隅に立つ作戦参謀エイリスは、幼女と古強者どもの戦争には加わらず、ただただそれを観戦していた。
歳若の小人族である彼女は、あまり子供の相手が得意ではない。無意識の内に、肩まである若草色の髪を弄る。作戦参謀エイリスは背が低いせいか、子供には舐められる性質であり(言い換えれば親しまれやすい性質ということになるが)、それは彼女からすれば不快でしかなかった。
エイリスの呟きに、傍に立つ参謀総長が反応する。
「戦後を見据える陛下らしいではないか」
長身痩躯の老耳長族の彼は、体力的な問題から幼女の戦陣には加わっていなかった。
無地の長衣に身を包む参謀総長は、常に自身の脚で立ち、健康体を維持しているようにみえるが、その実は身体強化系の【技能】を使ってその姿勢を保っているに過ぎない。遊び程度でも、無理は禁物である(そういう意味では、先の軍議でエイリスを押さえつけたのはかなり危険な行いであった)。
「姫様には幼い内から他族に親しみを持ってもらいたい、そしていずれは魔族融和の道を固める存在に――陛下はそう考えておられるのだろう」
参謀総長は好々爺然とした微笑を隠さず、自身の部下の疑問に答えた。
獅子王の背で戦争ごっこに興じる幼女は、長らく亜人の庇護者として君臨してきた魔王が、自ら指名した次の後継者だ。
赤い瞳と色素のない長髪。濃紺に染められた上下一体の幼児服(ワンピースの事だ)を纏う彼女は、歳相応の腕白さと気品を併せ持っている。
人外勢力間闘争の一切を停止し、魔族全体の繁栄を追求する――魔族融和の思想を唱えた魔王は、彼女の理想的な教育の場として、この魔王軍参謀本部を選んだに違いなかった。魔族各勢力の代表者や参謀達が一同に会する場など、この魔王軍参謀本部の他にはなかろう。
だが作戦参謀エイリスからすれば、ちょっとした迷惑だ。自身の上司である参謀総長が、姫の来訪を心より歓迎しているのも気に入らない。
……自然、彼女は反発を覚えてしまう。
「ここは遊び場じゃないんですよ……にしてもその魔族融和ですか、そんなもん実現するんですかね」
「人類抹殺の後、魔族間で抗争を再開してみろ。整備された大規模戦力同士の激突、禁術の応酬――この大地の生命全てが死に絶えるぞ。魔族融和は何としても実現しなくてはならん」
「伝説や矜持に固執する竜族や、脳味噌まで筋肉の鬼族とうまくやっていけますか。私はまったく自信ないですけど」
あっけらかんと言う作戦参謀エイリスに、総参謀長は苦笑する。
彼女はこの参謀本部で、一番の問題児だ。有能なのは間違いないが、面倒臭がりで楽な方楽な方へと流れようとする。もし彼女が理想や大義、目標に向かって、あらゆる困難を廃する情熱を身につけることが出来れば、きっと大成するだろう――総参謀長はそう考えていた。
「いいか。勿論、人類抹殺の暁にはそれ相応の混乱があるだろうが、それは速やかに収拾させなければならない。エイリス、姫様と遊ぶ顔触れを見て、何か思うところはないか?」
「え?」
幼女と権力者達の遊びは、また新しい局面を迎えようとしていた。今度は蟲族の代表者である大蜘蛛を加えて、獅子王に跨乗する彼女と大蜘蛛に騎乗した蟻人とで、騎士試合ごっこに興じるつもりらしい。
エイリスは幼女達を取り巻く面子を、少しの間眺め、ひとつの共通点を見出した。
「実直、というか愚直な連中が集まっているように思えます」
幼女に背中を許す獅子王、それに対峙する蟻人と大蜘蛛、声援を張り上げる白猿。
彼らはいずれも人望を集める指導者か、一本貫き通す武人然とした参謀である。
幼女が駆る獅子王は獣人陣営を取り纏める権力者であり、戦上手として知られているが、猛々しいのはその外見と運用する戦術だけ。性格は温厚であり、また魔王の打ち出した「魔族融和」にいち早く賛同した同盟者だ。多種多様な昆虫達を支配下におく大蜘蛛や、猿族の白猿も、この獅子王に近い性格をしている。
幼女の相手、蟻族の蟻人は典型的な武人、といったところか。実際のところ蟻族全体を指導する権力は、彼の仕える女王蟻にあるが、軍事を収めているのは彼である。声帯を持たないため意思疎通は苦手だが、交流ある相手との繋がりは大切にする性格らしい。
いよいよ作戦参謀エイリスにも、魔王の政治的な意図が見えてきた。
「姫様を使って、“単純な”彼らを繋ぎ止めるつもりですか」
「彼らは大義や理想、愛情のために大抵の物事を判断する。戦後の混乱の収拾に、彼らが自陣営を率いて積極的に協力してくれれば、その最中にひとつやふたつ抵抗勢力を潰すことも容易い」
「幼子を動員し、邪魔な勢力を踏み潰してでも魔族融和を実現させる――本気なんですね」
「ここで躊躇えば、将来に禍根を残す。……まあ勿論、まずは勇者を名乗る“何か”を叩き潰さねばならんが」
勇者の単語を口にする瞬間、参謀総長がほんの一瞬だが苦い表情を見せたのを、エイリスは見逃さなかった。何か因縁でもあるのですか、と聞こうと彼女は思ったが、よく考えれば、遠い昔に破滅をもたらしたとされる伝説的存在の勇者と参謀総長に、直接の係わりがあるはずがない。
代わりに、引っ掛かったところを指摘した。
「勇者を名乗る“何か”、とは――?」
「エイリス、勇者の力とはあの程度の物ではないぞ。かつてこの大地に覇を唱えた大帝国が誇る百万の将兵を、一瞬で異形に変貌させて狂気に追いやり、自然法則を捻じ曲げて多くの禁忌を生み出した……と伝説が残っている」
それに比べれば、と参謀総長は言う。
「一撃で一個連隊を吹き飛ばす程度、まだかわいいものだ。私は奴等が士気高揚の為に、実力ある魔導兵に勇者と名乗らせているのでは、と――すまん、エイリス。私はいまから中央中継器を使って、陛下と色々話をしなくてはならん」
「魔族の軍事力を統べる参謀総長どのが、勇者伝説を気にしているとは思いませんでしたよ……で、私は何をすればいいですか」
参謀総長はエイリスの問いに答えることなく、小走りで謁見の間で出てゆく。
なにかある、と彼女が思った瞬間には、遅かった。
「うりゃあああああああ!」
獅子王とエリーザベト姫の騎兵突撃。
身構える暇もなく、エイリスは獅子王の湿った鼻面に突き飛ばされ、前脚で押さえつけられていた。前脚を滑り下りた姫様は、エイリスの胸のあたりに跨ると、うりゃうりゃと喊声を上げながら軽く拳を叩きつける。
「てめ……」
口汚く罵ろうとした彼女だが、同時に四方から殺気を浴びせられるのを感じて黙った。
特に前脚でエイリスの腹を押さえる獅子王は、「続きを言ってみろ、この爪で腹膜をひき裂いて貴様の腸を引き摺り出す」、と姫の肩越しに殺気を湛えた視線を、エイリスへ向けている。これはまずい。
「うわーなんてつよいんだーひめさまはー」
「きしゅーせいこうだね!」
喜ぶエリーザベト姫と、破顔一笑したか柔らかくなったように見える獅子王の顔を見て、彼らをうまく計画に乗せ続けることが出来るだろうか、と作戦参謀エイリスはふと不安に思った。
そして、勇者とはなんなのだ。
所謂『勇者伝説』に語られるような――興味本位で召喚した大帝国を滅ぼし、当時の王族達を異形へと変えた怪物など、本当に実在したのか。
そして此度、唐突に現れた勇者はそれと同一の存在なのか――。




