22.笑う王女。そして、大戦前日。
勇者海野が戦死した旨を、情報幕僚アーネ・ニルソンから伝えられた正統王女ヴィルガイナの反応は、極めて乏しかった。ほとんど無表情に、「そう」とだけ呟き、うなずいただけ。驚愕も何もない。
勇者海野が戦死した以上、現在小康状態を迎えている戦況は、一挙に崩れる。おそらく明日、明後日には、魔族攻囲軍約90万が大挙して押し寄せ、これを人類軍約1万で以て阻止する――勇者召喚以前の、地獄の日々が再び始まることは間違いない。
だというのに、ヴィルガイナは動揺さえしなかった。
自室の豪華な寝台の上。
報告を聞いたヴィルガイナは、少し考えてから、「いいじゃないか」と呟いて、むしろ凄惨な笑みを浮かべたほどだった。
彼女の前に跪くアーネは、表情にこそ出さないが少々困惑した。様々な人種を見てきたその黒い瞳を通してもなお、絶望的な将来を予見して笑う王女は、不可思議な存在だった。
「殿下。勇者の死を内部に対して秘匿することは可能ですが、城塞都市外に対しては不可能です。本日内に勇者戦死の報は、魔族側に知れ渡るかと。再び魔族による侵攻が――」
「アーネ、私はそんなに馬鹿じゃない」
「申し訳ありません」
「もう勇者抜きで勝つつもりだ。私は。……で、勇者の死は秘匿されているのだろうな」
勇者戦死の件が無制限に広がれば、市民は恐慌に陥り、城塞都市は防戦以前に内部崩壊するかもしれない。
また亡命政府の高官がそれを知れば、また面倒臭く騒ぎ立てるであろう。正統王女として、それは御免こうむりたいところであった。
そのあたり、勇者の死に伴う諸問題については、情報幕僚アーネも理解している。
「はい。正統王国軍情報部は、既に海野陸の遺体を回収。分析を済ませ、集団墓地に義勇兵のひとりとして埋葬致しました。周辺調査も完了しております。幸いにも海野陸戦死の瞬間を目撃していた者は少数であり、情報漏洩の可能性はありません」
「少数? 何名だ。市民か? 既に拘束しているのだろうな」
内訳を問う王女。彼女の脳内には、冷徹な思考がある。
少数の目撃者がもし一般の市民ならば、殺害してその口を封じてしまうべきだ。
「目撃者は2名です。ひとりは正統王国軍所属の人類軍統合幕僚会議付警備士官。もうひとりはソヤス共和国合議会共和議官、ボーツキャ・ラファーレン」
情報幕僚アーネは、目撃者の情報を澱みなく話す。
「両者への処置ですが、現在両者ともに情報部の管理下にあります。前者は敵と交戦し、瀕死の重傷を負っているため、情報部が管理する病室にて治療中。後者は情報部の地下施設に、事情聴取と称して軟禁中です」
「成程」
正統王女は、5発音間だけ彼らの処遇を考えた。
まず前者。軍人は案外、縦横の絆が強固だ。
不用意に士官を消せば、その死を詮索する同僚や上官が、現れるとも限らない。その過程で勇者の死が露見すると、面倒臭いことになる。
後者もまた、旧ソヤス共和国の難民や、他国亡命政府高官との関係を考えると、気軽に始末へと踏み切ることは出来ない。
「……前者は監視下で治癒を継続。後者も同じだ。但し議官は、多少頭が回ると困る。待遇に不満を述べたり、“勇者の死”を交渉の切り札にする素振りを見せれば、適当な罪状を捏造し――そうだな、魔族の捕虜と同じ檻にでもぶちこんでおけ」
「了解致しました」
情報幕僚アーネは、無感動に頷いた。
この瞬間、勇者海野陸は誰にも省みられることなく、弔われることなく、異界の地に眠ることが決まった。
だが覇道を往く正統王女にとっては、勇者の死を隠匿など、路傍の石をどこに捨てるか、どこに隠すか程度の話に過ぎないらしい。
「次の議題だ。王立中央魔導院院長に、こう伝えろ。――」
「――“現在試験段階にある戦備を、即時実戦投入可能な状況に。更に所定の全計画を即時発動可能の状況にせよ”――これが殿下の御命令だ。どうも、勇者が不調らしい。……期限は、翌日。」
散らかり放題の会議場に集った王立中央魔導院の研究員達は、一斉にどよめき、周囲の同僚と顔を見合わせ、上司の表情を注視した。不敬かつ軽薄な連中の何名かは、「そんなの不可能だ」と愚痴を零す。
正統王女の言葉を告げた院長は、慌てふためいて叫んだ。
「おいおいおいおいッ。ちょっと静かにしろ!」
無理だ、と呟く研究員達を黙らせ、不満顔の班長らに目線で謝る院長。
肩書きと知識量以外は、ただの中年男性と変わらない彼もまた、泣きたい思いで皆の前に立っている。
(明日の現在までに、全計画の完成……俺だって出来ると思っちゃいねえ! 不満たらたらなんだよ。でもだからって、王女殿下に言われて「それは無理です」なんて言えるわけねえだろうが!)
だがしかし座席に座る班長らから、その背後に立つ経験豊かな研究員や熟練の技術者、その背後から壁際まで部屋を埋め尽くし、廊下にまではみ出した平の研究員達の騒擾は、中々収まらない。
「院長ッ――対術班と致しましては、『異空間を利用した先進的防御措置』の実戦化に、あと数日は必要です」
「こっちもそうだ! 【異形変容】の照射機さえ、漸く数基が正統王国軍に引き渡せたところなんですよ!」
「殿下は我々を過労死せしめる御積りなのですか、院長! 我々の死を以て、現在の全計画が完成するのならば、喜んでそうしますが! ですが不眠不休で働いたとしても、期限が翌日でも作業の進行具合はたかが知れている! 実際的に不可能だ!」
城塞都市攻防戦の開始から、研究員らは殆ど眠っておらず、【勇者召喚】や【異形変容】といった新技術の開発に奔走してきた。それだけに飛び交う言葉は、かなりきつい。殺気立っている。
正統王国軍や外部組織との折衝から、技術開発の陣頭指揮まで執ってきた院長も、同じ気持ちであった。
特定の魔力波を激突させることで、空間に歪みを生成し、特定の物体を喚び寄せる【勇者召喚】。この末期戦の最中に、前代未聞の新技術を実用化させただけでも、万に一つの奇跡だったのだ。既に研究員達や技術者らの体力は、尽き果てている。
「なあ。分かってるよ俺だって。常識で考えれば、絶対無理だ! だがしかし、これは殿下の絶対命令だぞ!」
「命令? 上の連中は命令すれば、実物が出てくると考えているのでは!?」
「貴様ッ、不敬だぞ! 畏くも正統王女殿下に――!」
「静まれええええええい――!」
囁きと不満の声、反論、その全てを怒声が上書きする。
騒然とする会議場が、一瞬で沈静化した。平の研究員や技術者らは勿論のこと、班長や主任といった中堅の研究員らまでもが、ぎょっとして声の主を見つめた。
彼らの視線の先には、よれた白長衣を纏った老人。最古参の研究員、文献班長が居る。うだつのあがらないその風貌が、いまは力強く、心強く見えた。
文献班長と付き合いの長い院長でさえ、肩を怒らせ、双眼をぎらぎらと煌かせる彼を見たことなどない。
「我々は人類の叡智。先人達が築いてきた文明の、歴史の、継承者だ! その我々が無理だ、不可能だと認めることはッ――全人類文明の敗北を認めることと同義!」
「文じい」
「現在も最前線に立つ王国軍将兵を、魔族どもと血みどろの闘争を繰り広げる義勇兵らを思え! 彼らを援護する、そういう気概がなくてはならん」
言い切る文献班長。
最早、不服の言葉を口にする人間はいなくなった。
だがしかし研究員達の顔には、未だ暗澹とした表情が張り付いている。やるしかないが、やり遂げる自信はなかった。時間的に、不可能なものは不可能なのだ。
……そのあたりを、文献班長も理解している。
「さりとて。崇高な精神、使命感のみではどうにもならん。どうにもなるならば、我々は今頃魔族を皆殺しに出来ているはずだ。そこで――」
「何か策があるのかッ文じい!」
「……優先順位をつけよう。最初から全部の計画を遂行するのは、土台無理な話だ。故に明日以降、戦場にて必須になる戦備から整えよう」
この爺、何を言い出しやがる。
微妙な空気が、会議場を支配した。王女殿下の御命令は、“全計画、全戦備の実用化”。取捨選択など、許されるはずがない。
「文じい、そりゃ通らない」
院長は会議場が再び混沌とした状況になるのでは、と危惧しつつ、文献班長を諭す。
だがこの老人、どうやらただただ無駄に歳を食ってきた訳ではないらしい。彼は幾度か深呼吸し、昂った感情を落ち着けると、淡々と話し始めた。
「……王女殿下には、私が話をつける」
「文じい、正気か? 取り次いでさえ貰えるか分からないし、それに」
「14年間。私は研究の傍ら、正統王女ヴィルガイナに教育を施していました。君主論、一般教養の教師だった」
「はあ!?」
「教え子は師の言うことを聞くものです。まあ元教師の話に耳を貸すようでは、君主としては失格ですが――まあ説得してみせますよ」
苦笑する文献班長。気軽に言ってのけるあたり、底が知れない。
だがしかし彼の言葉で、会議場の研究員達は蘇生する思いがした。議論も自然、活発化する。勿論、前向きな方向で、だ。
「対術班。『異空間を利用した先進的防御措置』だけど、これはあと機材を製作するだけだろう? 理論は完璧、というかもう異世界とこっちを繋ぐことには幾度も成功してるんだから、実験の必要がない」
「早速、機材設営します。これで魔王軍砲兵連隊の砲撃を全て吸収出来る」
「じゃ攻撃は」
「発想勝負ですよ。【勇者召喚】は、大質量の物体を喚ぶことも可能だ。うまくやれば――」
白衣を纏った研究員や、薄汚れた作業服を着た技術者達は、すぐに仕事に取り掛かり始めた。目標が定まったならば、後はもう達成することを考える。一唱、一発音間も無駄には出来ない。
直接的に戦備とは関係のない文献班も、すぐさま会議場を出て、関係各所への折衝へ出掛ける。やることは多い。軍部に掛け合って、必要となる機材や人員を調達したり、また前線部隊指揮官との事前打ち合わせ。政府高官にも新開発の技術について、一通りの説明だけはしておかなくてはならない。
そして大見得を切った文献班長は、すぐに身嗜みを整えて、正統王女の許へ向かう。
◇◇◇
その日の晩は、人類軍も魔族攻囲軍の陣地からも、夥しい数の炊煙が上がった。翌日以降は、暢気に炊事をする余裕もなくなる。少なくとも数日後まで必要となる給食分を、今夜中に纏めて調理してしまおう、と両軍が考えた結果であった。
「やはり日昇と同時に、敵方は攻勢を再開するようですね」
「ああ。俺達の真正面、15000歩間(=7500m)先で飯を食ってるのは、獣人ども3000匹。その後詰は、定数20000名の魔王軍歩兵第1師団だ。明日一日耐えられるかも怪しい――怖いか?」
「いえ。むしろ思ったより、生き過ぎています。きょう生きて敵情を眺めているのが、奇跡のように思えてなりません」
廃墟の最中を歩き回り、単眼鏡や望遠系の【技能】で敵情を探る、監視兵や斥候らは、今夜が最後の静かな夜となることを確信していた。
夥しい本数の炊煙もそうだが、前線に蠢く敵影の動きが、いよいよせわしない。攻撃発起点への兵力移動が、始まっている証拠であった。偵察目的か、数騎の翼竜騎兵も、頻繁に頭上遥か彼方を飛んでゆく。
正統王国軍を中核とする人類軍は、防御施設の補修や急造に余念がない。
埋設式の火薬や鉄線で出来た妨害用の網を、要所要所に設置。また射界や射線が通るように、適度に瓦礫を片付けていく。
将兵が食事に割く時間は、極めて短い。一兵卒から連隊長まで、食品を胃に流し込んでそれで終わりだ。睡眠も、交代制で幾らか摂る。後は全ての時間を、防戦に利する工夫を整えるために注ぎ込んだ。
「貴官らの奮励努力、確かに見届けたぞ」
「王女殿下……!」
「明日は艱難辛苦の一昼夜となろう。頼りにしている」
その最中を、完全無欠の貴人が往く。
一瞬だけ作業の手を止めた将兵達は、脳裏に彼女の姿を焼きつけた。
武器も防具も身につけず、ただ純白の婦人服を着た彼女は、ただ老人ひとりのみを連れて戦場を回る。正統王国軍将兵の――いや、全人類の精神的支柱、王女ヴィルガイナは、その眼で自身の忠実な駒を見、そして声を掛けてゆく。
自然、士気は上昇する。
貴人が前線へ姿を現してくれることが、単純に嬉しい。また自身が戦死したとしても、目の前の正統王女さえ健在ならば、残る家族の生活は保障されるはず。そうした確信が、彼らの間でより深まる。
その後、正統王女ヴィルガイナと、彼女の師である文献班長は、王立中央魔導院が主導し、前線各所に配置が進む設備を見学。
続いて最前線を見て回り、大隊、連隊本部を訪問すると、それで帰路につく。城塞都市を防御する戦線は、そう長くはない。縦深もないため、女と老人の足でもすぐに巡回し終えてしまう。
「ボルドレエル」
「は」
「歴史学の権威らしく、為政者の私を評価せよ」
市街に入った辺りで、ヴィルガイナは2歩後ろを歩く自身の師へと話を振った。
唐突な問い。皺だらけの白衣ではなく、執事めいた黒服に身を包んだ文献班長――アンセバス・ボルドレエルは、少し考えてから慎重に返事をする。
「為政者への評価は、後世の人々が下すものです」
「後世の評価、ということは、未来か。つまり人類が魔族を打倒し、繁栄している世界での話だ。私はさぞ高名だろうな。“人類の母”“城塞王女”と呼ばれているかもしれない」
「……まあ“彼女の存在抜きに、今日の人類文明、その繁栄を語ることは出来ない”と語られているかもしれませんね」
文献班長は、苦笑混じりに語る。そういえば殿下は幼い頃は、やけに周囲の目、評価を気にするお方であった、とも彼は思った。
正統王女ヴィルガイナの横顔には、薄い笑みが浮かぶ。
だがしかし、すぐに表情は曇った。更なる質問が為される。
「私の負い目は、どう考えられていると思う。例えば明日の一戦や、将来――いやこれまでの謀略や非博愛的なやり口について」
「それについては賛否両論、ですか。人魔両種を滅ぼしかねない、大破壊を巻き起こした独裁者、と評する者もいるでしょう。ですが概ねは、人類存亡の危機に形振り構っていられなかったのだ、と擁護する実際的な意見。そちらが大勢を占める、と愚考致します」
「そうか……」
何かを後悔するような声色。国民の前では勿論、側近にさえ見せることのない弱気を、正統王女ヴィルガイナが見せていた。
対する文献班長は、これはよくないと思う。
最高指導者が物事に躊躇すれば、国家は迷走する。
「ヴィル、貴女は覇道を歩み始めている」
彼は一瞬だけ、十数年前に立ち返った。まだ国王も王妃も王太子も健在だった頃、現在のように、過剰なまでの儀礼が要求されていなかった頃に。純粋なる師弟の関係に戻った。
教育係のアンセバス・ボルドレエルは、言う。
「今更、操作する駒や切り捨てた札のことを考えてはいけない。中途で彼らを省みて、半端にその手を抜くことがあれば破滅します。しかも貴女ひとりではない、全人類が、です」
「……」
「後世の評価を気にするのであれば、それこそ貴女を建国の祖とする大帝国を――」
「いや、分かった。講義はもう、うんざりだ」
ヴィルガイナは、さも不快げに話を切り上げた。
だがしかし言葉と裏腹に、その表情は緩んでいる。逡巡や躊躇いを振り切って、いよいよ彼女の覚悟は固まった。このまま良心や人の情を無視し、謀殺した肉親や、使い潰した人々を省みずに往く。
正統王女ヴィルガイナが人類軍統合幕僚会議へ、文献班長アンセバス・ボルドレエルが王立中央魔導院へ戻ってから少し。
……太陽が顔を出す間際、遂に魔族攻囲軍が攻撃を開始する。
次回、23.大崩壊(前)――「私達の世界の終わり、そのはじまり。」




