16.共和議官、女性士官、戦傷兵は思う。
目覚めは、最悪だ。
先日の仕打ちもさることながら、正統王女に与えられた一室で目覚めること自体が、屈辱的であった。見慣れてしまった鈍色の天井。常時、光源を無機質な魔力光に頼っている以外は、快適な部屋が、憎たらしくて仕方がない。
綿と羽毛がふんだんに使われた布団から身を起こし、表面を丁寧に仕上げられた木製の寝台から飛び降りると、壁に掛けられた共和議官の制服、濃紺の上着に手を伸ばし――躊躇して止めた。
「……」
淡い水玉模様の寝巻きを纏ったまま、彼女は立ち尽くす。
茶けた髪の寝癖も直そうとせず、鳶色の瞳は遠くを見つめる。
彼女。ボーツキャ・ラファーレン共和議官は、この正統王国においては無力に過ぎた。
祖国――15万の職業軍人と優れた国民動員制度を有し、魔族領と接していた関係から「人魔闘争の最前線」「人類領域の守り手」を自認していた大国、ソヤス共和国――は既にない。2000名の共和国民が、正統王国の温情、あるいは正統王女の政治的配慮か、気まぐれで生かされているだけに過ぎない。
それだけでなくラファーレン共和議官は、共和国最後の選挙で初当選を果たした、所謂「幼竜議官」であった。しかも手腕や能力を買われてではなく、ただ可愛いらしいから、という理由で、不純な男性票を集めての当選。
冷酷非道の王女から、戦場上がりの将官、自己保身だけには長けている他国高官まで、油断ならない人種が集まる人類軍統合幕僚会議において、権力基盤も実力もない彼女が、存在感を発揮することなど出来るはずがなかった。発言力は、皆無だった。
つい先日まで彼女は、それでいい、と考えていた。
無能であるからこそ、私は正統王女に生かされているのだろう。また彼女とて、一度受け容れた避難民を見棄てるはずがない。とりあえず統合幕僚会議には出席するが、正統王女や正統王国関係者に逆らわず、おとなしく目立たないようにしていればいい――そう考えていたのだ。
そして、“100年前殺し損ねた子竜が、王国を滅ぼす”ではないが、その日和見の代償は高くついた。
動屍騒動の最中、勇者による攻撃により、動屍ともども共和国市民数百名が蒸発した。
「ラファーレン共和議官殿」
彼女がひとり、後悔と自責の念に駆られていると、部屋の外で声がした。
数日前から自身の警護を担当してくれている女性士官のものだ、とラファーレンはすぐに気付いたが、だが彼女は返事をするのを躊躇った。まったく身支度が出来ていない。
「え……あ……」
部屋と廊下を仕切る木製の扉を見つめたまま、どうしよう、と彼女が迷っていると、外から聞こえてくる声の語調は、急に荒くなった。
「共和議官殿、失礼するッ!」
次の瞬間、扉が吹き飛んだ。
粉々となった木板と、補強に使われていた金輪が、一緒くたになって室内に飛散する。弾丸めいて虚空を翔る金具の幾つかは、壁に減り込み、また寝台の脚部を穿った。
と、同時に扉を蹴破った犯人――女性士官が、部屋内へ進入する。
右手に長刀を握り、前へ翳す左掌に魔力の燐光を纏わせながら、女性士官は部屋中に素早く視線を走らせる。部屋の片隅には、伏せた姿勢をとる共和議官。視界に、敵影はない。
「大丈夫ですか?」
言いながら、暗灰色の戦闘服を纏う女性士官は、全く気を抜いていなかった。彼女――エイテリナ・ボルドレエルは、左掌から魔力波を照射し、不可視の敵を想定した索敵を行いながら、床に臥せったままのラファーレン共和議官に呼びかけた。
「返事をされないので、何かあったのかと」
「……」
貴女のお陰でたったいま死にそうでしたよ、とは言わず、ラファーレンはうつ伏せたままに首をただ横に振る。
一方のエイテリナは、左掌から放った魔力波が、壁や床に衝突して真っ直ぐ帰ってきたのを確認してから、片刃の長剣を鞘へと戻した。どうやら本当に、賊の襲撃でもなんでもない、と納得したらしい。
蹴りで扉を破壊したことなど、気にする素振りも彼女は見せない。
「ご無事で何よりです。では、共和議官殿、参りましょうか。本日の統合幕僚会議は、皆様集まり次第の開始ですから、あまり遅れてゆくことは得策とは言えません」
「少し待って頂けますか」
「……なるほど、確かに寝巻き姿ではどうにも。では、私は外で待機致します。準備が終わったら、声をお掛けください」
扉を失った枠を潜り、廊下へ退出した女性士官は、「何をやっている」と苛立たしげに呟いた。その怒りは、共和議官に向けられたものではない。憤懣は軍組織の人事や、不甲斐ない自分自身に対して募っていた。
野戦将校として戦場で活躍し、戦局転換の一助にならん、と軍官学校を卒業した彼女だが、卒業後に与えられた職務は、中隊本部付警備小隊の小隊長。先の戦闘で中隊本部全滅の憂き目に遭った後は、この安全な後方で共和議官の警護を任されている。
卒業直後は警備小隊の小隊長、先の戦いの中隊本部全滅の責任を問われることもなく、今度は安全な後方の警備任務。彼女自身、心当たりはある。
「第7歩兵連隊連隊長、ウォウケ・ボルドレイル。任務中行方不明。
正統王国教導第2戦闘団団長、セイシリアス・ボルドレイル。任務中行方不明。
612中隊中隊長、ベイシェリケ・ボルドレイル。任務中行方不明。
733中隊中隊員、ホウネット・ボルドレイル。戦死。
622中隊砲操作員、ヴァルミリア・ボルドレイル。戦死。
東部師団司令部直轄魔導兵団1等魔導兵、イーゲル・ボルドレイル。任務中行方不明――」
才能の有無に関わらず、正統王国に尽くすエイテリナ・ボルドレイルの一族は、この人魔闘争の最中にほとんど落命している。彼女の父母、兄姉は、みなこの戦争で死んだ。
おそらくエイテリナが後方任務を任されているのは、これが関係している。彼女が物心ついた頃から王立中央魔導院に務めている祖父、キソガ・ボルドレイル文献班長が、手を回しているに違いなかった。
「……魔導院が、余計なことをしてくれる!」
◇◇◇
日は高い。正午。暖かい陽射しは、平等に鈍色の街を照らす。
いま城塞都市のあちこちでは、炊煙が濛々と上がっていた。砲爆撃を奇跡的に生き延びた民家のかまどや、あるいは焚き火に掛けられた鍋で、粒が残るほどの重い粥や、幾つもの種類の野菜が煮込まれた汁が作られている。
「すごい!」
粥と漬物が一緒に盛られた器を受け取った幼女は、すごいすごい、と歓声を上げて喜んだ。
中でも大規模な給食が行われたのは、動屍の群れを一撃で葬った勇者の攻撃により、更地と化した市街地の一角であった。
臨時のかまどと小隊・中隊用の調理大釜で、膨大な量の穀物と野菜が、凄まじい勢いで調理されている。白と黄の穀物を混合した粥と、野菜を煮込んだ汁、菜っ葉と白い根菜の漬物が、この昼に配給される食事であった。
「おもゆ(※)じゃないんだ!」
「ああ。これも王女殿下と勇者様のお陰だ! おかわりもあるぞ!」
(※ 重湯。通常の粥より、穀物に対して水の割合が多い)
市民達の表情は、明るい。
まず白昼堂々と炊煙を上げて、食事準備をすること自体、翼竜騎兵と砲兵連隊の脅威に晒されていた頃には、考えられないことだった。以前まではこうした配給待ちの行列は、翼竜騎兵の空襲や、翼竜騎兵から位置情報を受け取った砲兵の、格好の標的であった。
……いま、人々は、勇者が取り戻した昼の時間を謳歌していた。
「有難うございます」
またひとり、器を受け取ろうとする。
濃緑と褐色まだら模様の長衣を纏い、枯葉や枝を貼り付けた帽子を被った男は、礼を言いながら、右掌だけを係りの義勇兵へ差し出した。過去の交戦で手酷い火傷を受けた男の左手は、指同士が癒着して、半ば使い物にならなくなっている。
「いや。感謝の言葉を述べるのは、こちらだ同志」
義勇兵は男が右手で器を持てるように、細心の注意を払ってやった。
配給担当の義勇兵達は、彼のことを知っていた。
「我が国はいま命脈を保っているのは、貴国軍の奮戦あってこそだ」
男はソヤス共和国か、あるいはどこの国は忘れてしまったが、元外国軍の戦傷兵だ。
市街戦を念頭においた、暗灰色の戦闘服を纏う正統王国軍将兵にしてみれば、森林戦を想定した長衣を着た戦傷兵。しかも外国人にも関わらず、正統王国語も理解するあたり、大変珍しい存在だった。
粥がなみなみとよそわれた木器を受け取った戦傷兵は、器の中身や粥を作った大釜の隣、野菜たっぷりの汁を作っている鍋を見て、埃と垢で汚れた頬を緩ませてから、おずおずと聞いた。
「では同志、ひとつ聞いていいですか」
これに対して、如何にも実直そうな人の好い義勇兵は快諾した。
「ああ、機密じゃないことならなんでも聞いてくれ」
実を言うと彼は先の動屍騒ぎで、この戦傷兵に助けられている。彼が操る【誘導魔弾】は、一撃で動屍の頭部を吹き飛ばす威力があった。連射が利かないために殲滅とまではいかないまでも、このあたりの防衛線を維持するにあたって、彼はかなり活躍した。
そういう関係もあり、義勇兵としては出来得る限り融通を利かせてやりたかったのである。
「……まあ俺達が、そんな機密情報を持っているはずないけどな」
「では――なぜ配給量が増えたんですか? 見たところ、質も良くなっている。王女殿下の慧眼、勇者様の威力は確かに凄まじく、魔族攻囲軍100万にも引けをとらない。ですが、あの人外どもに占領された農耕地の奪回は、まだでしょう?」
戦傷兵だけでなく、義勇兵も一般市民も気付いているであろう。
何故か食事の量も、質も上がっている。都市部に食料を供給する農村部を、魔族側から取り返したわけでもないのに、である。
単に溜め込んでいた食料を、急に放出し始めただけだろうか――と最初、戦傷兵は思ったが、明らかに質が違う。というよりも、穀物の種類が違う気がする。だいたいきょうの献立、野菜を煮込んだ汁に使われている生鮮野菜は、どこから来た?
ばつが悪いのか、義勇兵は顔色を少し変えた。
「……おかしいとは思ってるさ。あれを見な」
彼が一瞬だけ動かした目線の先には、何かがずっしりと詰まった袋がある。茶色や白色。材質は見るだけでは分からない。当番の義勇兵がその袋を持って、中身を大釜に入れているところを見ると、中身は穀物だろうか?
「袋ですか?」
「あの袋、なんて書いてあるかわかるか」
「いや、見たことありませんね。共和国語でも、正統王国語でもない。文章、文字というよりは記号ですか」
「やはり外国の同志、そう見えるか」
穀物が詰まった袋には、四本の棒線――ふたつの十字を組み合わせたような記号「米」や、角ばった記号「日」が大書してあり、また判読不可能な文章が色々と書いてある。
語学には自信がある戦傷兵だが、それは彼にとっても未知の文字だった。
義勇兵は溜息交じりに言う。
穀物と野菜の「根本的な」出所は、分からない。ただ義勇兵や自警団は、正統王国軍の物資集積所からこの食料を受け取り、炊事して配食しているに過ぎず、少し不気味ではあるが食べられないどころか味もいいし、量もあるので躊躇せず調理したのだと、彼は戦傷兵に語った。
「妙なことをお聞きして……申し訳ありません」
義勇兵から回答を聞いた戦傷兵は、右手に持った器から粥をこぼさないように気をつけながら、配給の列から離れた。
柔らかい表情の下には、恐怖や憤りが隠されている。
彼は、心中で「正統王女は、底知れない怪物だ」と呟く。
外国の領域と諸国軍、人民のすべてを時間稼ぎに使い棄て、自国民――全人類の生命を、勇者召喚という得体の知れない博打に賭けた。
王女は、たまたまその賭けに勝った――と彼は今まで考えていたが、存外それは、単なる運任せの賭博ではなかったのかもしれない。
正統王女には、100万の軍勢を打ち倒す戦力と、復興の為に必要となる物資を調達出来る確証が――数多の人類国家を魔族に潰させた後、魔族を根絶し、勇者の力と潤沢な物資を背景に、新たな大帝国を打ち立てる大戦略が最初からあったのかもしれない、と戦傷兵は思っている。




